武士道から学ぶ真実の人間を形成する道とは
武士道が多くの日本人から失われて久しいように思う。
古来、日本人の多くは剣の道、いわゆる、「剣道」をたしなむことで、人間としての精神性を高め、日本人の人格の高さを作ってきた。
だが現代で「剣道」といえば、防具を付けて竹刀を持ち、勝った負けたの試合をするスポーツに成り下げられている。
本来、「剣道」とは、少なくとも防人(さきもり)のあった飛鳥時代やそれ以前から存在した「日本人が剣術をたしなみ、剣術を極める先の道」であった。
全ての人が「剣道」を極めた者の境地まで至れないとしても、古来の日本人は多くの者がその道に達し、その道に達することができなくとも、達した者たちを師とあがめ、尊敬し、その境地を理解しようとしてきた。
戦国時代に宣教師たちが日本を訪れた時、他国に比べて日本人には物乞いがいないことに大層驚いたそうだが、「剣道」の境地を極めた者が尊敬される社会では、そのようなことは当然である。
残念なことに、今の日本社会では、これを多くの人に理解してもらうのは難しいだろう。
現代では武士道や「剣道」の精神はほとんど完全に破壊されてしまったと言っても過言ではないだろう。
ほとんどの日本人は唯物主義に走り、即物的なものばかりを追い求め、拝金主義であり、目先の富に強欲である。
「剣道」の世界で言えば、ほとんどすべての日本人が外道である。
直近ではフジテレビと中居正広の問題が話題となっているが、古来からの「剣道」の精神を多くの日本人が持っていれば、このような問題は起こっていなかったであろう。
現代の日本ではたとえ武術や武道を学んでも、多くが即物的で唯物的なものばかりが追い求められている。
多くの者が試合に勝つことをその目的にしている。
本来、試合(しあい)とは殺合い(しあい)であり、古流武術の世界では、試合は殺し合いにつながるがゆえに、試合を行うこと自体が戒められることである。
古流武術の世界では当然であった、そのような日本人の精神性さえ、現代からは失われてしまっている。
人が人として人らしく生きるための精神性を磨く術として、古来より日本では剣術を極める道、「剣道」が存在した。
筆者は武道、武術をたしなんで久しいが、剣術の厳しい修業をして初めて見えてくる世界がある。
日本人が武士道や「剣道」を通じてたどり着いた、そのような世界観とはいかなるものであろうか。
剣の道、いわゆる、「剣道」が行きつく先は、一息切断の地であり、生きるか死ぬかのギリギリの場である。
ここから先は
¥ 300
宜しければ応援をお願いします!頂きましたチップは調査・分析等の活動費に使わせていただきます!