〈小説〉鳥はどこへいった
「鳥がいる!」
母が玄関で叫んだ。
「なになになに」
面倒くさいと思いながら僕は玄関に行く。
「鳥がいるのよ」
「鳥ぐらいいるだろうよ」
「青いのよ」
「青?」
「綺麗な青なの!ちょっと来て」
僕は母と玄関を出て団地の階段を降りた。
団地内の小さな公園の木に、青い鳥が止まっている。
「飼われてたんじゃないかしら」
「セキセイインコじゃない?」
「そうなの!?」
「うん、多分。ちょっと待ってて」
僕は言い、家に戻り台所にあった食パンの袋を開けて片手を突っ込み、パンの白い部分を乱暴にもぎ取った。
母のところへ戻ると、さっきより低い位置に鳥が移動している。
「何するの?」小声で母が言う。
「呼んでみる」
「呼べるの!?」
「シィー!」
パンを握る手を開き、腕を伸ばして鳥の方に差し出す。
ピュウと口笛を吹いてみる。鳥は動かない。
チチチチと鳥のさえずりを真似してみる。来ない。
「ピーちゃん」母が呼ぶ。
青い鳥はパタパタと不安定に羽ばたいて母の肩に乗った。
わぁ!と声を出さずに母が驚き喜ぶ。
僕も目を見開き喜んだ。
どうしよう、とまた声を出さずに母が唇を動かす。
「行こう、そっと」僕は言い、抜き足差し足で母の後ろについて団地の階段を登る。
その間も青い鳥は母の肩にじっと乗っていた。
玄関をそっと閉め、なるべく体が動かないように靴を脱ぎ、母は台所のテーブルに着く。
まだ鳥は乗っている。はははと母が笑う。僕も笑う。
声に驚いたのか鳥が飛ぶ。羽ばたいてテーブルに降りる。
「可愛い」
「ほんと、可愛いね。人に慣れてる」
僕は言い、パンをテーブルにおいた。
鳥はチクチクと、パンの端をついばむ。
「小さくちぎった方が良いんじゃない?」
母に言われて僕は鳥がついばんでいるパンに手を伸ばす。鳥がビクッと跳ねる。「ごめんごめん」言いながらパンをちぎり、小さく指でつまんでポロポロとテーブルに落とした。「食べてるね」母が言う。
「お腹空いてたんだね」
「水飲むかな?」
「うん、喉つまりそうだもんね」
僕は食器棚からコップを出す。
「お皿の方が良いんじゃない?深くて飲めない」と母が言い、ああそっかとコップを小さめの浅い皿に持ち変える。
水を入れ、皿をテーブルに置く。
パンをしばらくついばんでいたけれど、水は飲まない。
「いらないのかな?水」
「そうね、今はそういう気分じゃないんじゃない?」
「気分って」僕は笑う。
団地の人が飼っている鳥じゃないかという話になり、僕は裏が白いチラシを探し、『鳥を保護しています。頭が白く黄色いくちばし、胴体は青くて頬に黒いぶち、羽と尾の先が黒です』と書いた。
部屋の号数と名前も書き、さっき鳥が止まっていた木にガムテープで貼り付けた。
家に戻ると母はテーブルに着いたままで、鳥は母の両手のなかに包まれていた。
白いまぶたが下から目を包む。鳥はうっとりと安心したような顔をする。
「あったかい。ねぇ、ちょっと撫でてごらん。さらさらして気持ちいい」
そっとよ、と念を押され僕は指先で鳥の背中を撫でた。羽の手触りは気持ち良かった。
「ピーちゃん」母は優しく鳥に呼び掛ける。
「なんか箱ないの?」僕は言う。
少し考えてから母は「ケージがある」と言う。
僕がまだ小学生の頃犬が欲しいとねだり、団地では飼えないからと代わりに飼ってくれたハムスターが亡くなって何年も経つのに、ケージがまだ家にあると言うのだ。
僕は呆れた。母は捨てられない人なのだ。いつもはそれで揉めるけど、今回は母の捨てられなさが項を奏したことになる。
言われた通り押し入れの天袋を開くと、ごみ袋に包まれた透明のプラスチック製ケージがあった。
それをおろし、母の指示通り全体をタオルで拭き、新聞をちぎって下に敷き詰めた。
エサ用の小さな陶器も出てきて、「良いのあるじゃん」と僕はそれに水を入れケージのなかに入れた。
