バブル崩壊後の世界で、銀行員のモラルを守ろうとする社員たちを描いた映画『金融腐蝕列島 呪縛』
この映画を初めて観た時、私はまだ会社員だった。
原田眞人監督のことも、原作を書いた作家・高杉良氏のことも、この物語が1997年に実際に起きた第一勧業銀行総会屋利益供与事件をモデルに描かれたということもまだ知らなかった。映画の封切りは1999年だが、私が観たのは2000年代半ばだったと思う。総会屋という人たちの仕事ぶりもこの映画で知った。企業の株を買って株主になり、株主総会の進行の邪魔をすると企業を脅して金品を受け取る人たちのことだ。裏社会にも通じている。この映画に描かれるのは、その総会屋と勤め先の銀行との呪縛を断ち切ろうとするミドルエイジの行員たちの戦いである。
原田眞人監督が描く組織ものの作品は台詞が早い。ついてこられるやつだけついてこいスタイルだ。登場人物は「Cルート」「MOF担」など社内用語でガンガン喋る。金融用語や株主総会関連の単語も次々出てくるがいちいち解説などしてくれない。これに比べたら『シン・ゴジラ』のセリフは親切だった。だが、組織ものに関して言えば親切でないつくりの方が私は好きなのだ。組織の内部事情を覗き見しているようなドキドキ感がある。
以下、ストーリーの紹介にはいる。ネタバレも含まれるのでまだ観てない方は先に視聴をどうぞ。
物語の舞台は大手都市銀行の朝日中央銀行(ACB)。そこに勤める企画部次長・北野浩が主人公だ。役所広司が演じている。ACBではバブル期に総会屋への不正融資が行われていた。「できるかどうかも怪しいゴルフ場の会員権担保に30億」も貸していたのだ。
バブル崩壊後に「不良債権」という言葉が飛び交ったのを昭和生まれ人間は覚えていると思うが、バブル期に貸しまくった融資が回収できない銀行を助けるために国は税金を注ぎこんで支援していた。不正融資があったとあれば当然問題になる。しかも相手は総会屋だ。これに地検の家宅捜索が入る。世間も注目する。
だが、白髪頭の重役たちの動きは鈍い。セリフの端々から「マスコミが騒ぎすぎだ」という気分が感じられる。自らの保身のためだけにマスコミに不用意に情報をリークしてしまう重役もいる。「娘さん、来週結婚式だろ?」と説得されて辞任を思いとどまる重役もある。当時は子供の結婚式において親の社会的地位が高いことが重要だったのだ。どちらにしろ、バブルでいい思いをしたおじいさんたちは逃げ切ろうとしている。
これに対して危機感を持ったのは30代、40代のミドルエイジの優秀な行員たちだ。彼らは銀行マンとしての倫理を取り戻そうとする。法律的には問題ない、と主張する顧問弁護士に対し、主人公の北野は冒頭で開かれる会議でこう発言する。
「今は法律的にどうこう言ってる場合じゃないんです。銀行マンとしてのモラルの問題なんです。自分はこういう融資が許されると教えられた覚えはありません。あってはならないことだと教わりました」
だが、「バブル期にはみんなやってたじゃないか」という声によって、ミドルの意見は封殺されてしまう。主人公の上司が気にするのは部下が自分を飛び越えて会議で発言したことだけだ。勤め先がなくなるかもしれない危機にあってなお、社内の評価のみを重視する。
このままではACBは危ない。総会屋との間に結ばれた「呪縛」を断ち切るため、主人公たちは立ち上がる。
ラスボスとして設定されているのは、仲代達矢が演じる佐々木相談役。主人公の義父でもある。呪縛を作り出したのは歴代の経営陣ではあるが、佐々木相談役もこれを断ち切れずにいる。というか断ち切る気もないのに、断ち切れなかった責任を部下たちのせいにする。映画の冒頭に桜の下で談笑する和服姿の老人たちが出てくるが、彼もその会に招かれる一人である。しかし彼だけが悪いという描き方をこの映画はしていない。
合併後も続く旧銀行同士の派閥争い。接待に溺れる大蔵省(MOF)の官僚。勉強ばかりしてきた彼らを酒池肉林の世界に引きずり込む銀行マン(通称・MOF担)。すでにないバブルの幻影の中にいる組織人たち全員が、自ら属する組織の崩壊を進めていく。「無事に定年まで勤めたい」という一社員の事なかれ主義もそこに加担しているように見える。
最近、バブル期を懐かしむ文章を読んだ。
共感している人たちの年齢を見ると、当たり前ではあるが、バブル期を知っている人たちによるものが多い。だが私にはあの頃がよい時代だったとはとても思えない。大人たちが狂乱していた様子を覚えているからだ。彼らは海外旅行に大挙して繰り出してブランド品を爆買いしていた。香港の出張から帰った父は小学生の私へのお土産にシャネルの香水や毒々しい色の口紅を買ってきた。外食に連れていってもらっても美味しいと思った覚えがない。お金はたくさんあっても本当に欲しいものはどこにもない。そんな時代だったように思う。
