読解『おもひでぽろぽろ』 part 11 同じ傘の元に

最終回!!!


■同じ傘の元に

現在:山形

 タエ子は山形を出る。高瀬駅にはトシオ、ナオ子、ばっちゃんが見送りに来る。

トシオ:じゃ 冬 待ってますがらね
タエ子:ええ それまでに少し勉強しとくわ 農業
トシオ:あれ スキーじゃないんですか
    ま もっとも実戦あるのみですけどね スキーは

 今度は遊びに来る気ではない、と言う宣言が「農業を勉強する」なのだ。トシオは困惑気味に応答。さて農業は実践だけではないのだろうか(私は知らない)。
 ばっちゃんがタエ子と秘密の話。トシオの嫁に来ること、考えておいてくれ、と。

 電車がやってきてついにお別れの時間。なぜか汗だくのおじさんが割り込んできて、歯切れの悪い別れで電車が動き出す。

 窓から身を乗り出し、手をだし3人に手を降る。タエ子は身体を直し席に座る。後ろには先ほどの汗だくのおじさん。扇子を扇ぎ続け、シャツをパタパタさせている。タエ子は彼の方を気にしながら、カバンを持って車両前方へ移動する。

謎のおじさん
移動するタエ子

 画面からタエ子が見切れてもおじさんが写されたままでエンドロールが流れ出す。あまりに異様な演出だ。が、書きながらようやく意味がわかった。

 アニメーション、映像の弱点でもある匂いがキーを握っていると思われる。
 蒸し暑い夏の季節、汗だくのおじさん。彼は扇子を忙しなく動かす。
タエ子が席を移動した理由はおそらく、おじさんが汗臭かったからだ。車両の進行方向による風、および扇子の風向き。その風下にタエ子はいた。なので、匂いが気になったタエ子は、おじさんの風上の席に移動したのではないだろうか。ちょっと私の妄言っぽいので、証拠になるやもの演技。

口を開けながら移動するタエ子

 タエ子が口を開けながら移動している。匂いを嗅がないように口呼吸で移動しているのではないか。静止画では判断つきづらいと思うので、実際にアニメーションで見てほしい。独特な口を開く動きが見える。座席の手すりで隠すようにして、バレないようにしている。
(意図的だと仮定して、こんなアニメを描くのは恐ろしすぎる。戦慄。)

 わざわざこんな描写が入るのは何故だろうか?
 ”匂い”ほど人が抗いがたい
ものはないだろう。あべくんの汚い手と握手できなかったことを後悔し、農業の差し出してきた汚い手への受け入れ態勢ができたはずのタエ子だったが、おじさんの加齢臭と汗臭さは”拒絶した”と思われる。いずれトシオもこうなっていくはずなのだが、、

 人はそんなにすぐ変われない、ともとれるし、もっと人間の生理的、身体的な理由から”拒絶”が生まれてしまうことを描いたのではなかろうか。いわゆる「生理的に嫌」なのだ(詳しくないので簡単に記すが、排卵日に最も匂いに敏感になるという)。
 作中でも生理がある体、生理がない体、つまり生理:非生理の身体的な理由によっての対立も描かれた。

 世界中で身体的な差異によって”あちら”と”こちら”の対立が起きているのは事実だ。そんな中どんなふうに共同作業を達成していくかは考えていかなければならない。そもそも共同しなくてもいいのかもしれない。


 さて本編に戻って。もう終わりです。

 タエ子は前の席に移って物思いにふける。蝶が車内に入ってくる。タエ子の後ろから小5の時のクラスメイト、そして小5のタエ子が現れる(これ以降おじさんは写されない。画面にも拒絶されてしまった、、、もといタエ子ワールドにはおじさんはいらないということか)。
 小五のタエ子が、27歳タエ子の腕をゆすると彼女は思い立ったように立ち上がる。高瀬駅へ引き返しトシオに迎えにきてもらう。ついてきた小5の面々は”相合傘”を作り、タエ子とトシオを”同じ傘の元”に入れる。二人は”相合傘”を置いてけぼりにして車でスイスイと進んで行ってしまう。
 小5の面々とのお別れの時だ。


