「個」と「学校エトス」と「空気」
今の教育現場におけるテンションのありかはこれに尽きます。
私が教師として幸せになれ無かったのはまさにこのためです。
学校エトス(school ethos)というのは学校が組織として求めている精神性のようなもののこと。日本の場合は歴史的、文化的背景から教師が無意識に追い求めてしまうschool ethosは「犠牲文化」でこれは学術研究でも支持されています。そして私は、それを陰ながら(?)支えてきたのが「空気を読む」行為だと私は思っています。
空気を読むこと自体は良くも悪くもありますが、今、教師も含め多くの人が読もうとしているのが「犠牲文化」に根ざしたエトスであるというところに問題点があります。(そしてそれがなぜ更新されないのかというのもある程度説明で切るようになってきましたがそれはまた今度)なぜ問題かというと現代の働き方、現代の生き方、教育目標にあっていないからです。
教師の働き過ぎの問題がこんなに公になっているのに、なぜ改善されないんだろう。と思いませんか。それは人々がこのエトスを追い続けているからです。しかもそれを空気を読むことで行っている。なので、残業していることが「自分で選んだ」ことで「学校が指示したのではない」となるのですよね。
さらに問題を複雑にしているのは、エトスを読んでそれがセンスメイキングをしている人が一定数いるということです。その人たちの「個」は空気を読むことでメイクセンスできるようにできています。というか「個」が他人が思う「個」と重なり合っていて、その重なりをますことで伝統的知識が生まれ、それが何度も何度も再起的に発生することで今まで日本文化は支えられてきています。学校も同じ、というかその傾向はむしろ強いのではと思います。
そして、さらに問題はその文化的傾向に沿わない世代や沿わない教員も一定数出てきているということです。それは実際に現代の教員のアイデンティティが伝統的なそれと比べて分化していることや、「犠牲文化」を感じるほどアイデンティティの揺らぎが大きいことでも証明されています。さらに例えば、教師の仕事はブラックだというような学校エトスに反する言説が出てくるのもその影響の一つです。
以上、ザクッと「個」、「学校エトス」、「空気」について説明しましたが、大事なのはどの空気を読むか、ということなんです。それから、どのような空気を生み出したいか、ということでもあります。
例えばアクティブラーニングという言葉が流行った時、日本の学校は一気にアクティブラーニングブームが起きました。日本人の空気=共通の知識は一定の時間が必要なのではなく、みんながそうだと思う必要があるのだろうと思っています。だから、違うことは違うと大きな声でいうことがますます大事になってくるんですよね。
さらににここに、教師と生徒、校長と教師のような権力関係が関わってくると問題は複雑化します。その辺はまた今度。
Teachers of Japanではティーチャーアイデンティティ (教師観)の発見を通じて日本の先生方がもっと自分らしく教育活動に専念し本来は多様である「教師」の姿を日本国内外へ発進しています。日本の先生の声をもっと世界へ!サポートいただけたら嬉しいです。