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審判

「ここからは靴を脱ぎ裸足で。」

促され私は戸惑いつつ使者の顔を見た。無表情で親しみのない顔。物腰だけは丁寧でそつがない。なおもわたしが躊躇っていると、再び促す。

私はのろのろと靴を脱ぎ靴下を捨てた。できるだけ時間を稼ぎたかった。使者の顔にはなんの変化もない。どれほどの時間を費やしても彼らの命令から逃れることはできない。

私は目の前の細い道を見つめた。石畳の繋ぎ目からは硫黄の臭いがする。シュウシュウと煙を吐き出すその道を私は裸足で歩いて渡らなければならない。

「前へ。」

使者は促す。逃れられない。既に足元に熱を感じる。いくら時間を稼いでも目の前に見える道と同じように足元から硫黄の匂いが吹き出し、時折炎が吹き出すのだ。もう猶予はない。

私は意を決し歩き始めた。足裏に鋭い痛みを覚える。皮膚が焦げる臭いがする。戻りたくとも後ろの道は片端から崩れ、立ち止まれば更に崩れる。
私は痛みに耐えながら歩いた。熱風が時折吹上げ、まつ毛がちりちりと縮れる。足裏が焼けじくじくと血膿を流す。

行手に真っ暗な洞が見えた。洞だと思った。しかしそこにはただ暗い空間が広がっているだけだ。それは生きてるかのように円を描きながら私を飲み込むかのように大きく広がった。

飲み込まれる、と思った途端、私は弾き返された。中では轟々と風が吹いている。そのまま石畳に叩きつけられた。私は起き上がることすら出来ずにそこに伏した。

中から声がする。

声が話す言葉は聞いたことがない言語だ。しかし意味はわかる。私は自分が問われているのを感じた。その問いに答えるように求められているのを。私が答えられずにいると声は焦ったそうな調子になった。何度も執拗に問い詰められる。

私は答えられない。

声は次第に怒りに満ちてきた。風がひどく吹き付けた。暗い空間は今や怒りと苛立ちにさらに黒く膨張し始めている。

風が強く吹いた。私は吹き飛ばされた。高く遠く。

例の使者が気を失った私の傍にいた。ふわりと屈むと柔らかな物腰で目覚めた私を立たせた。残念ながらあなたは招かれなかったと告げた。あれは審判だと言う。わたしはどうやら合格しなかったらしい。

あなたはやり直さなければならない、と使者は告げた。何を?という私の問いには答えず、ただ私の手を取って反対方向へと歩き出した。

私が足の痛みに呻くと初めて気がついたかのように私の足をまじまじと眺めた。そしてしゃがむとその手で足に触れた。手はひどく冷たかった。

何もない白い空間に出ると使者は手を離した。使者の体はどんどん透明になり薄れていった。同じように私の体も薄れ始めた。全てが消えゆく前に使者の仮面のような顔が溶けるように消え去り、一瞬だけその下にある顔が見えた。その顔には見覚えがあった。

使者は消えた。私も消えた。

                                 ***

隣国からの爆撃により私の入院していた小さな病院は崩壊した。避難が間に合わず数十人が死傷し生き埋めとなった。私は運良く瓦礫の中から助け出された一人だ。助け出された時は仮死状態だったが、奇跡的に息を吹き返したという。

今、私は紛争地帯からは遠く離れた病院にいる。その病室には天使像が飾ってある。どこの病院にも飾ってある天使像だ。砲撃された前の病院にもそれはあった。おそらくどこにでもあるありふれた像。

入院した時、私はその像の顔を幾度となく見た。退院できるのはいつのことかと、その微かな笑みを湛えた口元に苛立ちながら何度も思った。早く退院したいと願いながら。

その天使はあの使者に似ている。審判に合格していたら私は天国の門をくぐり、こうして生きてはいなかったのだろうか。私はまだこの世界で生きていかなければならないようだ、当分の間。

                   (終わり)

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