 さて最後の注目点。
 タエ子を見送る小5の面々のなかに"居てもいいはず"の人が一人いない。それは広田君だ。いやいや、彼は他のクラスの子だし、5-5組の面々だけが出てきたのではないか?と思うかもしれない。しかし見送りメンバーの中に、タエ子に広田君の好意を伝えにきた3人組の子がいる。彼女らは5-5のメンバーではない。

真ん中の3人は5-4の3人組
5組に特攻しにくる彼女たち

 タエ子の思い出を彩っている彼女ら4組女子。彼女らがいることで、広田君の"不在"は立ち上がる。(妙子にとっても)肝心な広田くんは見送りメンバーの中にいない。

 ではどこに行ったのか。広田君の場所に一人の人間が入れ替わって入った。もちろんそれはトシオである。

広田君の席を奪うトシオ

 思い出して欲しいのはタエ子は相合傘の思い出として、広田くんと「同じ」になったことを何度も反芻していることだ。いつでも読み返してきゃっきゃウフフできる少女漫画のような恋だった(目がバカみたいにキラキラになってましたね)。
 広田くんとの時は相合傘が発端であり、タエ子はそれで彼に興味をしめした。形式的な入り口で始まって恋が膨らんだ。その広田くんの場所にトシオを据え、形式的な恋="相合傘"を置き去りに進むタエ子。

 これは”憧れの恋愛関係”からもう一歩先の”当事者同士の共存関係”への移行ではないだろうか。“憧れ:あちら”との理想的な関係ではなく、同じ”こちら”のものとしてトシオと”共同作業”への道を二人で進み始めたのだ。

 きっとそれはとても退屈なはずだ(本人たちはまだ、イタリアの田舎景色を夢想しているかもしれないが)。




もしくは、タエ子は広田君だけ山形に連れていったのかもしれない。ひえっ。

読解終わり。





■共同作業か”せめぎ合い”

 まとめです。
 この作品の諸々の描写を”あちら”と”こちら”というキーワードで読み解くチャレンジでした。どうでしょう?説得力ある?判断は皆さんにお任せします。

 こうしてみると作品の設定がよく練られていることを再認識する。東京と山形という二つの土地の人間(ナナ子・ミツオ)の”婚姻”から動き出し、自然と人間の”婚姻”=”共同作業”(ケーキ入刀!)を描き、最後に主人公タエ子の人間と人間の”婚姻”に戻ってくる。

 高畑勲が言いたかったことは何か?というような答えは出さない。
 おそらく彼もそれを望んでないだろうからだ(私は今彼をエミュレートしている)。高畑勲が何が凄いかを一言で表現するなら「価値中立性」だと私は考えている。本人もそこを目指して作っているだろうから「高畑勲が」という前提は抜きにして読み解くことを心がけた(「高畑勲が価値中立的なので」というメタ前提)。例えば、エンディングは鈴木敏夫の提案でハッピーエンド風にしたという話もあるが、その事情は鑑みなかった。変更前はタエ子は農家に引き返さなかったとのこと。原作も読んでません。コンテも読んでません。

 ”あちら”と”こちら”が出会った時に起きる人間の種々の対応をさらっと描いてみせる。こっちでは境界を淫らに越えることや、相手への憧れを募らせてしまうことが「非」として描かれているかと思うと、また別のところでは「是」として描かれているようにも見える。判断はこちらに委ねられている。

