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本当は大丈夫じゃないなんてこと、たくさんあるよね

自分を犠牲にする性格は完全に母からの遺伝なんだなと母を見て痛感する。

寄りかかることができる人がいてくれることの安心感よりも、寄りかかることで相手に負荷をかけてしまうことへの不安の方が大きい。苦しいということを、言えないことが苦しい。
これまで長い間一緒にいたことのある人たちは、みんな素直に疲れたしんどい苦しいを吐ける人たちだった。私はそれができない。もし自分より相手が苦しかったら、ということを考えて言えない。どうして自分の気持ちを吐露するのにここまで考えてしまうのか自分でもわからない。本当は言いたい。大丈夫じゃないって。

ひとりでいるときのほうが自分が強くいられるのは、自分しかいないからというプレッシャーを常にかけ続けているからかもしれない。膝から崩れ落ちそうな日があっても、なんとか立っていられるのはなぜなんだろう。もう崩れてしまえばいいのにと心から願う日もあるけど、耐えられてしまうそんな自分に嫌気がさす日もある。どうしてここまで強くなってしまったんだろう。誰かに寄り添うことが怖くなったのはいつからなんだろう。たぶん、辛い、と言うことより、相談されることが多かったから。苦しいしんどい疲れた死にたい。そういう言葉を何度も聞いてたことがあった。私よりもずっと苦しい思いをしている相手に、自分もしんどいだなんて、言えるわけがなかった。というより、どう考えてもその人自身の方がしんどいのは事実だったから。私が強くあらなきゃいけなかった。一緒に落ちてはいけなかったから。元バイト先の30歳の友人も、孤独を抱えた後輩も、いつか消えてしまいそうな雰囲気を纏ったあの人も、平気なフリをする母も、みんな守りたかった。気付けば自分の心のうちは誰にも話せなくなった。みんな私を強いと言うようになった。強い女でいたい、葛城ミサトみたいなかっこいい女性になりたい。そうやって強く気高い女性を目指してた。強いよねと言われることは嫌ではなかった。けど、最近はそれを虚しいと感じるようになった。
それだけ強ければ大丈夫だね。(そう簡単に傷つかないよね。立ち直るのがはやいんだろうね。ひとりでも大丈夫だね。)そう言われてる気がするようになった。
そんなことはないのに。

私はきっとこれからも本当のことを人に言えないと思う。結局、自分自身と対話をし続けていくんだと思う。
平気なフリだけがうまくなっていくんだと思う。平気なフリをしてたら、いつのまにか本当にそうなれた、なんてことがあるならそれはそれで良いのだと思う。

今私の隣にいてくれる人を心から信用して、苦しいときに苦しいと言える日が来るのかな。
相手のことを受け止めすぎてまた自分が苦しくならないようにしたいな。


ずっと心が曇っていたから少しでも晴れにしてあげたくて書いたけど、あんまり晴れなかった。
いつ晴れるかな。それも私次第か。
頑張れ、私。




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