母が鳥をそっとケージに入れ、フタを閉じた。
鳥はパタパタと落ち着かない様子で、「とまり木がいるんじゃない?」と母が言うので僕は外へ出て適当な小枝を拾ってきてケージに入れた。
「もう少し太いのなかったの?」と母が言い、再び下に降りたときにはもう日が暮れかかっていた。
鳥は落ち着いたようで、木には目もくれず新聞紙に埋もれて隅っこでじっとしていた。眠っているようだった。
鳥の入ったケージを玄関先に置き、母は夕食の支度をし、僕は自室に入った。
いつものようにTwitterを見ていると、【#迷子鳥】というタグが目に入る。
そうか、その手があったかと思った。
僕は夕方テーブルで撮った青い鳥の写真を添付し、迷子鳥のタグをつけ、『青い鳥を保護しています。頭が白く、胴体は青くて頬に黒いぶち、羽と尾の先が黒です』とチラシに書いたのと同じ文面と、部屋の号数以外の住所を全て書いてツイートを送信した。
いいねもリツイートもほとんどされることのない僕のツイートは、すぐに誰かにリツイートされる。
ぽつ、ぽつといいねがつき、知らない人からもリツイートされた。
ツイートがバズった人がよく言う『通知がとまらねー』はこういう感じなのだろうか。とまらねーと言うほどではないが、通知のところに数字がつき、確認してもまた数字がつく。人気者になったような不思議な感覚だった。
晩御飯を食べ、風呂に入ってから自室に戻り、再びTwitterを開くとリプライが二つついていた。ひとつは「この方の鳥ではないでしょうか」と誰かの鳥探しツイートを引用してある知らない人からのもので、もうひとつは鳥探しツイートが引用されていたまさにその人だった。「私の鳥かもしれません。よければフォローバックお願いできないでしょうか」とある。同じ市内の人のようだし切羽詰まった感じが伝わってきたので僕はその人をフォローした。
部屋を出て、母を探すと玄関のケージの前にいた。
「なにしてんの」
「水飲んだのよ。少しだけどね、飲んだの」
母はぺたりと床に座り込み、ケージの中の鳥をじっと見ていた。
「あのさ」僕は言い一瞬迷う。Twitterをしていることはあまり母には言いたくなかった。母の悪口も呟いているからだ。僕はTwitterであることは伏せた。
「SNSでさ、そういう、鳥探してる人たちと繋がれるSNSでさ、もしかしたら飼い主かもしれないって人から連絡きたよ」
「そうなの? すごいねー、そんなことできるの? 今」
うん、と僕が言っても母は鳥を見たままだった。
また部屋に戻るとさっきフォローした人からさっそくDMが来ている。
「フォローバックありがとうございます。こちらがうちの子です。名前はリリーです。頬の黒いぶちは左側が二つ、右側が三つ……」つらつらと、鳥の特徴が書かれていて、4枚の写真が添付してあった。
確認しますと返信し、また玄関に行くと母はまだいた。
「ちょっといい?」
僕は言いケージを抱えて台所へ行きテーブルの上に置いた。
「本当にこの人の鳥か確認するんだ」言ってさっき送られてきた写真を母にも見せた。
「頬の黒いぶちは左側が二つ」
「はい」
「右側が三つ」
「はい」
僕が読み上げると母は確認し返事する。
全部一致した。写真もそのまんまこの鳥だった。
「ピーちゃんじゃないよ、リリーだよ」僕がいうと「リリー……」と母は少し寂しそうな表情をした。
「たぶんあなたの鳥です」僕はDMに返事する。今撮った写真も添付する。
するとすぐに返事がある。
――私は大沢と申します
大沢さんは名前と住所以外のところにモザイクを加工した保険証の写真も添付してきた。記載されていた住所は歩いて10分くらいのところだった。
――すぐに迎えに行きたいのですが、認知症の親を自宅で介護しており、夜は出ることができません。明日、早くて申し訳ないのですが7:30~8:00頃伺ってもよろしいでしょうか?
