〈小説〉 チョコレート
1
「死にたい」って言う人たちのほとんどは、本当に命を断ちたいのではなくて、いま目の前にある問題を解決させる方法が『死ぬ』以外見つからないから仕方なく言うんじゃないかとわたしは思う。
「死にたい」「死にたい」って言葉にすると楽になれる気がする。麻薬みたい。
死にたい。
でも、たぶん、わたしは死なない。
死にたいと言ってしまう理由をママに話して泣かれて、パパに怒鳴られるか殴られるかして、弟に軽蔑の目で一生見られて、わたしはたぶん考えることを一切やめて、人生を棒にふるのだ。
ううん待ってもしかしたら、生まれてきた小さな命がわたしを変えるかもしれない。
棒にふるどころかめちゃめちゃ楽しいかもしれない。それでわたしは超良いママになって、子供に可愛い服着せて、インスタにのせて、それでそれで。ほら。
やっぱムリ。死にたい。
「生理がこない」ってわたしが言うと、蓮太朗は「へぇー」と答えた。
感心してる場合かよって思った。
蓮太朗はまだ結婚できる年齢じゃない。
学校やめて働く? 蓮太朗が? ムリでしょ。
たぶん今日も蓮太朗の家で、エッチするつもりだったんだと思う。
蓮太朗の家は立派な一戸建てで、両親は共働きで帰りが遅くて、大学生のお兄ちゃんは友達の家を転々と泊まり歩いてて、だからわたしたちは蓮太朗の部屋のベッドで何回もエッチをした。
せっかくエッチが楽しくなってきたのに、これから試したい色々なこともあったのに。
「お金がいるのかな……けっこうたくさん」
蓮太朗が繋いでいた手を離した。
後ろから車が来たから蓮太朗がわたしの肩をつかんで道路の白い線からはみ出さないように押してくる。夕日を背に浴びた蓮太朗の顔が泣いてるみたいでびっくりした。泣いてなかった。むしろ怒ってた。
「なんで?」ってわたしは訊いた。
「無理じゃん、だって」
「無理だよね」言いながら笑おうと思ったけどうまくいかなくて左の頬がひきつる。
どこかの家から焼けた魚の臭いが漂ってくる。お腹空いたなって思う。
「送るわ」と蓮太朗が引き返そうとする。
「一人で帰れるよ」
このまま別れるのかな。わたしたち。生理がこないこと、言わなきゃよかった。
「ちゃんと考えとくから」と蓮太朗は言う。ああお金のことねとわたしは思う。
考えとくのはいつもわたしの方だった。
付き合ってほしいって言われた時も、家においでって言われた時も、エッチしようって言われた時も、主導権はわたしにあった。わたしが蓮太朗を想うより蓮太朗がわたしを好きな気持ちほうが大きくて、有利なのだと思っていた。
今はなんか違う感じがする。
ちゃんと考えとくからって蓮太朗は言った。
蓮太朗が考えているあいだわたしはどうすればいいんだろう。
道が暗くなってきて、蓮太朗に送ってもらえば良かったって後悔した。
蓮太朗が告白してきた時のことを思い出しながら帰った。すごく昔のように感じるけど、たった3ヶ月しか経っていなかった。
ママはなんでわたしを生んだの?ってその夜訊いてみた。
ママはテーブルを拭いていた手を止めて優しい顔で言う。
「欲しいと思ったからってみんなが手に入れられるものじゃないのよ命って。理由なんてない、生みたいって気持ちしかなかったから」
「そうなんだ」ってわたしは答えた。ママがこっちを見てた。それがわたしの喜ぶ答えだと思っている顔だった。
自分でもびっくりするくらいその言葉がわたしの心に響かなかったから、ママに申し訳なくなって「ありがとう」と言ってわたしは自分の部屋に入った。それで、ベッドで布団にくるまって「死にたい」「死にたい」って何度も繰り返し言った。言っているうちに本当に死にたいような気がしてきた。
学校へ行って蓮太朗に会っても、話しかけないようにした。
蓮太朗を避けるのは難しいと思っていたけど簡単だった。蓮太朗もわたしを避けたからだ。蓮太朗のことを考えなければ生理が遅れていることも忘れられた。このまま蓮太朗と別れて全てがなかったことにすれば、普通に生理がくるんじゃないかと思った。けれど何日待っても生理はこなかった。