社会人がジュリアナ東京で踊り狂っている映像の次に、山一證券破綻の記者会見の映像がきて、「何でこんなことになったの?」と右往左往する大人たちの姿がくる。それが私が記憶するバブルの全てだ。
その後にやってきたのは長い就職氷河期と大量に生まれた非正規雇用だ。バブル期に欲望の限りを尽くした大人たちのツケを払ったのはバブルを知らない若者たちだった。
だから、この映画の主人公たちに共感してしまうのかもしれない。バブル崩壊は第二の敗戦とも言われるが、敗戦処理を引き受ける羽目になったのが北野たちだ。バブル期には過労死ギリギリまで働かされていただろう彼らは、地検の捜査に振り回され、マスコミに糾弾され、総会屋からは銃弾を撃ちこまれることになる。若手たちが文字通り身を削っているのに、年老いた相談役は「私に対する気遣いが足りない」と子供のように駄々をこねる。
そんな中、先進的な考えを持つ海外帰りの新頭取とともに不退転の覚悟で挑む株主総会がクライマックスだ。
この映画では、主人公が感動的なスピーチをするシーンはない。英雄的な行動もしない。だがそこがいい。冷や汗をかきつつ、企業をあるべき姿に戻すため、議論を重ね、試行錯誤する。その積み重ねを淡々と描く。
私が好きなのは、主人公らミドルエイジの行員たちが、「もう辞める」と書類をばらまくシーンだ。重役たちの不甲斐なさに憤った彼らは「お前にはコネがあるから転職できるだろ」「お前こそ」などと喧嘩混じりの話をする。そうしているうちに覚悟が固まっていく、この夜のオフィスのシーンは本当にいい。
それぞれに養っている家族もいる。今と違って転職は難しかった時代だ。不安でないはずがない。でも彼らは誰にもできなかったことをやろうと決めた。呪縛と戦う決断をしたのだ。
オススメの登場人物は、大蔵省官僚の接待役、通称MOF担を務める片山昭雄。演じるのは椎名桔平だ。リムジンに乗って官僚にシャンパンをふるまい、ノーパンしゃぶしゃぶに連れて行く片山。「銀行マンとしてのプライドを捨ててもいいのはMOF担だけ」と嘯きながら、主人公とともに上層部と戦う。チートな人物が好きな人はハマるキャラだと思う。
「開かれた株主総会」を目指すことになる主人公たちが、インターネットを使う人たちであるのもグッとくるところだ。ウィンドウズ98が発売されて間もない日本で、日常業務でPCを使う最初の世代である彼らは行内ネットワークを使い、Eメールで励まし合う。対して白髪頭の重役たちが用いる連絡手段は電話、ファックス、重厚なしつらえの重役室に呼び出しての対面会話である。インターネットの登場によって、上に立つ者が情報を握る、という構図が崩れていく。そんな時代の始まりを活写している。
ウィキペディア情報ではあるが、この映画の原作を小説家の高杉良氏が新聞に連載していた当時、読者には女性が多数いたそうだ。そのため映画ではオリジナルキャラクターとして、外資系報道機関ブルームバーグに勤める女性・和田美豊が登場する。演じているのは若村麻由美だ。
「日系のマスコミを辞めたのは女性差別があったから」と語る和田が勤めるオフィスの描写が面白い。ドリンクが詰まった冷蔵庫と紙コップが大量に置かれている。このオフィスにはお茶汲みの女性がいないのだ
1990年代半ばのペットボトル飲料の登場はオフィスの女性たちをお茶汲みから解放するきっかけを作ったと私は思っている。若者は個々に飲み物を持参するようになった。さらにPCの普及によって、キーボードのそばにキャップのない飲み物を置くのは危ないという意識変化が生まれはじめたのもこの頃だ。
一方、ACBには、重役にジャム入りの紅茶を淹れる秘書がいる。受付には制服を着た美女たちがいる。総合職女性もいるにはいるが、男性たちの背景にされている。泊まりこみで働く男性たちの元には妻たちがスーツの替えを持ってやってくるが、女性たちはどうしたのだろうか。
この格差はこの映画ではおそらく意識的に描かれている。主人公たちもまた男性社会の呪縛に囚われているのだ。だが、女性である和田はその呪縛の外にいる。主人公たちが口を割らないと知るや、さっさとACBの海外支社に電話を入れ、ガラスの天井に対する憤りをシェアしながら、現地の女性総合職から次期頭取の情報を引き出す。「海外支社の女」と呼ばれているこの女性総合職、最後まで姿を表さないが、かなりのやり手らしい。
主人公の北野は家庭に帰ってなお、家長として傍若無人にふるまう佐々木相談役と対峙しなければならない。古い時代の呪縛とそれを打ち破ろうとする戦いが二重三重にも描かれ、その末に開かれる株主総会のシーンは圧巻だ。
はたして呪縛は解かれたのか。
原作を書いた高杉良氏の作品は今再び売れているらしい。当時を懐かしむ年配の方々が買われているのかもしれない。
だが、私はこの映画をバブル期を知らない人たちにこそお勧めしたい。
自分たちの人生に大きく影響した「第二の敗戦」のことをについて、私はもっとよく知りたいと思っている。