時計を見るとpm21:45だった。確かにもう夜遅いなと僕は思った。
am7:30に、鳥を見つけた場所と同じ、僕らが住む団地内の小さな公園を待ち合わせ場所に指定した。
それを母にも伝えようと自室を出ると、台所のテーブルの上に置いたケージの中の鳥を、母はずっと見ていた。
「窓際の方がいいかな、朝陽が入るから」
母は言ってケージを窓際のサイドテーブルに移動させた。
「ピーちゃん、明日お母さんが迎えに来るよ」
「だからリリーだって」僕は言ったが母は反応しない。
「良かったね」と鳥に話しかける母が、寂しそうなのはなぜだろうと僕は思った。
◇◇◇
一瞬の出来事だった。
福ちゃんを鳥かごから出し、テーブルで遊ばせているあいだ流し台にコップを置きに行った。
夫は福ちゃんがテーブルにいるのに気付かずに窓を開けた。
パタパタと羽音がし、振りかえると福ちゃんが窓から出ていく姿が見えた。
「あー!!」夫が叫ぶ。
「ちょっと!」私が叫ぶ。
「なにぃ?」娘が言う。
私はあわてて玄関に行き、サンダルを履き外へ出る。
「福ちゃん!」
今さっき福ちゃんが出て行った窓を外から見る。
周りの木々、電線、人の家の軒先、空。
視線を忙しく動かして探す。
後から追ってきた夫が「いた?」と訊く。
「いない!」私は怒鳴る。
「どうしたの!」娘が言う。
「福ちゃんが逃げたのよ」
「なんで!?」
「おとうさんが」その先を私は言わず福ちゃん探しを再開する。
結局一時間探し回っても福ちゃんは見つからなかった。
その間に夫は仕事へ行き、娘は学校へ行き、私はパートに行く時間が近づいた。
四時間だけのパート。行って、帰ってからまた探そう。そう思って私は福ちゃんの鳥かごの入り口を開けたまま洗濯ばさみで固定し、狭い庭に置いた。祈るような気持ちで鳥かごの前にエサを蒔いて家を出た。
仕事をしているあいだもずっと福ちゃんが気になった。イライラするし落ち着かない。少しでも手が空くと早退しようかという考えがよぎる。なんで休まなかったのだろう、一日くらいどうにでもなったのにとひどく後悔した。同じパートのメンバーがつまらないことを話しかけてくる。適当に相づちを打ちながら、鳥がいなくなった、探したいから帰りたいのだと打ち明けようかと何度も思った。けれど福ちゃんのことを口にしようとするだけで泣きそうになるのでやめた。
もしかするとこんなことをしている今、福ちゃんは窓辺に戻って来ているかもしれない。そこへ猫がやって来たら。カラスが見ていたら。考えるとお腹が痛くなった。
パートを終え、走って帰った。荷物を玄関に乱暴に置き、福ちゃんのエサを小さなビニール袋に移しかえ持って出た。
「福ちゃーん!」
叫ぶように呼びながら歩いて回る。途中近所の人に出くわした。飼っていた鳥がいなくなったんですと私が言うと、貼り紙すればいいんじゃない?と言われた。
一旦家に戻り紙を探す。A4のコピー用紙に黒のマジックで『鳥を探しています。体が緑で顔が朱赤のコザクラインコ、人懐っこい鳥です』一番下に私の名字と家の電話番号を書いた。『見つけたら連絡ください!!』と書き足す。同じ文面を三枚書きセロテープを持って外へ出た。まずは自宅の門の前に貼り、近くの電柱に貼ろうとする。セロテープがうまく電柱に付かず、走って家に戻りガムテープを探した。いつも置いてある場所にガムテープがなかった。夫がだらしないからだ、出したものを元へ戻さず、脱いだ服もそのままで、周りをよく見もせず馬鹿みたいに窓を開けるから。ガムテープを探しながら夫への怒りが湧いた。結局ガムテープは玄関にあった。
近くの電柱に一枚貼り、さっき出くわした近所の人の家の前に一枚貼ってもらった。
それからも探し回っていたら娘からスマホに着信があった。「今どこ?一緒に探す」というので場所を伝え娘と落ち合った。日が暮れるまで探し、今日は諦めようと娘が言い家に帰る。そういえば夕食の支度をしていなかった。配達の弁当を頼むことにした。