生理が遅れて2ヶ月が経った日、学校の一番高いところから飛び降りるのが良いかもしれないと思って屋上に行った。鍵がかかっていて外へ出られなかった。どこか屋上へ出られる窓がないかしばらく探したけど無かった。諦めて階段を降りると、誰もいなかったはずの踊り場で将棋をしている男子が二人いた。わたしが階段を降りてから何かを話している声が聞こえて、わたしの噂話でもしているのかと耳を澄ませていると「斉木さん」と私を呼ぶ声がする。
驚いて下を見ると萌がいて、メガネの奥からわたしを睨み付けていた。
萌はゆっくり階段を登りながらこちらに近づいて、わたしの立っているところより数段下で止まった。
「なに」
「斉木さん」
こわい。萌は少し息があがっていた。走って追いかけてきたんだろうか。
「あたし、宇井くんに、チョコレート渡すから」
踊り場で将棋をしていた男子も萌の声をきっと聞いているだろうと思った。
「だからなに」
「斉木さんには、言っておこうと思って」
なにか意地悪な言葉を浴びせてやりたいと思った。今こんな状態だけど宇井蓮太朗は一応わたしの彼氏だ。これは宣戦布告に違いない。わたしから蓮太朗を奪うつもりなのだ。奪えるはずもないのに。蓮太朗は萌のことを陰で『肉まん』と呼んでいる。蓮太朗と萌は中学校が一緒だった。今はそうでもないけど中学のとき萌は太っていたらしい。何かのアニメの登場人物に憧れて度の入っていない伊達メガネを萌がかけていると教えてくれたのも蓮太朗だ。
蓮太朗が言っていたことを全部ぶちまけてやろうかと思った。
肉まんはブスで不潔でオタクだって蓮太朗が言ってたよって。
けれど将棋をしている男子が聞いている。絶対に、息を潜めてわたしたちの会話に聞き耳を立てているだろう。
あの男子たちに、わたしの悪い噂を振り撒かれたくない。
「好きにすれば」
わたしは吐き捨てるように言って、萌の横を通って階段を降りた。萌からバニラみたいな甘すぎる匂いがした。
それから放課後もわたしは、学校で死に場所を探した。探しながらわたしは本当は死にたくなんかないと思った。
今わたしの身に起きていることが萌に起これば良かったのに。
生理が遅れているのが萌で、妊娠の恐怖に怯えているのが萌で、蓮太朗より自分のほうが好きな気持ちが上回ってしまったのが萌で、死に場所を探しているのが萌。
わたしはそんな萌に言うのだ。蓮太朗を好きだという強い気持ちを持って。
「わたし、蓮太朗に、チョコ渡すから!」
中庭のウサギ小屋の影に座り込み、わたしは萌になったつもりで言ってみる。
笑える、と思ったけど笑えなかった。心と、お腹が痛かった。
2
部活を終えて荷物をまとめて、帰る前にトイレに行こうと思ったら嫌いな先輩たちが数人見えたので、荷物が重かったけど階段を上がって普段使わない上階のトイレに行った。
電気のついていない薄暗いトイレからすすり泣く声が聴こえて、お化けじゃないかって一瞬怯えたけどトイレの前に荷物を置いてたら絵梨花がトイレから出てきた。泣いてた。
「どうしたの?」
と先に訊いたのは絵梨花の方だった。
「いや、どうしたのは絵梨花でしょ、蓮太朗となんかあったの」
赤い鼻でまつげが濡れたままの絵梨花は手の甲で涙をぬぐいながらケタケタと笑った。
「ねーナプキン持ってない?きちゃった」
モテる女子特有の馴れ馴れしさで絵梨花は私に言う。私は部活のカバンの内ポケットに確か入っていたはずと手で探る。
「なんでまだいるの」私は訊く。
「もう練習終わったの?」絵梨花は私の質問に答えず話題を変える。
「うん、もう三年いないし、試合もしばらくないからさ。はいこれ。羽根なしだけどいい?」
「いい、いい全然。ありがと」
