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『かごいっぱいに詰め込んで』の読書エッセイを書きました

こんばんはー!一気に秋ですね。

私とはいえば、五年もやってる長編がいよいよ後半戦にさしかかってきました。五年も何をやっていたのかって? まずプロローグを何度も書き直し、それから第一章を書いたもののの何だか違うぞ? となってプロローグをまた書き直し、第一章も書き直し、なんとか第二章に進んだもののやはり止まってしまう。これはもしかしたらテーマの解法が違うのではないかとまたプロローグからやり直し、という繰り返しをしていました。ようやく四章まできたと思ったけど、やっぱり変な数字が出てしまうので、もう一回解法を変えて最初からやり直してみたら「いけるんじゃない?」となりました。いまここです。

ちなみに何度やってもエピソードは同じだし、キャラクターも同じなのですが、主人公が決まらない。何とか人物像ができてきたものの、最後のあれがこない。あれとは……『駅物語』の直にも、『わたし、定時で帰ります。』の結衣にも、『対岸の家事』の詩穂にも持たせていたもので、社会がその属性に押しつけてきた偏見と先入観を利用したカウンターみたいなものです。

とにかくそういうのはとつぜん降ってくるものではなくて、論文や書籍を読みまくったり、今も行われているその属性へむけられる蔑視に満ちた語りをサンプリングしたりしているうちに、ちょっとずつ見えてくるものなのですが、研究者の友人に「うちのラボの学生にもそのくらいの執念でやってほしいものだよ」と言われたほど、長くやっているのでさすがにしんどい。

でもその最中に、講談社の編集者さんたちが「これ読んでみて」と渡してくれた新人作家たちの小説にちょっとずつ助けられています。たとえばメフィスト賞作家の金子玲介さんの『死んだ山田と教室』。

男子校も女子校も、別学の高校ってだいたい私立じゃないですか。同性しかいない、同じくらいの偏差値の同級生しかいない、経済的に恵まれた家庭の子しか存在しない、多様性がない、大人の手で作られた人工的な世界。だからこその溶け合っていく関係は、正直なところ、公立共学ルートで育ってきた私にはこれまでまったく理解できない環境でした。「そんなにみんな同じじゃないと安心できないのか?? 寂しがりなのか?? 人類補完計画なのか??」というのが正直な印象としてあるのです。
でもこの小説を読んでいると別学だからこその心のありようがしみこんでくるし、クラスで一番の人気者のはずの山田だけが感じている孤独がきわだっていく。死んでからも孤独だけど、生きているときから孤独。そうなっていった理由を読んだときに「ああっ」と思ってしまいました。これは多様性をあえて排除した場所を舞台にしなければ書けないテーマだなと納得感がすごかったです。
講談社で打ち合わせをして帰ろうとしたら、元担当さんが駆け寄ってきて「これ読んでください!」と差し出してきたので読んでみたのですが、ほんとに読んでよかったです。

同じころ、同じくメフィスト受賞作家の真下みことさんの『かごいっぱいに詰め込んで』も読みました。こ前から読みたいと思っていたのと、書店員さんたちが絶賛していたのとで「ますます読みたい」と思っていたところ、これも講談社の担当さんがプルーフを送ってくれました。もちろんただでプルーフをくれるわけもなく「読書エッセイを書いてくださいね」と言われたので書きました!

こちらから読めます。本作の感想はここに書いてあります。

一部、引用しておきますね。

そう、私たちは人の役に立ちたいのだ。人から感謝されたいのだ。存在を認められたいのだ。それはとてもとても強い欲望だ。それがあるから人は成長し、懸命に働き、社会が発展していく。けして悪いものではないから、社会で生きていこうとする限り、みなそこをめざしつづける。だからこそ、自分が役に立たないものになってしまったとき、そのことを打ち明けることすら許されない気がする。

むちゃくちゃざっくりとした印象で恐縮だけれど、最近の一般文芸作品は連帯をテーマに書かれることが多い。でも、若者時代をコロナ禍に奪われた世代の作家たちが書く世界はもっと孤独だ。同級生たちと分断されていきながら、何かとても大事な基盤がグラグラになっている状態で、どうやって生きていこうかと葛藤しているように見える。
連帯できなかった寂しさ。そこに同じく若者時代を奪われたかつての若者として、親しみを覚えてしまうのだ。