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学校での疑問の日々手帳、のすゝめ

日本の公立高校で勤務した15年間(休職、アメリカ派遣時含む)、私は一度も学校を理解した!と思ったことはありませんでした。むしろその反対で、常に理解できないことが私を悩ませ、それをどうにか理解しようとしたり、自分の価値観との擦り合わせができずに悔しく悲しい思いをしたり、最終的には理解するのを諦めることの連続の日々でした。私は教師としてどんな人間なのか、(Who am I as a teacher)という問いを日々突きつけられ、自分がこうでありたたい教師像と求められてる教師イメージとの間で苦悩しました。(詳しくはこちら

学校という特殊な職場環境の影響か、私の葛藤は業務改善やコミュニケーション促進などといったどの職場にもあるような組織的課題とは一線を画していました。「どうしてそんなことを言われなければならないのか」「どうしてこれはできないのか」など、大半は私の教育的価値観との擦り合わせの連れからくる課題で、常に違和感、孤独感、虚無感がなくなることはありませんでした。周りの同僚に問題を共有すれば共感してくれる。しかし、何が問題なのか具体的に説明しようとすると失敗に終わり、問題が改善されることはない。

この正体は一体何なのか、今大学院で学んでいるのは、その正体を突き詰めるためです。

そして私が教師として経験した難しさを研究対象として考えている今、とても役に立っているものがあります。それは現職時代に書いていた「学校での疑問の日々手帳」です。

当時は、こんなことを言われるのは私だけかもしれない、こんなことを疑問に思うのは私だけかもしれないと孤独感、疎外感を持つ一方、私はその違和感に意味があることを知っていました。だって、そう思う私も本物だから。だからこそ記録に残しておきたかった(単にむかついていたと言うのもある)。
そして正直、それがとても良いデータになっています。忙しい中での記録だったので、たくさんは書いていません。毎日何かしら起こっていたので、大きなイベントしか書いていないことが今になって悔やまれますが、

久々に読み返してみて、今日、泣けました。

アメリカにしばらくいて、日本の教師時代の仕打ちを見れば「私っていじめられてたんだな」と見えました。そんなことも思わずに、日々粛々と働いていた、当時の私。そして胸を張って自分の意見を伝えてた自分に賛辞を送りたい。自分を裏切らないでよかった。

もし、これから大学院に進学したり研究職に転職を考えておられる現職教員の先生がいらっしゃれば日々の様子をメモにしておくことをお勧めします。私が研究職にいなかったとしても過去の辛い経験を乗り越えた自分を、数年後に改めて賞賛できる材料としてジャーナルを残していた価値は大きいと思っています。

今、学校現場でハテナ?と思うことがあったり、こうすればいいのにと思うアイデアをお持ちの方、多忙な日々に紛れて、日々産まれては去っていくアイデアをどうぞ大事にしてください。それが何かにつながるかもしれませんよ。



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