受け取って絵梨花がトイレの個室に入って行ったので私は荷物をまた抱えたけど、そうだトイレがしたかったんだとまた荷物を床に下ろす。顔をあげると個室に入ったはずの絵梨花がナプキンを持ったまま目の前にいて「マック行かない?」と聞いてきたから、考えもせずに「ああ、うん、いいね」と答えてしまう。
駅前のマクドナルドに絵梨花と二人で行くのは初めてだった。
私は制服のスカートの中にジャージのズボンを履き、黒髪を一本に束ねている。一方絵梨花はおしゃれにブラウスを着崩し、首を動かすたび綺麗に巻いた栗色の髪が肩で弾むように揺れる。
マックフルーリーをおごってくれるというので、私は2階の禁煙席で空いた席を探し部活の大きな荷物を床に置いた。
しばらく待つと両手にマックフルーリーを持った絵梨花が階段を登ったところで見回して私を探していた。
私は手を振って絵梨花にここだよと合図する。
席につき、「いただきます」と両手を合わせてから食べはじめる絵梨花を見て、ちゃんとしてるんだなと感心する。
「蓮太朗と何かあったの?」
「なんもない。うまくいってる」
「そっか、よかった」
うまくいってるなら言う必要ないかと思ったけど、せっかくこうやって誘ってくれたんだし絵梨花にとっては喜ぶべきことかもしれないので、私はさっきLINEで見た情報を話すことにする。
「萌が蓮太朗にチョコ渡したけど……」
「知ってる」絵梨花が遮るように答えた。
「……知ってたのか。良かったね。蓮太朗やるじゃん、受け取らないなんてさ、絵梨花一筋だからでしょ」
「え! マジ!? 受け取らなかったの?」
絵梨花は表情を一変させる。そうか絵梨花は、蓮太朗が萌からチョコを受け取ったと思って泣いていたのか。私は安心させるために続ける。
「うん、本人に聞いたって誰かがグループLINEで言ってたよ、さっき」
絵梨花は目を見開いて驚いたあと、吹き出して笑い始める。大袈裟に手を叩いて「ウケんだけど!」と大きい声で言う。スマホを出してLINEの画面を見せようかと思ったけど、絵梨花がもっと喜びそうだからやめた。
「あいつさぁ、わたしに『斉木さん! あたし、宇井くんに、チョコレート渡すから!』って宣言しにきたんだよ! キモくない? あいつ嫌いだわぁー、マジでウザかったんだけど、そっか、バカじゃん、はははは!」
絵梨花がいつまでも笑って、私は自分が馬鹿にされているような錯覚に陥りそうになって、ヤバイと思ったから一緒に笑いながら「嫌い嫌い、私も嫌いなんだよね萌のこと。なんか不気味」と言う。
すると絵梨花は喜んで私の顔を指差してくる。そうだよね!という表現らしいがイラっとする。
ひとしきり笑ったあと絵梨花が深く息を吐く。
「てかもう蓮太朗とは別れる」
「そうなの?」
「うん、今決めた」
嬉しい気持ちを絵梨花に気付かれないよう神妙な顔を無理わざと作る。絵梨花と別れたからといって私が蓮太朗に告白することはないだろう。
だからこそ自分以外の誰かのものであってほしくない。もしかしたらって期待できる状態でいて欲しい。ずっと。
「なんで?」
「もっとエッチ上手い人としてみたいじゃん」
絵梨花は片方の頬にだけえくぼを作りいやらしい顔で笑う。
絵梨花は顔は可愛いのに下品だ。下品で不細工な心の中がたまにこうして透けて見える。その瞬間私はホッとする。私より美人で、モテて、初体験を済ませている絵梨花にも、醜いところがあるんだと。
「ぶは、冗談だよ! 理由はちゃんとあるよ、でも……うまく説明できなさそ」
そう言ってから絵梨花はもう残り少なくなったマックフルーリーを付属のスプーンで乱暴にかき集める。紙の擦れる嫌な音がして、私はやめろ!と叫びたくなって、それはさすがに言えないから代わりに「エッチってどんなかんじ?」と訊く。
「え」
絵梨花があからさまに嫌な顔をして、だから私は「なにを、どこに、どうするの?」とさらに訊く。
冷やかしではなく切実に知りたがっているのが伝わったのか、絵梨花の表情が変わる。教えてあげよう、という顔。
「ヤッたことないの?」
「ない」
絵梨花は黙ってうなずいて、数秒考える。
