義務的に無邪気

もっと無邪気にならなければならない。できることなら自然に無邪気になりたいけれども、それは状況に応じた(状況に応じていないという仕方で応じている場合も含めて)特定の態度を武装することがすっかり癖になっている私にとっては、どうやらすっかり難儀なことになっているらしい。意図的に、ほとんどそれが義務であるかのように無邪気になって、その上でその無邪気さを拵えたという事実を都合よく忘れてしまわなければならない、さもなければいっそのこと、せめて、その無邪気さが拵えられたものであり、他者の、あるいは自分自身の視線からそれを隠蔽し通しているのだという事態を極限まで自覚しておく必要がある。それができなければ文章を垂れ流すことなどやめたほうがいい、先人たちが自身に与えた影響を何も知らないふりをして、あたかも自分自身のオリジナルの言葉を吐出している気分に無邪気に浸っているなんて、私には耐えられない。

という文章を思いつくままに書いてみたけれども、私が斯様なスタンスを心の底から信じてなおかつそれを貫いているなどということはむろんなく、ただしこうして強い断定口調でそれらしいことを書いていれば、まるで本当にそう考えている人間であるかのように思われることができる、ということを、乗代さんのブログを読み漁りながら考えているし、本当は本当に前半のパラグラフこそが本心で、こうして茶化すようにして書かれている後半のほうこそ本心から遠く離れてただ書いてみただけのものなのかもしれない。本心とは何だろうか? ただひとつ言えることは、真剣になることへのほとんど本能的な忌避が私のなかには長らく横たわっている。

#日記  #エッセイ #コラム #小説 #創作

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