試験管の中の数学

割引あり

 私はいわゆる「物理学者」と「数学者」が嫌いだ。しかしその嫌いな理由は正反対である。
 物理学者はありとあらゆる学問に口を挟んで物理学として理解しようとする。そして何ら新しい知見を残さない。経済物理学などは「だからなに?」という以外の感想がない(無論、時代が進んで有益な知見を残すに至っているかもしれないが)。
 数学者は、それとは反対に、数学の世界から出てこようとしない。彼らがどのように日常生活をしているのか不思議なくらいである。数学者はほんとうに数学しか興味がないのだ。
 とある場所で「日常生活と数学」に関する問題を作問する必要があると主張している数学の先生に出会ったので、無差別曲線と予算制約線の関係から不定方程式と関数の問題をつくるのはどうかと提案した。ちょっと経済学をかじれば思いつく話である。数学は偶然にも世界の役に立ってしまっているのでいくらでも適例はあるはずなのだが、どうも手元では見つけづらいらしい。

 数学者は数学から出てこない。しかしこれは仕方のない面もある。数学という体系がまさに数学として閉じてしまっているからだ。
「数学より厳密な論理体系はあるか」と問われたので、酩酊していた私は「それは思い上がりだ」と返した。あるなしを訊かれたので”厳密には”答えになっていないのだが、ただ返答としては間違っていないと考えている。

 数学は公理主義という論理体系を厳格に守っている。これは

 ある出発点となる公理系を定め、そこから論理的演繹を重ねることによって数学の体系をつくる

 という宣言のようなものだ。この論理的演繹を重ねる手続きを「証明」と呼び、いったん証明されたものは誰がどうみても反論する余地がない。証明の手続きを経たものは自動的に真であることが確かめられる。全員が賛成する言明を「定理」と呼んで、そこからさらに議論を進めることもできる。
 これ以上に厳密なものがあるだろうか。特に、証明という手続きを踏めば自動的に完璧な説得力を具備するというのはきわめて強力である。こんな学問体系は他におそらくないだろう。他の分野であれば、前提から結論に至るまで「異説」を完璧に排除することは不可能である(誰かが唱えるだけ唱えてしまえば”完璧に排除”したことにはならない)。

 数学以上に厳密な論理体系はない。ただ、これ以上に儚い論理もまた存在しないだろうと思う。そしてそのことについて、おそらくフレーゲやラッセルも気づいていたのではないだろうか。

 論理を扱う分野は数学以外にもたくさんある。簡単にいってしまえば文系学問だ(数学以外の理系学問はすべて帰納的推論しかしないので演繹的体系の比較対象にはならない)。神学、法学、哲学、心理学などの分野は、論理によってその妥当性を検証される。
 たとえば法学は法的三段論法をはじめとする論理によってその妥当性が担保される。条文があり、定義があり、事実の分析とあてはめを通じて結論を導く。条文の解釈や定義のありようについては議論があるが、一旦決まってしまえば強い説得力をもつ結論に至る。
 しかし法学は数学とは異なり「証明」という手続きを持たない。だからどんな論理をもってしても異論を排除することは不可能である。どんな問題にも2つ以上の学説が存在し、どんな論点でも異論を挟むことが可能である。ただ論理の明快さと説得力の強さ、実務上の通例、そして生活上の問題との兼ね合いで理論の強さが決まる。
 だから、国家が人を死刑にする論理がきわめて強固であるといえども、数学の証明ほど明快ではないし、厳密でもない。少なくとも死刑囚(とその弁護人)だけは反対論を主張するだろう。裁判所がそれを排斥したとはいえ、それはやむなくそうしたに過ぎない。民主主義や罪刑法定主義にはじまり、趣旨規範から事実の分析を経て死刑を宣告するその手続が如何に厳格であっても、避けられないことだ。
 
 しかし異論を挟むことができるとはいえ、それにも限界がある。例えば死刑囚となった被告人がこう叫んだとしようーー
「わたしは法学の体系を知らないので死刑になることはありません」
 
はて、そんな抗弁が許されるだろうか? 
 誰か人を死刑にする際、被告人が死刑の論理体系を受け入れている必要は一切ない。つまり法学は(それ以外の学問もそうだが)法学という体系の外にその説得力を持ち出すことが可能である。もちろんその効力も持ち出すことができる。法学という体系に則って死刑を宣告し、その体系を理解しない死刑囚に(むりやり)適用することができるのだ。

 しかし数学はこれができない
 数学の論理体系とは、採用した公理系から演繹的に導き出した結論までの流れをいうわけだが、その流れを数学のそとに持ち出すことができないのだ。
 だから死刑の論理が数学でできていたとすれば、死刑囚は単にこう宣言するだけで死刑を免れる。

私はその公理系を採用していません。

 証明というのは同じ公理系から始まった演繹的手続であり、違う公理系にそのまま当てはめることはできない。裁判官の公理系と死刑囚の公理系が異なるのなら、判決文で長々と読み上げられた証明は別の公理系である死刑囚に何らの効果も及ぼさないのである。

 数学は数学の体系の中でのみその論理が適用される。そしてそれは、数学という体系から一歩外に出てしまっただけで、数学という論理体系が一切の効果をも持たないことすら意味する。

 ではこの自然界、はたまた日常生活全般にわたり、ありとあらゆる現象がなにかの数学的体系、例えばZFC公理系を採用している例などあるだろうか。もちろん皆無である。
 いままで格好つけて「公理系」などと言っていたが、公理系とは要するにゲームの基礎ルールのようなものである。もっと言ってしまえば、数学者の共通幻想にすぎない。同じ幻想を見なければ、はたまた同じゲームで遊ばなければ、その論理体系や結論にはなんの意味もない。チェスの技法はバドミントンに通用しないのである。
 世の中に数学という体系を採用している世界は、悲劇にも数学そのものを除いてひとつもないのだ。
 とするならば、数学という共通幻想そのものはその外側においてなんらの効果ももたないということになる。数学が日常生活の役に立つのは、一切の必然性がない。たまたまである。

 斯くして、数学という極めて強固な論理体系は、同時に極めて儚い存在となったのである。まるで試験管の中でしか生きられない生命のようではないか! その生命が仮に試験管の中で最強の存在であるとしても、ひとたび試験管を出ればなんの力ももたない存在に成り下がる。

 これを最強の論理体系と呼んでよいのだろうか?
 否、数学者はその論理体系に従い、素直に「YES」と答えるだろう。そこに誤りはなく、絶対的に真である。しかし、その言明にいかなる力があるかはーー

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