書物巡礼 4.9
『赤目四十八瀧心中未遂』
車谷長吉
「「生島さん、うちを連れて逃げて。」
「えッ。」
アヤちゃんは下唇を噛んで、私を見ていた。
「どこへ。」
「この世の外へ。」」
小学生の時、友達にプロフィールを書いてもらいファイリングして集める、というのが流行っていた。(今もあるのだろうか。)
生年月日、血液型、得意科目、趣味、やっている習い事、など色々ある中に”好きなタイプ”の記入欄が高確率であった。今思うと、あれを記入することが「自分がどういう人を好きなのか」を自覚する最初の行為だったような気がしてる。あの欄に自分が何を書いていたかはもう定かではないけど、「優しい」とか「スポーツができる人」とか、年齢に相応しい内容だったのではないだろうか。
きっと誰でも最初は、外見的魅力とかどういう才能があって何に優れているのかとか、その人の持つ魅力や長所に惹かれ恋に落ちていたと思うのだけど、段々に大人になると、人生観だったり仕事に対する姿勢だったり、あるいは話す間だったり自分以外の他人との接し方だったり、その人と自分の生き方がどれだけ共鳴してるか、共感し合えるか、に比重が重くなっていくのじゃないだろうか。
入り口は外見だったり才能だったりしても、最後の決め手は、もっと複雑だったりあるいは驚くほど小さなことだったりするのじゃないだろうか。
「赤目四十八瀧心中未遂」は1998年直木賞を受賞した車谷氏代表作の1つ。
「世捨て人」という生き方を自ら選んだ「私」は尼崎のアパートで毎日臓物に串を刺して暮らしていた。やがて、同じアパートに住む美しい女性「アヤちゃん」に惹かれていくのだがー。
「私」と「アヤちゃん」は心中というかたちで人生の末路を共にしようとする仲になるのだけど、最後まで"運命共同体"というにはどこか違和感を覚える関係性だった。互いが背負う孤独を嗅ぎ合っても、実際にそれに触れようとはしない。1人ぼっちのまま、2人は旅路を共にしていた。
それは無関心だとか薄情ということではなくて、互いの生き方を尊重し合い、そして1人の人間として信頼したからこそのもので、その思いやり故に奥にある領域には踏み込まなかったのだと思う。その塩梅が分かり合えるという心地良さに、2人は惚れ合ったのだろうな。
「私」も「アヤちゃん」も甘え下手で、妙に真面目なのだ。自分の傷の痛みより他人の傷の痛みに敏感で、だから上手に生きられない。
「アヤちゃん」の最後の計らいは潔くも切なく、グッときてしまった。
私小説作家として名高い車谷氏。
背筋に滴が垂れてヒヤリとするような静寂の狂気に満ちた「私」の恋の行方。
じっくり味わっていただきたい。
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