 さて「高畑勲が言いたいこと」は書かないが、私がこの作品から考えたことはここに書くことができる。

 やはり一番重要だと思ったのは田舎の景色の解釈だ。「自然と人間の共同作業」の結果だというあれだ。あれはすでに書いた通り、過去の人間たちが行ってきた作業である。今の時代にそれを習ってやっても事情や時代が違うはずだ。(トシオは実際、有機農業でも一度だけ除草のために農薬を使うものもある。人手が足りないから。と発言をしている。)
 私たちがするべきは過去の共同作業を理想化してそれを真似ることではなく、そこから他者との関わり”あちら”と”こちら”の関わり合いについて思考をめぐらせて、今この時代の当事者的な、つまらなく、泥臭い(都会、田舎関係なく)共同作業のやり方を探ることなのではないか。
 以下はトシオが言っていた共同作業についてのセリフだ。

人間が自然と闘ったり 自然からいろんなものをもらったりして 暮らしでいるうぢに うまいこと 出来上がってきた景色なんですよ これは

 共同作業というには物騒な言葉が入っている。共同作業というと合意的なものを感じるが実際のそれは”せめぎ合い”と言っていい具合の力と力のぶつかり合いだったのではないだろうか。自然はいうことを聞いてくれず何人も殺しただろうし、人もまた欲に眩んで必要以上に自然を殺しただろう。ここではまだ人間と自然の二項対立が前提だが、それを一緒くたにした一つの環境のダイナミクス”せめぎ合い”が田舎の景色、共同作業の景色なのではないだろうか。
 時間的、空間的にに当事者でないものたちは成果物だけをみて、その中の力動に流されていた人々のことまで考えがおよびづらい。現在の中で、そのダイナミクスの内にいる人間がどのように世界を作っていくのか、作るべきか、を考えるのが大事なのだろう。
 それは地球環境という大きなところも含めて、人間とAIでも。社内という単位でも、家族という単位でも、あなたと私という単位でも。

 もう一つ、タエ子とスーの嫌いなもの条約の描写にも重要なことが描かれているように思う。彼らがしていたのは、互いの性別(”あちらこちら”)に囚われずに、食べ物の好き嫌いの非対称性、個人同士の得手不得手を補い合うような共同作業である。身体的な差異や地域的な差異などの物理的な差異を言葉で”均す(ならす)”のには限度がある。均せない所与の起伏をお互いに補完しあっていくのが必要な”共同作業”なのではないだろうか。


 高畑勲の表現力について。
 「価値中立性」に加え、改めて恐ろしいと思ったのは、表現がさらりとしていることだ。多様な意味をセリフやアクションにこめるのだが、そのセリフやアクションはシーンの中で嫌に流動的で違和感を感じさせない、さらりとし過ぎているのだ。「生理が感染る」などはまさにその典型であろう。ただ、その中で描写の強引なところはあるっちゃある。というかそういうところを手がかりにして読み始める。私はタエ子が打たれるシーンから紐解いていった。不可解なシーンとは実は読解のためには分かりやすい取っ掛かりなのだ。そこからそれが万有引力かどうかを検証していく。

 絵の表現は最高です。特に思い出の景色は美しい。思い出は美しいものですからね。背景の溶けていくような描写はそう簡単に真似させてはくれないだろう。あとはセルの影響だと思うが、白目がちょっとグレーっぽいのがなんだかオシャレに見えました。


■最後に

 一つの作品についてここまで細かく分析したのは初めてでした。すごく疲れました。し、途中、こじつけじゃないか?これ、なんて思うことは多々。高畑勲は観客を信用しすぎてる、なんて言われてるのを聞いたことがあるが、今回私は高畑勲を全面的に信頼して読解してみた。信頼してこじつけてみた。他の高畑作品をこんなに読めるかはわからない。それは『おもひでぽろぽろ』が自分が”読める”作品だったからに過ぎないからだ。作品にはなんにせよ相性というものがある。
 これを書いている今ちょうど高畑勲氏の命日4/5であった。運命にトキメキ少女漫画の目。


 付録記事もありますので余力がある方はそちらへ。


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