「……タンポン入れたことある?」
「去年の夏、一度だけ」
家族旅行の大型プール施設で生理になり、母にタンポンを勧められ入れた記憶が甦る。股の間の異物感。奥までうまく入らずにすぐに戻って出てしまい、歩くたびに痛くて、結局プールは30分で切り上げて一人ホテルでスマホをいじっていた。
「そこに入れるんだよ。男の……まぁ、あれを」
「え。入るの?」
「入るよ。最初は入らないけど、ちょっとずつ」
「痛いの?」訊きながら自分の鼓動が速くなるのがわかる。
「痛いよ。だって固いし、太くて長いんだよ」
「どんな……大きさ?」
「こんな」
絵梨花は手で性器の長さをあらわす。
「ちょっと待ってそんなに大きいの!?」
去年Twitterで知らない男の人の性器の写真が出回って、私はそれを何度も見た。とても気持ちが悪かったけど、嫌悪感と等しい量の好奇心があった。知らなければならない、とさえ思った。それで私は知った気になっていたけれど、絵梨花が示しているのはその写真を見て想像していたよりももっとずっと大きい。
「それをさ、ごしごし擦られる感じ。だからヤッたあとヒリヒリすんの、あそこが」
怖くなり黙っている私の心を読んだのか、絵梨花が「でも大丈夫だよ」と付け足す。
何がどう大丈夫だというのだろう。経験者が未経験者に言う「大丈夫」ほど無責任なものはない。私は擦れて痛くなった股の間を想像する。
「相手が好きな人だったら耐えられる」
言ってからうつむいて口元だけで笑う絵梨花が色っぽくてムカつく。
絵梨花との会話はそれ以上長く続かず、私たちはマクドナルドを出てすぐに別れた。ごちそうさまと言わなかったことに気付いて振り返ったけど、絵梨花の背中はもう小さくなっていた。
家に帰り、家族と食事をし、テレビを観ているあいだもずっと絵梨花から聞いたことが頭の中にあった。風呂に入り自分の体を見ていたらいやらしい気持ちになって股間がうずいた。
早々に歯磨きを済ませて母と布団を並べて眠る寝室へ行き、ふすまを閉めた。
母はまだ風呂に入っていないし楽しみにしている深夜番組があるからしばらく寝室へは来ない。
私は布団を顔まで被せ、暗闇のなかで今日絵梨花から聞いたことを思い出す。
思い出しながら右手で自分の乳房に触る。最初はパジャマの上から。そして二つボタンを外し、手を入れて直接。
絵梨花はどんなふうに体を触られたのだろう。
唇と唇を合わせ、裸になり、乳房や、陰部を、蓮太朗は触ったのだ。あの手で。
そして、身体の一部を穴の中に入れた。ごしごしと、後に陰部が痛くなるくらいに。
乳房を触っていた手を這うように下腹部に移動させる。
下着の上から触れただけで小さな核が敏感になっているのがわかる。
私は迷わず下着の中に手を入れる。茂みをかきわけて指先で核をもてあそべば気持ちよくなることを私は知っている。けれどその下にある穴の中まで触ろうと思うことはなかった。
核の下のひだをなぞり、指先で探ると穴の入り口は濡れている。
私はありったけの想像力を振り絞って思い浮かべる。
この手が、蓮太朗のものだったら。
この指が、蓮太朗の固くて太いものだとしたら。
私は吐息を漏らしながら、まだ誰をも入れたことのないところへ、蓮太朗をゆっくりと挿入する。
3
湯を沸かした鍋にボウルを浮かべ、その中に生クリームを100ml入れて湯煎で温める。
温まったら、ダーク、ミルク、ホワイトの板チョコを一枚ずつ砕いて入れ、ゴムヘラで優しく混ぜる。色の違うチョコレートがゆっくり溶けて混ざり合っていく。
去年も、おととしも、あたしは蓮太朗にチョコレートを渡した。
蓮太朗はいつも恥ずかしそうに「ありがとう」と言って照れる。
そしてホワイトデーには可愛く包装されたマシュマロを必ずくれる。
でも、今年のバレンタインデーは今までとは違う。蓮太朗に彼女が出来たからだ。
中学校ではそれほど目立っていなかった蓮太朗が高校に入ってから急にモテだした。
