恵まれた人
東日本大震災から、もう10年。あっという間だ。
被災地にいて、電気も水もなく、避難所で暮らした日々。テレビを見たり、ネットで情報を得る余裕もなかったので、改めて、原発のことや津波のことを知ると、これは、大変なことだったなぁ…と、強く思う。
全く為にはならないと思うけれど、10年前のあの日々の中で、記憶に残ったことを振り返ろうと思う。
まず、地震。とんでもなかった。私はビビりすぎて、着替えの途中で、玄関先まで飛び出たので、下着姿でドアと一緒に、開いたり閉まったり、する羽目になった。危なかったから、頭も守って蹲ったほうがいい。
ビビりまくりで、避難したバイト先で、津波にあった。一晩、バイト仲間と寒くて暗い中、そこで過ごした。
12日がお誕生日の子がいて、日付が変わった時、不謹慎ながらも、みんなでおめでとうを言って、プレゼントになにが欲しい?なんて聞いたら、「みんなが無事でいてほしい」なんて言うから、ちょっと泣けた。
夜中、歩ける程度に水が引いたので、裏の駐車場に車を見に行ったら、バイト仲間の車がみんな押し流されていて、なんだか仲良く寄り添っているようで、ちょっと笑った。
車の中を見たら、もうすでにスニーカーとCDが盗まれていて、怒りとか悲しさの前に、この状況で人の車から何かを盗もうとする、その発想と気力に驚いた。今後は、車に大切なものは、積んでおかないようにしようと、固く誓った。
次の日の朝、朝日と共に、消防士の人が現れた時、「助かったー」って思った。輝いて見えた。実際、朝日で輝いてた。映画みたいだった。
「知り合いの自衛隊の人からの情報です。雨に放射能が含まれているので、雨には当たらないように、気をつけてください。」みたいな、真偽不明なメールがよく来た。一応、従ったりしてた。
友達が家まで来てくれて、近所を闇雲に歩き回った。津波が来たところは、なんだか臭くて、道路も土に覆われて茶色で、砂埃も酷かった。けど、くだらない話をしながら、闇雲に歩き回った。
避難所が母校だったので、プチ同窓会みたいになってた。友達が情報通で、夜になると、私ところにやってきて、誰がどこの部屋に避難してる、とか、いろんな情報をくれて、嬉しかった。
校舎のトイレは、プールの水を使って、確か大きいほうの時だけ、バケツの水で流すことにはなっていたけれど、匂いも汚れもなかなか酷かった。数日後に、仮設トイレが校庭に出来て、仮設トイレの快適さに、感動した。家がある程度片付いて、家のトイレを使えた時は、本当に感動した。
避難所の教室に、小さい石油ストーブを持ってきた人がいて、あったかいし灯りにもなるし、上でお湯を沸かしたり、干し芋を焼いたりして、最高だった。3日くらいでその人がいなくなった時、悲しかった。
学校に電気が通ると、コンセントから携帯の充電をする為、延長コードで差し口がいっぱいあるやつを持ってきてくれた人が、神様に思えた。みんなで仲良く充電できた。
あの頃は、もう「生きてるだけで、恵まれている人」だった。私は、家族もみんな助かった。だから、恵まれている人だった。
家にも津波がきて、車もダメになったけど、でも、命があれば恵まれている人。
今は、子を持つ母になったので、地震も津波もすごく怖い。
もし、地震がきたら…の話は、何度も何度もしている。
けれど、できることなら、怖い思いはせずに、大人になってほしいと思う。
みんなが恵まれている人になれますように。