投げと賭け
わたしは誰かにものを投げる。わたしにとっても誰かにとっても、そしてものにとっても、放り投げることは賭けだ。わたしから離れたものは、しばしの間、重力に委ねられ、放物線を描く。線は、うまく誰かに向かっているだろうか。向かっていたとして、誰かはものを、うまくキャッチしてくれるだろうか。もし、ものがキャッチされなかったとして、地面に落ちたそのものは、壊れずに済むだろうか。どこかに転がり落ちて二度と手元に戻らなくなりはしないだろうか。
こうしたいくつもの懸念を、わたしは、ものとともに手放す。賭けは、何かを手放すという動作をしばしば伴う。ダイスを投げるとき、ポーカーの手札を捨てるとき、ルーレットの玉を投げ入れるとき。懸念を解く確たる手だてのないまま何かを手放すとき、わたしは賭けに出ている。そして、誰かに投げることで、誰かを賭けに巻き込む。ものは投げられる。キャッチされることを賭けて。キャッチボールは、わたしと相手との賭けの連続だ。わたしの投げた球が相手の球がミットに収まるとき、わたしも相手も小さな賭けに勝つ。今度は相手が投げた球をわたしが受け取る番だ。
広島の海を見晴らす防波堤の階段を家福が下りていく。みさきは階段の途中で立ち止まる。みさきと距離をとったまま、家福はライターを鳴らし、煙草に火をつける。ふと振り返ると、みさきがポケットを探っている。家福はライターをちょっと掲げて、みさきがこちらを向いたのを見ると、手を後ろに振り上げる。コンクリート製の防波堤はいかにも固そうで、安物の100円ライターを放り落としたら壊れてしまうかもしれない。けれど、家福はためらいなく下手からライターを放る。この、ささいな賭けによって、別々の方向を見ていた二人は、ひととき向かい合う。
そのライターをキャッチするみさきの動作のあざやかさときたら。及び腰でもない、落とすまいと両手で受け止めるのでもない。飛んでくるものの軌跡にすばやくフォアハンドで入った右手は、一瞬のためらいもなく、ライターと出会った瞬間にさっと外側に払われたかと思うと、もう狙ったものは手中に収まっていて、火を点けるべく手元に引き寄せられている。この淀みない完璧なキャッチによって、観る者は、家福の試みた小さな賭けがみさきによってあっけなく遂げられたことに気づく。その確かな腕前は、サーブを滑らかに操る勘の良さを体感させる。
家福は、煙草を持った手をみさきの方にちょっと突き出して、相手のプレイを讃える。そのあと家福が、妻とのことを初めてみさきに話し出したことは、この小さな賭けに勝ったことと無関係ではないだろう。
このシーンには、もう一つ、観る者をはっとさせるやりとりがある。遠くで犬の吠える声がして、なにものかがコンクリートにあたってごそりと音を立てる。みさきは立ち上がって、その音をたてたものを手にする。遠くに犬と女性がこちらを見ながら歩いており、みさきは手にしたフリスビーを投げる。
フリスビーは画面の中を、カーブを描いて着地する。もし飛翔の軌道を保って転がったなら、フリスビーはそのまま画面の外にでてしまっただろう。実際、犬はすたすたとフリスビーの軌道の延長線上へと歩み出て、画面から見えなくなってしまう。
ところが、回転の効いたフリスビーは着地したとたん、思いがけなく逆方向に転がって、画面の中央へと方向を変える。それを追いかけるように画面の外から犬が走って戻ってくるとき、わたしは何かの賭けに勝った気になる。これは単に、みさきと犬とフリスビーだけの賭けだったのではない。フリスビーを犬が捉えるその瞬間を、カメラがキャッチすること。三浦透子の一投は、それを賭けていた。そしてカメラがフリスビーを咥える犬をキャッチするとき、観る者は、みさきと犬とのあいだにうかがい知ることのできない親密さが生まれていることを知り、その親密さに観る者自身も巻き込まれていることを知る。ちょうど家福がみさきにライターを放り投げたあと、自身の過去を語り出したときのように。