七夕(日記:21/07/07)

まずは酒を買いに、ついでに近所の神社に参拝に行こうと思い、クソジメジメクソだるっとか思いながら町に出た。
その道の途中にある、昨年閉店した駄菓子屋の前に、笹が飾ってあった。

その駄菓子屋はおれが小学生の頃に友達とよく遊びに行っていた店で、老夫婦(多分)が営んでいた事を覚えている。
近所のガキで賑わっていた。
当時のおれは酸っぱいもの、具体的に言えば梅干しや酢の物がめちゃくそ大嫌いだったのだが、ここの駄菓子で克服できたので、その体験を与えてくれた事を未だに感謝している。
(スペシャルサンクス:ウメトラ兄弟かつお味、よっちゃんイカ)

大人になってから、たまたまその近くを通った時も、やはり近所のガキで賑わっていた。
永遠にこの光景がここにあるんだろうな~~、みたいな事は決して思ってはなかったが、いざ閉店されると、サービスを利用しなくなった癖にたまにROMっては「うんうん^^」みたいな顔をしているユーザーが如く、おれもまた、サービス終了の時だけ「懐かしいあの場所が…」と嘆くアレになってしまった。(ROMるって死語な気がする)

そんな思い出の店先に飾ってあった笹にはカラフルな短冊が何枚も吊るされていた。

今日は七夕だった、とそこで思い出した。

ずいぶん歩いて、近所の神社に着いた。
近所と呼んではいるが、実際はここに辿り着くのに30分程度かかる。
おれの徒歩圏内は1時間ぐらいだ。おれのはそういう足なんだ。

一礼し、鳥居をくぐる。
手水舎に柄杓は無く、直接手を洗えるようになっている。
来る度に思うのは、コロナ対策ばっちりだけど手順混乱するよな、という事だ。

本殿にはやはり、短冊だらけの笹が飾られていた。
そこには大人の文字も、子供の文字もあった。

「家族が健康に暮らせますように」
「みんなが楽しく過ごせますように」
「早くいつもの日常が戻りますように」
「兄弟の病気が治りますように」

個人的な願い、言い換えれば欲望とも呼べる様なものは一つも無く、誰かの幸せを願うものばかりだった。
おれはそういうのに弱ぇので、なかなかやばかった。
その中でも特にやべぇなってのがあった。

「ここのみんなのおねがいが叶いますように」

子供の字体だった。
なんだよこいつ、仏陀の生まれ変わりだってのか?
ガキはもっとフリーダムでいいんだよ、Switchとか欲しいだろ?
こいつマジか?
おれはそういうのにマジに弱いので、ちょい泣きそうになりながら参拝を終え、神社を後にした。

みんなすげえなぁ、本当に叶うといいな~なんて思いながら今日飲む酒を買い込んだ。
おれは個人的に、願いや祈りってのは神様任せってわけじゃなくて、ある種の決意表明だとか、イメージトレーニングだとか、そういう作用があるものだと考えている。
自分が今、どうなりたいか、何が欲しいか、そういうフワっとした状態であるものを言語化して、一つの形として見つめる機会なんだと思っている。
その上で、いるかもしれない神様がそれを手助けしてくれるのかもしれない、みたいな。
「誰かの為に」と願った彼ら彼女らは願いを半分叶えてるような気がする。

その帰り道、近くのコンビニでまたもやカラフルな短冊を吊るした笹を見かけた。
やはり、子供の字体が目立っていた。
やはり、誰かの為に願うような言葉が多かった。


その中で、一際異彩を放つ短冊があった。



「すぱいだーまんになりたい」



マジで叶って欲しい。


いいなと思ったら応援しよう!