弁当を注文する時スマホを操作していたら唐突に思い付いた。そうだ、Twitterがあった。
迷子になった動物を探すツイートをみんなしているじゃないか。そういえば私もそれを拡散したことがある。
弁当が届くのを待つあいだ、Twitterでフォロワーに呼び掛けた。「鳥が逃げてしまいました。とても大切な家族です。助けて」【#迷子鳥】というタグをつけ、大まかな住所を書き、福ちゃんの写真を添付した。
すぐに誰かがリツイートしてくれた。ひとつふたつ、リツイートの数字が増え三つのところでとまった。
三つリツイートされたところで、このツイートを何人が目にするのだろう。同じ地域に住む人が、この中に何人いるのだろう。不安な気持ちのまま届いた弁当を娘と食べた。
夫が帰り、冷めた弁当を指し「ごめんね夕食作れなかった。福ちゃん探してたから」となるべく冷静に言った。
いいよと夫は言って、弁当を食べずにすぐに出掛けてしまった。福ちゃんを探しに行ったのだろうと思った。
風呂を済ませ、テレビをつけても頭の中は福ちゃんのことでいっぱいだった。お腹すかせてないかな、暗くて怖がってないかな、もしかして戻って来ているかな。
パジャマのままで庭に出て、小さく「福ちゃーん」と呼んだりもした。
布団に入ってもなかなか眠れず、深夜に夫がそっと玄関を開け帰ってきた音を聞いてから眠りについた。
翌朝起きて窓を開けた。鳥かごを出窓に置き、エサを鳥かごの前にばら蒔く。着替えてから「福ちゃーん」と呼びながら近隣を探した。
家に戻りスマホを見て私は驚いた。昨日呟いた迷子鳥ツイートのリツイートが200を越えていた。びっくりしているあいだもどんどん通知が来て拡散されていく。「すごいよ!見て」娘にツイートを見せた。「わぁ!すごいね、近所に住む人に広まったらいいね」娘も喜んだ。
フォロワーからはもちろん、フォローをしてもされてもいない人が沢山リプライをくれた。鳥が戻ってきた話を何人もしてくれた。大丈夫、きっと見つかる。そんな風に思えて気持ちが明るくなった。
パートを終えてから早く帰っていた娘と迷子鳥チラシを作った。福ちゃんがよく写っている写真を使い娘がパソコンでデザインしてくれたチラシは、とても良い出来ばえだった。交代で外へ福ちゃんを探しに行き、プリンターのインクと紙が無くなるまで刷り続けた。明日二人で色々なところを回ろう。フォロワーさんに言われた通り、近くの交番にも届け出よう。そんな風に娘と話していると、福ちゃんに再会できる瞬間がすぐそこまで迫っているような気持ちになった。
翌日学校から帰った娘とチラシ配りに出かけた。近所の一軒家数件とマンションの集合ポスト、幼稚園、図書館、スーパーマーケット。みな快く貼り出してくれた。「見つかると良いですね」と、声をかけてくれるひとも数人いた。
小さな古いブティックがあり、私が先に店内に入った。年配の女性がレジ付近にいて話しかけた。
「突然申し訳ありません、鳥を逃がしてしまいまして」
私は事情を話した。女性はひと通り聞いたあと、ふんと鼻で息をした。
「そういうのはお断りします。だいいち鳥なんか見つかるわけない。ここら辺はカラスが多いんだから」そう言って手で追い払うような仕草をする。
私たちは謝ってすごすごと店を出た。
断られる場合もあるだろう。そうは思っていたけれど、実際に断られて驚いた。
「まぁそうだよね」娘が話し始める。「世の中は、優しい人とそうでない人で構成されてるんだもんね」真面目な顔で言う。
「そうだね、すぐ貼ってくれる人もいれば、さっきみたいな……ねぇ」
私たちはそれでもへこたれることなく、二人で刷った紙が無くなるまで配り続けた。
Twitterでは沢山の情報が集まった。保護した鳥を飼い始めたひとのブログがあると知れば確認し、近くのペットショップで鳥を保護していると知れば足を運んだ。福ちゃんでないとわかるとそれをまた私は拡散した。こんなにも沢山の迷子鳥がいるなんて。この子たちがみな自分のおうちに帰れますように。そう願いながら情報をフォロワーと分かち合った。
