【え3】私はカレーショップ。
私はカレーショップ。
この場所に身を置いて49年になる。
ここまで過ごして来れたのは、店主の作ったカレーと、それを求めて私を訪ねてくださるお客様。その二つの何ものでもない。
私はただ、この場に身を置かれた。それだけのことだ。
私がまだ若かった頃。一組のカップルが訪れた。
ボックス席に座り、店主が出すカレーを堪能していた。
一方はカツカレー、もう一方はエビカレー。
「私、お肉はダメなんです」彼女は彼にそう伝えていた。
何処にでもいる、初々しいカップルだった。
それから2年後。再びそのカップルがやって来た。
2人の薬指には、真新しい指輪が光っている。
そうか。2人は結ばれたのか。おめでとう。
夫となった男はカツカレー、そして妻はエビカレー。
注文する物は、夫婦になっても相変わらずだ。
しばらくすると、夫となった者は毎日のように私を訪ねてくるようになった。仕事場が私の近くに移ったらしい。お昼になると必ずやって来る。
急いだ様子でカツカレーを腹に入れ、午後からの仕事に向かっていった。
たまに来ない日もある。店主との会話を聞くと、どうやら夜勤があるらしい。そういえば、この近くに新しいホテルが建った。彼はそこで働いているようだ。
そして2年後。夫婦揃って私のもとへと足を運んでくれた。
妻のお腹は以前より大きい。そうか、母となるのか。
住まいも私の近くに移したと聞く。これからが楽しみだ。
4年後。母となった者は、小さな男の子の手を引いて訪ねてくるようになった。年の頃なら3才ぐらいか。実におとなしい男の子だ。
どうやら先日、近くにある神社での「稚児行列」に行ったらしい。父となった者は、買ったばかりのカメラ越しでしか我が子の晴れ姿を観ていなかったそうだ。ハハハ。子供に愚痴を言ったところで、答えてくれる筈はない。
そして母親はエビカレーと一緒にサンドイッチを注文した。
店主に小皿を求め、それに分けて子供と食べている。すっかり母の顔だ。
父となった男は、お昼になると相変わらず私のもとへ訪ねてくる。
しかし、母と息子の顔を見る機会が少なくなった。
住まいを隣町へ移したそうだ。どおりで会わなくなった訳だ。
男の働き先も、私からよく見える場所になった。
家族共々、改めて新しい生活が始まったんだな。
ある日突然。
お昼になると毎日のように訪ねてきていた父親は、姿を見せなくなった。
上の者からの指示で、働き先が遥か遠くに移ったらしい。
少し残念だが、徐々に階段を上っていくのは良い事だ。
世の中は景気が良くなり、私の周りも賑やかになった。そんな時代だった。
それから年月が経たないある日。一人の若者が私のもとを訪ねてきた。
どこか見覚えがある。面影がある。
そうだ。あの母親に手を引かれてやって来ていた子供だ。
すっかり大きくなった。立派な少年だ。
いや、年の頃なら17才ぐらい。少年と青年の間だ。注文する声で分かる。
カウンター席でカレーを食べる姿は、父親そっくりだ。
唯一違う所といえば量だ。育ち盛りは食べ盛りと聞くが、私を訪ねてくる度に恰幅が良くなっていった。
ただ、律儀な少年だ。私のもとから去る前に、必ず「ごちそうさまでした」と言う。
少年と青年の間にいる者は、時に友人を連れて訪ねてきてくれた。
同じ年頃の異性と訪ねてくれる事もあった。若い頃の父と母が座ったボックス席で、お互いの料理を分け合って食べていた。
そして再び、元のようにカウンター席でカレーを食べる姿を見るようになった。
少年と青年の間で生きる者は誰でもそうだ。その様子を何度見てきた事か。
やがて月日は流れ。
父も母も子供も、私を訪ねてくれる機会は殆どなくなった。
時折、私の店先で売っている持ち帰り用のエビカレーと玉子サンドを買う妙齢の女性を目にする。母親だ。その横には小さな男の子がいる。
随分と年の離れた子供を持つ身になったものだ。いかにもやんちゃな子供の顔は心なしか兄に似ている。母の横で騒がしく動き回っている様子は、あの時の兄とは似ても似つかないが。
この場所に身を置いて40年経った時。店主は私をリニューアルしてくれた。
何の事はない。衣替えのようなものだ。