髪を茶色く染めて、声が低くなって、いつの間にか見上げるほど背が高くなっていた。
中学校であたしが好きになった地味で目立たない宇井っちは、高校ではみんなに蓮太朗と呼ばれる華やかな雰囲気の別人になった。
だから私も宇井っちと呼ぶのをやめた。でも好きでいることはやめられなかった。
あたしも変わりたいと思った。
宇井っちが変わったように。
それであたしはダイエットをした。12キロやせた。つらかったけど頑張れた。
蓮太朗が好きなアニメのキャラクターを真似て髪型を変え、眼鏡もかけた。
高校ではクラスは同じにならなかった。お互い部活にも入っていないから会うことがほとんど無い。
だから余計に会えたとき嬉しい。遠くからでもすぐに蓮太朗を見つけられる。見つけて、目で追う。蓮太朗が髪をかきあげる仕草や友達と笑い合う顔や低くなった声を聞くだけで心が満たされた。
他に男子がたくさんいるのに、どうして蓮太朗じゃないとダメなんだろう。
蓮太朗の彼女の斉木絵梨花は、校内でも有名な美人で、中学生の時に振った男子の人数が二桁だと噂で聞いた。
同性のあたしからみても斉木さんは可愛くて、魅力的だ。
あんな風に可愛くて、モテる女の子から見た景色はどんなだろう。蓮太朗と手を繋いで帰る道は、あたしが一人で帰る道とはどんな風に違って見えるんだろう。
斉木さんと蓮太朗は二人でいると絵になる。
悔しいけれど、お似合いなのだ。
でもあたしが蓮太朗と並んで歩く可能性はゼロじゃない。人の気持ちは変わるものだし、努力次第で運命だって変えられるとあたしは信じている。蓮太朗と両想いになれるなら何だってする。今思い付く限りのことは実際してきた。あとはもう、神頼みしかない。おまじないとか魔法とか。
そうだ。
あたしは思い付く。
すっかり溶けて液状になったチョコのボウルから手を離す。
包丁が目に入るけどそれは怖い。
壁に貼ったカレンダーの画鋲が目に入りこれだとひらめく。
刺さっていた金色の画鋲を抜く。カレンダーがばさりと床に落ちたけど気にせずに放置する。
針の先をキッチンペーパーでこすり、左手の薬指の腹に画鋲の針先をあてる。
「うぅ」思わず声が出る。
深呼吸してから画鋲を押さえつけ、一気に力を込める。
「痛っ!」
薬指の腹に赤が見える。
小さい赤が玉のように膨らむ。
チョコを溶かしたボウルに薬指をかざす。
指に貼りついたまま赤い玉は垂れない。
血の出た薬指の根元を締め付けると赤い玉が膨らむのが少し速くなる。
指の色が変わるくらい締め付けても、あたしの血は指から落ちない。最終行程でココアを振りかけるのに使うため出しておいたティースプーンに擦り付けるようにして、なんとか微量の血液を採取することができた。
冷めて周りが固まりはじめたボウルの中のチョコにスプーンを沈める。
あたしの血はチョコに混ざって見えなくなる。
ティッシュで傷ついた薬指を押さえる。
血はすぐに収まり、皮膚に空いた穴がどこかわからなくなる。
あたしは唱える。呪文みたいに。
蓮太朗があたしを好きになりますように。あたしと蓮太朗が両想いになりますように。
魔法をかけたチョコをボウルから型に流し込む。トントンとテーブルに軽く打ち付けて空気を抜く。ふわりとラップをかぶせ、冷蔵庫に入れる。
固まるまで待って冷蔵庫から取り出す。
包丁で格子状に切る。一度切るごとに熱湯に包丁をつけて温め、濡れた布巾で拭いてから切ると包丁にチョコが付かず綺麗に切れる。
ダイス型になったチョコに小さなふるいでココアパウダーを振りかける。綺麗な形のチョコを八つ選んで箱に納める。
チョコの包装をほどく蓮太朗を想像しながら丁寧に包む。メッセージカードは入れない。直接言うって決めてる。
赤いリボンで口を結び、そこに花の飾りをつける。箱にちょうど良いサイズの小さな紙袋にチョコを入れる。
受け取ってくれるだろうか。ふと不安になる。
彼女がいる人にチョコを渡すのは反則なんだろうか。彼女がいるのに他の女の子からチョコを受けとるのは?