溢れかえるほどの迷子鳥の情報があるのに、そのどれもが福ちゃんではなかった。
あっという間に1ヶ月が経った。
電車で遠方へのチラシ配りを終え、家に帰ると夫が窓を開け空を眺めている。
「鳥は、自然の中で過ごすのがやっぱり良いのかもしれないな」
呆けた顔で空を見上ながら言う夫の言葉で私の中の何かがプチンと切れた。
「……良いわけないでしょう!人に飼われていた鳥が、外で生きていけるわけないじゃない!エサも無い、敵もいる、こないだの台風で、福ちゃんがどうしてたと思う! あなたが窓を開けたせいで」
そこまで言って私はやめる。
夫だって福ちゃんを可愛がっていた。責任を感じているに違いない。
つい先日も近所の人から、「最近夜遅くに犬の散歩をしていたらお宅のご主人と公園でよく会うのよ。『福ちゃーん』て呼びながら、茂みの中を漁ったり、木を眺めたりしてるの。とても寂しそうな顔で」と、教えられたのだ。
「悪かった」夫は言い、席を立った。
夫を責めてもしかたない。私だって、あの時コップを流し台に運ばなければ。起きてくる夫に「福ちゃんがテーブルにいるよ」と声をかけていれば。あの日パートに行かなければ。羽を切っていれば。
いろんな思いが巡り、泣きたくなる。
夕食後、食器を洗いながら風呂から上がって寝室へ行く夫におやすみと声をかけた。明日の朝御飯とお弁当の下準備を終え、手を拭く。ソファーで寝転びながら娘が観ているタブレットの画面に目を向けた。
迷子鳥を調べているのかと思ったが、娘が観ていたのはYouTubeだった。若い男の子たちが数人でゲラゲラと下品に笑う騒がしい動画。
「もう福ちゃんのこと気にならないんだね」吐き捨てるように言い、エプロンを外していると娘はタブレットのカバーをパタンと閉じた。
「ずっと暗い顔で福ちゃんのこと考えていれば帰ってくるんだったら、私だってそうしてるよ!」
テーブルにタブレットを置いて娘は自室の扉を強く閉めた。
タブレットを使用していいのはリビングのみという我が家のルールを、娘はこんな時でもきちんと守った。
悲しみは生活の中に紛れてしまう。
鳥かごは空のままで、そこに福ちゃんがいたことが夢だったかのようにも思えた。
◇◇◇
「どうしよう」
目覚めると母が枕元に立っていた。
僕は体を起こし「なにが」と言うが声がかすれる。
「ピーちゃんが」
母の手で包まれている青いものが昨日捕まえた鳥だと理解する。
「なに」
目をしばつかせながら見ると、鳥の様子がおかしい。
「動かないの」
僕は鳥をよく見た。青い鳥は、固くなっていた。
「死んでんじゃん!」
マジか……と僕は言い、頭を巡らせる。時計を見る。am6:48。大沢さんが来る。
「ヤバイな」
「病院に連れていこうか……」
「いや死んでるし、ってか病院まだ空いてないし」
「どうしよう」
連絡しようかDMで、と僕は思う。けれどもうこちらへ向かっているかもしれない。今知るのと、来てから知るのと、どっちが良いだろう。
どちらにしたって悲しむ。どちらの方が悲しみが少なくてすむか。
考えても答えは出ない。
結局僕らは大沢さんに連絡をせず、家にあったピンクの菓子箱にティッシュを敷き詰め死んだ鳥を入れた。時間より10分早かったが、僕が箱を持ち母と階段を降りた。
公園が見えたらすぐ「大沢です!」と女の人が走りよってきた。満面の笑みで、息が上がっている。
「あのそれが……」
母が言う。
箱を持って母の後ろに隠れていた僕は一歩前に出る。
大沢さんは笑顔を貼り付けたまま箱の中を見た。
「……えぇ!!」
びっくりするくらい大きな声を出して大沢さんは両手で自分の口を押さえる。
「朝起きたら亡くなっていて……」
肩で息をしながら口元を手でふさぐ大沢さんの目はみるみる潤んだ。
「ごめんなさい、昨日までは生きていたんです」
「ちゃんと水も飲みました」僕が付け足す。
しばらく三人の沈黙は続き、視線は箱へ注がれた。
大沢さんは顔をおおっていた手を離し、涙を拭きながらうんうんうんと無言で何度もうなずく。
