慶次郎の独白4
『ギーッ…パタン…』
扉を閉めた先――冷えた石畳を踏みしめ、洋館を後にする慶次郎の耳に、かすかな風音が届いた。
「……朝か」
空を見上げれば、東の空は白み始めていた。夜明けの冷気は鋭く、慶次郎の頬を打つたびに覚悟を突きつけてくるようだ。
気づいていないと思っているのだろうが、彼女がそこにいることは感じ取れていた。
冷たく張り詰めた空気の中に、美紗子の面影が滲んでいるようで……振り向きたくなる衝動を必死に押し殺した。
「忘れる事なんて出来ない…」
ほんの一瞬だったはずの視線――それでも、あの瞳は脳裏に深く刻み込まれ、離れない。
彼女の願いが、背中越しに届いている気がした。
それでも、歩みを止めるわけにはいかない。この道の先に待つものが「生きて帰る道」ではないことを、慶次郎は痛いほど理解していた。
「はは…お国の為に死ねと…?
違うな、美紗子の未来の為だ」
俺は国に対してはそう言うが、言葉は違えど守るべき者はただ1人。お前しか居ない、だからこそ死ぬ気で守らなければ美紗子は…
「ああ、時代が違ったならほんとにお前を迎えにいけるのに…」
まだあどけなさが残る頃に、お前が放った言葉を胸に生きてきた。些細な事だろうとなんだろうと俺にとっては救いの言葉だった。
戦争に入る、その直前の時だと言うのに、未来を語るお前が眩しかった。夢を語る事を諦めないその気持ちが俺にとっては宝物で、いつになるかわからないその夢を叶えてあげたかった。
だから俺は必死になって、生きて帰るように知識もなにもかも習得した。お前の笑顔を守るために。
だが、時代はどんどん過酷になっていく。
夢を語ることすら許されない、そんな雰囲気の中で諦めないお前を見守っていきたいがそれもいつまで出来るのか分からなくなってしまった。
ーー今度の出撃だってわからない。
この大空のどこで敵機に遭遇するのか――いつ誰が散るのかなんて、神ですら知りはしない。
それでも、生きて帰る希望を捨てる気はない。たとえ、それが無謀な願いだとわかっていても……
「だから、眠れぬ夜、震える手で書いた手帳を託した。その紙切れひとつが、美紗子と俺を繋ぐ最後の絆になり得ると信じて――。
それは、死後に届く、たったひとつの”生きた証”なると俺は信じたい。」
爆音が鳴り響く空の下で、未来を夢見ることすら罪になる時代だ。
けれど、あの子の笑顔だけは――どんな時代でも奪わせはしない。
「俺は消えるかもしれないが、その願いだけは、あの青空に向かって飛ばす。」
どれだけ恐ろしい音が響こうとも、砕け散る爆音の中で、俺はあの声を思い出してしまう。
「『大丈夫、お兄様は絶対に帰ってくる』と無邪気に笑うその声が、嗚呼……この鼓動が止むまで、その声は耳を離れないのだろうな――たとえ、鼓動が終わりを迎える瞬間でも。」
嗚呼、どうか…
どうか、この先に俺のいない未来であろうとも、俺の願いが美紗子の未来に届く事を祈って…
軍帽を深く被り直し、洋館の玄関口に差し込む白い光の中へ、一歩一歩、音を刻むように歩き出した。
玄関の階段を降りるたび、心の中で美紗子との思い出が薄れゆくような気がして、拳が小さく震えた。
スーッと涙が頬に伝っていくのが、自分でもわかっている。拳で頬を拭うが、冷たい風が乾かす前に次の涙が伝っていった。
「ー涙は日本男子として、流すなと上官に怒られるだろうな…」
涙は止め処目なく、止まらない。
それでも足を動かして、進まなければいけない。
分かっていた。
分かっていた筈なのに、覚悟がまだ出来ていない自分に驚きを隠せない。
それに足元の震えが止まらない。何度も言い聞かせてきたはずの“死ぬ覚悟”が、今この瞬間になっても腹の底まで響いてこない。
「……そうか、覚悟なんてものは、ただ死の直前に浮かぶ一瞬の安らぎに過ぎないのかもしれないのだろうな。」
コツンと、最後の一歩が石畳に響き、空気を震わせたように思えた。
ーまるで、それが『別れ』の音だったかのように。
音が消えたあと、空を見上げた。東の空に薄い橙色の光が差し込み、夜の残滓を押し流していく。
嗚呼、夜明けはこうも無情なのか――別れを強調するように、ただ静かに空を染めていった。