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塊(推敲ver)

私たちは塊だ。

冬の寂しさがやすれてバイトに慣れた頃、頭上を走る電車は光る箱だった。

銀河鉄道999を覆うまわりの空気、これも塊だ。命に関わる、鉄郎を優しく包む塊。

時間はかたまりだ。晴れ時々、細くうねる線。私達を貫き、時間という紐で私達を塊に絞め上げる。

人間は、瞳で細切れの映像を見て、脳で一続きに補っているらしい。瞬きの瞬間は感じない。時間と視覚の融合、そして記憶の塊。

柔らかさを持ちながら、塊となる。記憶はダイラタンシー現象のように、ゆるく塊となり、跳ねて形を保ちながら私の後ろをついてくる。

メリーゴーラウンド、これも塊だ。空中浮遊の旅は、カメラのシャッターを開けたまま、切り取る。そして、塊になる。すぐに通り過ぎてしまう。気がついたら終わってしまう。瞳も開けたまま、目を見張って、塊を感じ、意識をかたまりにする。

写真は延々と広がる世界で、かたまりを切り出す。ところてんを押し出すような。カメラのシャッターを開け放つと、動くものは塊へ、動かないものも塊に。

人が入れるほどのシャボン玉を作るための道具。あれをゆっくり虚空の中に滑らせ、にゅ〜とかたまりを作る。切り取る作業。カメラと同じで、私達とも同じである。

気持ちは塊だろうか。私はもう、文字を知ってしまった。抽象画で表す?音で表す?外を介せず、自分の気持ちを自分で理解するとき、それは塊だろうか?

犬の気持ちは塊だろうか。私達は普段心のなかで、「嬉しいなぁ」「悲しいなぁ」と文字になっている。犬であれば、心はどうなんだろうか。私は、「心のなかで文章で考える人と図で考える人がある」と聞いたことがある。犬は、気持ちの塊なんだろうか。「嬉しい」という言葉がなければ、私の感情は表現できない。人に伝えるには、私には心の底から湧き上がるような、スキップさたくなるような、というやはり言葉が必要である。


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