現実を受け止めるため、自分を納得させているのだろうと思った。
大沢さんは意を決したように、箱に手を伸ばす。
「すみません」母が言い、僕は大沢さんに箱を渡す。
大沢さんは箱の中をじっと見る。固くなった鳥に触れる。
僕は視線を外す。空が青い。
「でも……ありがとう……ございました」
なんとか振り絞るように大沢さんが言い、一歩後ずさったので僕は大沢さんがそのまま帰るのだろうと思った。
でも大沢さんは帰らなかった。「ううぅ」とうなった後ぎっと僕らを睨み付けた。
「どうしてちゃんと見ててくれなかったんですか!あなたたちが捕まえなかったら生きていたかもしれないのに!」
言ってから大沢さんはわーわー泣いた。僕は腹が立った。
鳥を逃したくせに、昨日すぐに迎えに来なかったくせに、と思った。
「すみません、申し訳ありませんでした」母が頭を下げた。
「でもあなた」僕が言い返そうとすると母が腕を掴んでやめろと合図する。
歯がガタガタ鳴るくらい震えて泣いている大沢さんを見て、僕は言い返すのをやめた。
大沢さんは泣きながら菓子箱に入った鳥を大切に両手で持って去った。
僕たちは逆光の中の大沢さんの後ろ姿を黙って見送る。
昨日貼った自作のチラシを待ち合わせ場所の木から引き剥がし、くしゃくしゃに丸めた。
家のなかに入ると母が台所のテーブルの席に座っていた。片手をテーブルにのせ、もう片方の腕は力なくだらんと垂れていた。無表情でテーブルに乗せた自分の手のひらをじっと見ている。昨日母が言った通りサイドテーブルには朝陽があたり、空のケージを眩しく包んでいた。
僕は母にかける言葉が浮かばず、少し離れて黙って見ているしかできなかった。
それから家を出て夕方に帰ると、鳥を入れていたケージが窓際のサイドテーブルに置いたたままだった。
ケージの上に小さな一輪挿しが乗っていて、ピンクの花が数本挿してある。
「なにあれ」
今朝のことを思いだし苛立ちながら僕は言う。
「悪いことしたなぁと思って」
母がテーブルに食器を並べながら言った。
「なんで!? 僕らなんも悪くないじゃん!助けてあげたくて捕まえたんだから! 一生懸命世話してさぁ、 僕らなんも悪くないよ、なんっにも悪くない!」
そうだねと母が弱々しく言い、僕は上着を脱ぎに自室へ行く。
嬉しかったのに。ここのところ素直になれず、冷たい態度で接してしまっていた母と、笑いながら鳥のことで協力しあえたことが。
鳥なんか捕まえるんじゃなかった。母が他人に怒鳴られ傷つけられているところなんか見たくなかった。
晩御飯を食べた後、風呂が溜まるまでのあいだ自室のベッドで横になる。
Twitterを開くと、昨日鳥のことをツイートしたからか鳥のアイコンの人に数人フォローされていた。昨日のうちにフォローを返して相互になっている人も何人かいた。
そのせいで見たくもないのに鳥を探すツイートが回ってくる。
見ているとムシャクシャした。
これを見て誰かが鳥を捕まえるかもしれない。けれどもし死んだらどうする? 飼い主に届ける前に死んでしまったら。
善意でやったことでこんな嫌な目に合うこともあるのだとみんな知らずにリツイートするんだろう。僕は目についたひとつの鳥探しツイートにリプライを送る。
全然知らない人への、FF外からのリプ。
「逃がした鳥を捕まえても、飼い主が取りに来るまでに死んだらどうする。自分は鳥を見つけても絶対に捕まえたりしない」
打った文字を読み返しもせず送信ボタンを押す。
僕はスマホを閉じ、布団に顔をうずめた。
◇◇◇
隣の市の警察署のホームページに、コザクラインコを保護しているという新しい情報が載っていたと娘が言うので、私はその警察署に電話をした。娘と確認しに行くことになり、学校終わりの娘とマクドナルドで待ち合せた。
娘は今日このために部活を休んだ。
バスに乗り、娘に先日のことを謝る。
「この前はごめんね、おかあさん、疲れていて」
「いいよもうそんなこと。つらいもんね。わかるよ」
