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『熟達論』を読んで僕が考えたこと

為末大さんの新著『熟達論』を読みました。凄まじい読書体験でした。このnoteでは本書の内容を踏まえて、アスリートの端くれであり、長距離ランナーである自分が考えたことを書いていこうと思います。

本書の要約

本書は、為末さんがアスリートとしての経験を通じて、”人間がどのように学んでいるか”を5つのプロセス(遊・型・観・心・空)に分けて紹介している。


  1. 純粋に遊びを楽しむように、思い切り動かす、面白がる段階。


  2. 無意識にできるようになる技能(土台)を積み重ねる段階。


  3. 対象を細かく観察し、内部の構造を捉える段階。量のフェーズを越え、パターン認識できる。俯瞰と集中の二つの視点を持つ。


  4. 核となる中心をつかみ、自在になる段階。オリジナリティが生まれる。


  5. 意識を明け渡して、ゾーンに入る段階。空ではもはや言葉が邪魔になる。

『熟達論』を読んで僕が考えたこと

僕は今まで23年間、(曲がりなりにも為末さんと同じ陸上競技者として)ランニングと向き合ってきた。足が速くなりたいと思って、考え続けてきた。でも、叶わなかった。自分が思うような結果は出せなかった。

だから、自分で考えるなんて無駄なことだったのかもしれない。言われたことだけをただ何も考えずにやれば良かったかもしれない。一生懸命に試行錯誤してきた時間は実は何の意味もない時間だったのかもしれない。

そんな風に思うこともあった。でも本書を読んで、少し考え方が変わった。それは熟達に必要なプロセスだったのだ。結果は出なかったけれど、きっと僕は熟達の道を学んでいた。

長距離走と『熟達論』

長距離走はメンタルが大事な競技だ。苦しい場面を我慢するための強い意志と高い集中力を保つ必要がある。時として思考は邪魔になる。

だから、特にジュニア期における1対nの指導の場では、”遊”と”型”が重視されるケースが多い。そして、センスのある選手は”観”をすっ飛ばして、自分なりの”心”と”空”を無意識領域で掴んでいく。それができない選手は”観”を探っていく。

例に漏れず、僕は”観”の道をずっと彷徨っていた競技人生だった。逆に言えば、“観”に時間を割かなければその先に進むことができなかったとも言える。

具体的に言おう。長距離走のトレーニングは遅い・速い×短い・長いの組み合わせで成り立っている。その組み合わせを工夫することが大事だと言われている。

だが、僕はその組み合わせの外にこそ、工夫の余地があり、自分のパフォーマンス向上のボトルネックになる構造があるはずだと思った。だから、一般的には観察しないような箇所をより細かく観察していった。

例えば、自分の身体に合うトレーニングを積極的に学びにいった。例えば、自分の身体の不具合を根本から治す治療・ケアを積極的に探しにいった。例えば、自分で仮説を立てて小さな試行実験を繰り返した。

それを日々、自分の走りに落とし込んでいった。日々、自分の身体を観察した。良くなったり、悪くなったり、ずっとその繰り返しだった。つまり、僕がやっていたのは”観”における、部分と全体の往復だった。それは“心”と“空”に至るための必要なプロセスだったのだ。

”構造の理解には終わりはなく、もっと深淵な世界が広がっており、完全にわかることはない。問題は、複雑な現実世界を、区切られた専門領域でわかっていることだけで理解しようとするところにある。熟達に必要なのは証明ではなく、実際にできるようになることだ。”(P140)

しかし、実際にできるようになった(良くなった)のは僅かだ。おそらく僕が理解できたのは構造のほんの一部に過ぎないのだと思う。

成功もしたけれど、明らかに失敗の方が多かった。部分に捉われて全体を見失うことも多かった。こだわり続けるうちに、一番大事なはずの”遊ぶ”ことを忘れることもあった。

それでも、身体と心の構造を観察し続けることはやめなかった。そうすることでしか強くなれないと思ったからだ。事実その通りだったと思う。だから、この道を選んだことに後悔はないと改めて思えた。

そして、数多くの失敗と数少ないの成功の中から、僕は多くの構造と、身体と心の複雑性を学んだ。それが何に転用できるかはわからないけれど、少なからず熟達の過程から得たものはあったのだ。

そんなことを本書は気付かせてくれた。

あらゆる熟達者は孤独なのだろうか?

本書を読んで唯一、疑問を持った箇所がある。

”この夢中に連なる熟達の道だが、そこには孤独がどうしても付きまとう。技能が向上していけばオリジナルを追求せざるを得なくなるから仕方がないことかもしれない。(中略)初心者の段階ではわかりやすいが、段階を経るとこうすればいいという方法はなくなり、自分に合ったやり方を選ぶしかなくなる。正しいことをやったからうまくいくわけでもなく、うまくいったから正しいわけでもない。(中略)何一つ正解がなく誰も教えてくれない中で、この方向だと自分で見当をつけて進んでいかなければならない”(P36〜37)

それは「果たして、あらゆる熟達者は本当に孤独なのだろうか?」という問いだ。

たしかに熟達の道を極めようとすれば、孤独になりやすいことはたしかだ。

例えば、アスリートは究極の個別化を求める。本人にしか見れない視点や構造が生まれてくるのだろう。ゆえに言語が通じなくなる。そう考えると、高い洞察力と言語化力が身についた人ほど、自分の内側へのベクトルが向き、孤独になりやすいとも言える。その孤独は良くも悪くもその人を形作る。

でも、僕はどんな熟達者であろうと、他者と言語を合わせようとすることは可能だと思う。その視点や構造を他者と共有しようとすることはできると思う。もし、それが出来れば、”その人にとって正しさ”を、対等な立場で議論することは可能だと思う。

前著で為末さんはアスリートにとってのコーチの役割は、①モチベーター、②質問者、③技術の伝達、と書かれていた。いずれも客観者としての役割だ。その上で、④選手と同じ目線になる、という同じ主観者としての役割を併せて担うことは可能ではないだろうか。

そのためには、お互いの高い言語化力と膨大な量の対話が必要になるだろう。

為末さんは現役最後までセルフコーチングを貫かれた。おそらく、為末さんの言語化力に付いてこられる人が近くにいなかったのではないだろうか?(失礼かもしれないが)為末さんは、自分の言語はどうせ理解されないからと、言葉を閉ざしたのではないだろうか。あなた(コーチ)のリソースはもっと別の場所に割かれた方がいい。そんな風に思ったのではないだろうか。

”何一つ正解がなく誰も教えてくれない中で、この方向だと自分で見当をつけて進んでいかなければならない”(同上、P37)

たしかに正解は誰にも分からない。でも、フラットな立場で言語を合わせることができたのなら、自分と、自分以外の誰かで一緒に見当をつけて、進むことはできるような気がする。熟達者にとって、それは1%にも満たない、奇跡的な確率なのかもしれないけれど、その状態は決して孤独とは言えない気がする。

つまり、場合によっては不必要な孤独を避けることも可能なのだと思う。その相手はAIではなく、人間にしか務まらないものだとも思う。

以上、今回は『熟達論』を読んで僕が考えたことを書いてみました。最後まで、お読み頂き有難うございました!

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