付き合ったことがないからその辺のルールがわからない。
もしかしたらあたしがチョコをあげると蓮太朗が困るかもしれない。
だからあたしは斉木さんに伝えることにした。
それで斉木さんにダメって言われたらどうしよう。あたしはそれでも渡したいのだと引き下がらずに言おう。蓮太朗に渡せますように。紙袋に念を込める。
バレンタインデーの昼休み、斉木さんと同じクラスの女子に居場所を訊いた。「知らない」と言われて次々に訊いて回った。六人目の女子が「北校舎の階段を登っていくところを見た」と教えてくれた。
昼休みの終わりが近づいていた。あたしは焦った。
走って北校舎の階段を登った。上から降りてくる斉木さんが見えた。
「斉木さん!」
斉木さんは怯えた表情であたしを見た。あたしは歩を緩めゆっくり階段を登り、斉木さんの立っている場所より数段下で止まった。
「あたし、宇井くんに、チョコレート渡すから」
蓮太朗と呼べば良かった。斉木さんに遠慮してしまった。
「だからなに」
斉木さんは怒った顔で言った。でも、許されたと思った。
「斉木さんには言っておこうと思って」
斉木さんの背後に人影が見えた。階段の踊り場の陰に頭が二つあった。男子だった。
あたしは後ろに隠れている男子にあたしたちの会話が聞こえていればいいと思った。
蓮太朗のことが好きだと、斉木さんと付き合っていても好きなのだと、大きな声で言おうと思った。
みんなにあたしの気持ちが知れ渡ればいい。
けれど斉木さんはあたしが次の言葉を言う前に「好きにすれば」と言って走り去ってしまった。
あたしがそこで立ち尽くしていると、踊り場のほうから堪えきれずに漏れたような笑い声が聞こえた。
「何してんの」あたしが言うと笑い声はピタリと止まった。
放課後、蓮太朗を探した。斉木さんと一緒には帰っていなかった。
蓮太朗が他の男子二人と一緒に校門を出ていくところを二階の窓から見つけた。
あたしはまた走った。校門を出て、蓮太朗がいつも帰る道を追った。
でも思っていた方向に蓮太朗たちはいなかった。
引き返して門を過ぎ、反対の方角へ走った。見つからなかったらどうしよう。泣きそうになる。神さま、神さま、お願いします。他になんにも望まない。蓮太朗に、このチョコを、渡せるだけでいいのです。お願い、お願い。
大通りに出る手前の路地で、立ち止まって話し込んでいる蓮太朗たちを見つけた。叫びたいくらい嬉しかった。
彼らがすぐには動かない様子なので息を整えた。
カバンから紙袋を出し、お願いします、と優しく撫でた。
「マジで!?」と蓮太朗と一緒にいる男子の声が聞こえた。もうあたしは蓮太朗のもとへ少しずつ歩み始めていた。「ヤバいじゃん」ともう一人の男子が言って振り向いて、目が合った。
三人とも、暗い顔でこちらを見た。
「あ」蓮太朗が言う。
「蓮太朗……」
あたしが言うと、蓮太朗以外の二人が察して離れる。
「先行ってるわ、蓮太朗、あとで」そう言って男子が電話するジェスチャーをする。
「わりぃ」と蓮太朗は二人に手を降る。
蓮太朗があたしに向きなおす。
あたしは顔をあげ蓮太朗を見た。
「これ」
紙袋を差し出すと、蓮太朗は顔を歪めて「んぁぁ」と唸った。
そして、少し考えてから「ごめん……」と小さく言った。
やっぱり。とあたしは思った。だからあたしは言った。引き下がる訳にはいかないのだ。
「斉木さんには許可とったから」
「へ」
「蓮太朗にチョコをあげてもいいって、斉木さんの許可をとった」
蓮太朗は怪訝な顔で「あいつなんて?」と言う。
「いいよって、好きにすればって」
蓮太朗はあたしを見てるのに、その向こうに微かにチラついた斉木さんを探すような目をしていた。