いつの間に、こんなに頼もしく優しい子に育ったのだろう。
「ありがとう。あなたが娘で良かったわ」
「やめてよ」娘が照れ笑いする。
「ねぇそれよりすごくない?福ちゃん根性無さそうだったのに、長い距離飛んだんだね」
「そうだね、すごいね」まだ福ちゃんだと確認してもいないのに、私と娘はここにいない福ちゃんを褒めた。
警察署に着き、案内されて鳥かごのところへ行く。
福ちゃんと同じコザクラインコだけど、福ちゃんではなかった。
他人が見れば同じに見えるだろうコザクラインコの模様は、どの子も微妙に色や模様が違う。
見た瞬間に私も娘も違うとわかった。
それは一目で福ちゃんを見分けられるほど、私たちが福ちゃんを可愛がっていたのだと再確認する悲しい作業になった。この子が早くおうちに帰れますようにと願って鳥かごをそっと撫でた。
ほとんど何も話さずにまたバスに乗り、何か食べて帰ろうかということになり家に居る夫にLINEで連絡を入れた。夫からはゆっくりしておいで俺の食事はいいからと返事がくる。
残念だったねと付け加えられていたので、帰りのバスで娘が夫に福ちゃんではなかったと知らせたのだとわかる。
家に着き、娘が風呂に入っているあいだTwitterを見た。
「逃した鳥を捕まえても、飼い主が取りに来るまでに死んだらどうする。自分は鳥を見つけても絶対に捕まえたりしない」とリプライがついていた。
確かにそうだと思った。飼い主がすぐに迎えにくればいいが、引き渡すまでは命を預かることになるのだから。
理解はできるが、わざわざフォローをしてもされてもいない知らない人からなぜそんな事を言われなければならないのだろうと思った。
意地悪いうやつがいるけど気にしないでねとフォロワーさんからメッセージがくる。
そうだね、ありがとうと返信する。少し悲しかったけど、それほど気にはならなかった。そのくらい疲れていた。
温かい風呂に浸かっていたら、でもあんなリプライがくるのも鳥探しツイートが広く拡散されている証拠じゃないかと思えた。希望を捨てずにいよう。希望を捨てずにいたほうが、見つかるに決まってる。
そうは思いながらも心のなかに、もう見つからないかもしれないという気持ちがちいさく芽生えているのを私は感じていた。
福ちゃんがいなくなって二ヶ月が経った。朝いつものように出窓を開ける。起きたらまず福ちゃんが帰ってこれるようにエサを仕掛けるのが日課になっている。窓から入る空気がずいぶん冷たくなってきた。季節がすすんでいる。
福ちゃんの鳥かごを置き、入り口を外へ向ける。
エサをつまんで鳥かごの前に蒔く。
「福ちゃぁーん」
いなくなってすぐは、名前を呼んだだけで涙が出た。
「福ちゃーん」
今はもう泣かない。名前を呼ぶと、心にポッと小さく暖かい灯がともり、そこがチクっと痛むだけだ。
「福ちゃん」
滑らかな羽の手触り。フワフワのお腹。すべすべで形の良い頭。つつかれるとチクチク痛いくちばし。何かをたくらんでいるような愛嬌のある目。綺麗な朱赤と緑。
「福ちゃん……会いたいなぁ」
福ちゃんはどこへ行ったのだろう。
他の誰かに保護してもらい、飼われているかもしれない。
そうやって生きていて欲しいけど、それはそれで寂しいような気もする。あの子は私たちのことを忘れてしまうのだろうか。
死を見ずにいれば私の中で永遠に生きる。
けれどもう二度と会えないのは死んでしまったも同じ。
どこかでなんとか生き延びているとしても、たとえば誰かに飼われていたとしても、あの子はいずれ死ぬだろう。
そして私も死ぬ。
もしもこのまま会えないとしたら、あの世であの子に会えるだろうか。そしたらその時は、あれから離れていた間どこに行っていたのか聞こう。あの子が窓を飛び出して見た景色を、感じた孤独を、自由を、あるいは新しい飼い主のことを、全部聞こう。
そして私は伝えよう。あなたのことを、大好きなのよと。
了
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