見出し画像

グループワークもいいものだ

気取らずに書こうと思ってはじめた日記なのに完成度を求めてしまう。人に見せると思うと、テーマ設定や構成にこだわってしまう。これだと書き続けられない。なにも決めずに書くというのも難しいものだ。

今週はいそがしかった。
土日は慶應義塾大学主催の「メタバース(バーチャル空間上の生活環境)」に関するスペキュラティブデザインのワークショップに参加していた。

私は先月、日本SF作家クラブに入会した。その目的の一つが「企業の新規事業開発などに用いられはじめているSFプロトタイピングについて勉強したい」だった。友人の勤務先でも行われていて興味があったのだ。

おりよく、慶應義塾大学理工学部管理工学科の准教授主催の大澤博隆氏が、スペキュラティブデザインのワークショップを開くと知った。SFプロトタイピングとスペキュラティブデザインとはも相互に影響がある。私は、この本を読んだばかりで「自分もやってみたい」と思っていた。

つまり今回のワークショップは願ってもないチャンスだった。会社員時代に企業の未来予測に関わっていたこともあって、最新の新規事業開発手法を学んでみたかったのだ。スペキュラティブデザインのフレームワークは小説のプロットを作る手法とも似ていて、すんなり入れた。
フレームワークを提供してくれたのはミュンヘン大学の研究者たちで、私たちのワークショップのデータは彼らの研究に使われるとのことである。

スペキュラティブデザインは「問題解決ではなく、問題提起のためにデザインやアートを作る」ものだ。今回のテーマはメタバース。グループで2030年のメタバース社会の可能性に向けた製品コンセプトを作る。

製品コンセプト……!

会社員時代の私が来る日も来る日も作らされたやつだ。製品と商品は違うのだとか話せばきりがないのだが、とにかく、2030年のメタバースの製品コンセプトを2日で作って、視覚化してプレゼンしなければならない。そして、そのコンセプトはメタバースでなければ実現せず、なおかつスペキュラティブでなければならない。つまりは、その製品コンセプトが現在および未来社会への問題提起になっていなければならない。

テクノロジーに塗り替えられながら複雑化する現代社会において、いま「ものごとの根本からクリティカルに問い直す力」があらゆる分野で求められています。自分は革命家ではない、とあなたは思うかもしれません。しかし自分が身を置く世界を、このまま迎えるであろう未来を、あなたは肯定しているでしょうか。個人がよりよい世界を思い描いたとき立ち現れる、「いまここにあるもの/常識とされていることへの、問い」のみが、自分の生きる世界を変えることができるのです。

『20XX年の革命家になるには──スペキュラティヴ・デザインの授業』より

ちょっと難しいけど、私が仕事・労働小説を作るときに押さえるポイントと近い。まず、その「仕事」や「労働」でしか描けないことを探す。その物語が描かれること自体が、社会への問いになるように設計していく。たとえば「なぜ会社員は定時で帰れないのか」とか。

前に読んだメタバースの本に、最初にメタバースにくる人というのは現実社会の構造に抑圧されて自由にふるまえない人だろうと書いてあった。1990年代にインターネットを始めた若者である私に、その指摘はしっくりくる。あのころのインターネットはいい意味で無法地帯だった。たとえばだが「現実社会では口に出すのも憚られる悪いことでも、メタバースではできます」という社会倫理の隙をつく製品ができたらどうか。「誰に迷惑かけるわけじゃなし、いいじゃないか」となるのか「いや、やはりダメだ」となるのか。2030年のヤフコメ(それまであるのかな)に噴出すると予想される賛否両論を考えていくうちに、自分がどんな未来を望んでいるのか、どんなタブーや常識にしばられているのかが見えてくる。

グループワークをやるのは10年ぶりだ。1人でやればなんでも思い通りになるものが、グループワークではそうはいかないけれど、自分の発言から他の人が急に突破口が見つけることもある。参加者の世代や職能が様々なので集合知が得られる。どう転がっていくのが見えないのが楽しい。たまにはこういうことをしたほうがいいと思った。

たとえば小説執筆のフレーワークとして、こういうのがある。

レビューを見ると「これだけでは小説はできない」などと賛否あるようだが(これだけでできるという手法はそもそもないと思うが)、実際使ってみると、アイディアがあふれすぎる私には、とりあえずベタなストーリーにはめこんで過不足をみるという作業ができてとても良かった。これをグループワークでやってみたら面白そうだ。
仲がいい小説家同士で、温泉に泊まってコタツを囲んで、小説のプロットをストーリーをみんなで作る作業をいつかやってみたいと思った。