「だから受け取って欲しい」
蓮太朗は黙ったままあたしが持っている紙袋を見た。迷っているのだと思った。
「受け取るだけでいいから。お返しとかいらないから!」
お願い、神さま。
「もらってくれるだけでいいから。食べなくてもいいし」
お願い、お願い。
「捨てても……いいから」
もう蓮太朗の顔も見れなくなって、うつむいてあたしは言う。
本当は捨てて欲しくなんかない。食べて欲しい。神さま、お願い。
「言わないでくれる?」蓮太朗は言った。
「みんなに黙っててくれる?」
あたしは顔を上げうなずく。
「斉木にも、あいつらにも、お前が俺にこれ渡しにきたことバレちゃってるから、渡そうとしたけど受け取らなかった……ってことにしてくれる?」
「わかった。受け取ってもらえなかったことにする。絶対言わない」あたしは答える。
「お前からこれもらったこと、お前と俺だけの秘密な」
「うん。約束する」
蓮太朗が紙袋に手を伸ばし、チョコであたしと蓮太朗が繋がった瞬間に言う。
「好きなの。蓮太朗のこと、ずっと」
チョコはすっかり蓮太朗の手に渡り、あたしから離れた。
蓮太朗は紙袋の底に手を添え、両手で大切そうに持つ。
「知ってる」と優しく頬笑む蓮太朗は、もう地味で目立たないあの頃の宇井っちではなかった。
「そうだよね」
あたしたちは見つめ合って笑った。蓮太朗もきっと、去年とおととしのバレンタインデーを思い出しているのだと思った。こんなふうに、あたしが蓮太朗に「好き」と伝えて渡した手作りのチョコレート。
「ありがとう」
あたしが言うと、蓮太朗は「大事に食べるわ」と言って紙袋を少し持ち上げる。
背中を向けて歩き出す蓮太朗を、あたしはいつまでも見送った。
一人の帰り道、ずっとにやけた顔が収まらなかった。
あたしと蓮太朗は秘密を持ったのだ。
二人にしか知り得ない秘密を。
あたしがチョコにかけた魔法は、二人だけの秘密になったことで効果が強くなるに違いない。
思ってもみなかったご褒美を神さまがくれたのだ。
家に着き、誰もいないリビングで制服のまま考えた。
どうしてあたしは蓮太朗が好きなんだろう。
例えば誰かに蓮太朗を好きな理由を聞かれたら、あたしは答えるだろう。カッコいいとか、優しいとか、そういうことを。けれどそれは仕方なく当てはめた言葉で、蓮太朗を好きになるのに本当は理由なんかなかった。
頭や心で考えた感情なんかじゃなく、もっと何か神秘的な力が働いているとしか思えない。
その証拠に、あたしはあたしが蓮太朗を好きでいることをやめられない。他のどんなことも我慢できるのに、蓮太朗を好きな気持ちだけは、自分ではどうすることも出来ない。
家族が順番に帰ってきて、いつものように夕御飯を食べた。父親には買ってきた義理チョコを渡した。喜んでいたけどそんなことどうでもよかった。
お風呂の順番を待つ間、ソファーでクッションを抱えて「お前と俺だけの秘密な」と何度も言ってみた。蓮太朗は、何をしているかな。そればかり気になった。
ああ神さま、どうかあたしの魔法が効きますように。
すぐにじゃなくてもいいから、蓮太朗が、あたしを好きになりますように。
今頃蓮太朗は、ピンクの紙袋から取り出しているだろう。箱をいろんな角度からながめ、意を決したようにテーブルに置き、小さな花の飾りを取り、赤いリボンをほどく。
ベージュとゴールドの包装紙をはがし、箱を開けると甘い香りがする。
そして、蓮太朗は口に運ぶ。
あたしという成分が入った、チョコレートを。
了
※男の子視点のお話はこちら↓
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