世界の常識/日本の非常識:広島の原子爆弾投下に関する認識は単なる大量虐殺の犯罪行為である
日本の夏は暑い。
筆者が子供の頃も夏は暑かったが、ヒートアイランド現象などによって、近年の日本の夏はさらに暑くなった。
日本にとって切っても切れないのが、夏の暑い日に戦争を思い起こすことだろう。
それは、1945年8月6日に広島に原子爆弾が落とされ、1945年8月9日に長崎に二つ目の原子爆弾が落とされ、更なる原子爆弾の投下が計画される中、1945年8月15日に日本中に玉音放送によって戦争の終結を告げられたからだ。
日本人は世界の中で、もしかしたら、唯一無二の自責の念の強い民族かもしれない。
既にアメリカの公式文書によって、当時のアメリカは日本に原子爆弾を何発も何発も落としたくてたまらなかったために、何度も日本から降伏の打診がなされても、それを一切無視して原子爆弾が落とされることとなった。
日本の歴史教育は、戦後の占領下に日本を統治したGHQによって書き換えられた、いわゆる、GHQ史観の歴史をもとに書かれており、その後、GHQによって教育委員会と教師たちが北朝鮮や中国人を中心とした共産主義者によって固められ、更なる歴史の書き換えが行われていった。
つまり、現在の日本の歴史教科書はアメリカの民主党と北朝鮮・中国によって書かれているのだ。
あなたは世界各国の人と、原子爆弾投下について語り合ったことがあるだろうか。
日本では原子爆弾投下に関する話は、まるでタブーであるかのような扱いを受けており、唯一の原子爆弾投下に関する話は日本の歴史教科書に書かれた通り、「日本が戦争をしたから」「日本がアメリカに悪いことをしたから」「日本が戦争で降伏しなかったから」ということになっている。
だが、既にアメリカの公式文書にもある通り、別に日本が一方的に戦争をしたわけではなく、アメリカが日本と戦争を始めたくて仕方がなかった状況で日本はアメリカに戦争を始めさせられてしまったことが明らかになっている。
そして、日本が一方的にアメリカに対して悪いことをしたかというと、それも違う。日本は総じてアメリカに対して通常の戦争上の戦闘行為しかしていない一方で、アメリカは日本の沖縄戦や本土大空襲、広島と長崎における原爆投下において、日本の各都市で無抵抗な一般人を大量虐殺している。
戦争において戦闘員ではない民間人を無差別に殺すことは戦争行為ではなく、単なる殺人/虐殺行為であり、国際法上の犯罪である。
広島と長崎の原子爆弾投下に至っては、原子爆弾の開発を行っていたマンハッタン計画を行っていたロス・アラモス研究所が原子爆弾の投下に対して「われわれは史上二度の『原爆実験』に成功した」と発表しており、われわれ日本人は大量殺りく兵器の威力をためす実験にされたのである。
日本は戦争状態における戦闘行為をしたに過ぎず、アメリカは「日本とアメリカが戦争状態にある」という機会を奇禍として数えきれないほどの単なる大量殺戮犯罪行為を行っているのだ。
加えて、日本はアメリカに何度も戦争の降伏を申し込んだにもかかわらず、それを無視して一方的な殺戮行為を繰り返したのはアメリカである。
以上のような解釈は、日本以外の世界中の国々では常識である。
アメリカでもそのように認識されているのだが、それを公に認めると、アメリカが原子爆弾投下による民間人の大量虐殺という犯罪行為や、東京大空襲などを始めとした大都市の民間人の大量虐殺という犯罪行為を認めなければならないため、アメリカでこのように考えることはタブー視されている。
それに対し、ヨーロッパなどを始めとした国では、日本が一方的にアメリカに大量虐殺行為を受けたと認識している。
その上で、「何故、日本人は、日本人を大量虐殺したアメリカの言いなりになると共に、アメリカと仲良く出来るのだ?悔しくないのか?仕返しをしないのか?」と、多くの外国人が思っている。
ロシア人からもこのような話を聞いたことがある。
イスラム教徒のアラブ人は、「イスラム教徒ならば、ジハードという名目で最後の一人の国民が死ぬまでアメリカと戦い続けるだろう」と語ってくれた。
これが世界の常識なのであり、日本の常識は世界の非常識なのだ。
いたずらにいつまでも恨みの念を残せば、いつまでも戦いは終わらない。
それゆえ、いつまでも過去の恨みの念を残したまま、アメリカを攻撃し続けることは生産的ではないだろう。
だからと言って、真実を知らぬままに、アメリカに都合の良い解釈をプロパガンダとして盲目的に信じ込むことは大きな間違いである。
正しく歴史を認識し、明るい未来に向かって歩き出さなければ、日本はいつまでだってもアメリカの奴隷であり続けるのである。