その作業が始まった或る日。心配そうな顔をして私を見る一人のサラリーマンがいた。今度は見覚えがある。少年と青年の間にいた者は、スーツに身を固めた成年へと変わっていた。そして私の入口の前の張り紙を見て、安堵して家路に向かっていた。
成年の勤め先は、私から少し遠いようだ。
そして、明らかに多忙のようだった。
私が目を覚ます前、成年は足早に私の前を駆け抜ける。
そして私が眠りに就く頃に、疲れた顔をして私の前を歩いていく。
そんな姿も、やがて見なくなった。
最後に成年の顔を見た時は、すっかり痩せ細っていた。
その頃からか。私の周りから次第に賑やかさが薄れていった。
私の衣替えが終わると、再びお客様が訪ねてくれるようになった。
それから2年ぐらい経った頃だろうか。
店先で持ち帰りのカレーを買う子供連れの家族がいた。
母の横でやんちゃ声を出していた子供は、すっかり一児の父となっていた。
「母ちゃんが、ここのエビカレーじゃないといけないと言うんだ」
あの時のやんちゃ坊主は、妻にそう話している。その隣にいる子供は、必死にフルーツサンドをねだっている。「あの頃の父親」とそっくりのやんちゃ坊主だ。
それにしても、私が若い頃に訪ねてくれた一組のカップルは祖父母になったのか。私も年を取る筈だ。
私がこの場所に身を置いて48年目。突如として周りの様子は一変した。
街から人通りが消えた事もあった。私も眠りに就く日が増えた。
そして目を覚ました時、街行く人々の誰もが口元にマスクを付けていた。店主もいつの間にか、マスク姿と化していた。
私の入口には消毒スプレーが置かれた。お客様が帰った後、消毒液がたっぷりと染み込んだ台拭きで、以前より丹念にテーブルが拭かれるようになった。それが当たり前の日常となりつつあった。こんな事は長く生きてきて初めての事だ。
そして、街の活気は薄れていった。確実に薄れていった。
そんなある日の午後。
一人の男性が私のもとを訪ねてきた。
年の頃なら40代初頭ぐらいか。私がこの場所に身を置いて時が経たない頃に生まれた子供であれば、もうこれぐらいの年齢になっているだろう。
男性はカウンター席に座り、着ていたジャケットを隣の席に置いた後、カツカレーを注文した。カレーが来るまでの間、まじまじと私を見ている。その表情はとても懐かしげに見えた。各々の料理に付けられた値段を見て驚いてはいたが。
そうしていると、彼の前にカツカレーが運ばれた。
男が付けていたマスクを外した時、今度は私が懐かしさを覚えた。
髪には白いものが目立つようになった。最後に目にした時と同じく痩せてはいるが、表情はすっかり穏やかになっていた。
カツカレーを口に運ぶ顔は、言葉では表せない。店主が心を込めて作るカレーの味を、じっくりと噛みしめていた。時間を懸けて味わっている姿は、若い頃の父親とは比べ物にならない。レギュラーサイズのカレーを食べ終わった後の満腹な表情は、恰幅の良かった頃を知る者として想像だに付かない。
ただ、お会計を済ませ「ごちそうさまでした」と言って私のもとを後にするのは、あの頃と全く変わっていなかった。
一組のカップルが私を訪ねた。その後、結ばれた。
妻となった者はお腹を大きくした姿で訪れ、やがて母となった。
父となった者は腹に流し込むようにカレーを食べ、懸命に働いた。
母に手を引かれていた子供は、仲間や恋人と訪れるようになった。
年の離れたやんちゃな弟は、立派な父親となった。
そして今、再び「あの時の子供」は私を訪ねてくれた。
街並みは、私がこの場所に身を置いた頃とすっかり変わった。
衣替えを繰り返しながら過ごす者もいる。去っていった者も多くいる。
私の周りには、若いカレーショップも増えてきた。
しかし、「あの時の子供」は目移りすることなく私を訪ねてくれた。
そして、満足感と懐かしさがないまぜになった表情をして去っていった。
私も来年には50歳になる。半世紀、ここに身を置く事になる。
店主の作るカレーのおかげで、私を訪ねてくるお客様は満足げな顔をして去っていく。そしてまた訪ねてくれる。幾度も訪ねてくれる。
時代が移り変わろうと、美味しいものは人を楽しませる。