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20240904は記念日です。

2024年9月4日はジャンキーガール🎶記念日だ。
そう。私が今まで何年も主張してきたことがやっと、第三者に認められた。これは、何年も狂人扱いされ相手にされてこなかった私にとって、最高の結果である。だから記念日なのだ。今日はそこまでに至る経緯を少しだけ、書き綴ってみようと思う。気分がいいからね。


私は中学時代から少しずつおかしくなっていった。いや、もっと前から、おかしかったのかもしれない。少なくとも小学校低学年のうちに、縄跳びで首を吊ろうとした記憶がある。縄を結ぶのが下手で失敗したんだ。
なんでそんな事をしたかって?学校に行けなかったんだ。それに、母親は礼儀などというものを一切教えてくれず、やられることといえば祖父母からバットで殴られたり、柱に括りつけられたりだった。

思えば、その時から少しやられていたのかもしれない。
そんな中、父親と住むことにした。もともとは、母親と住んでいたが、この生活環境で学校に行くことは難しいと判断したからだ。まさかこれが、さらなる悲劇の始まりだとは誰も思わなかっただろう。

最初は順風満帆だった。しかし、1年過ぎたあたりからおかしくなっていった。小学校5年生の頃だ。
私は、学校に行きにくくなっていた。それは人間関係で悩むようになったからだ。朝には腹痛が出ることが増え、学校に行けない日が少し続いた。

私が腹痛を訴えた日には、父の機嫌はとたんに悪くなる。彼の生活音が極端に大きくなるのだ。私はこれに怯えた。本当に恐ろしかったのを覚えている。昔みたいに、バットで殴られたりするんじゃないかとか、そんな事を考えてるばかりだった。
そして、そんな日々がしばらく続いた時、父親の堪忍袋の緒がついに切れたのだろう。突然大声で怒鳴りつけ、私のことを殴ったり蹴ったりしてきた。頭も踏まれお腹も蹴られたのを覚えている。私は必死で頭を守ることで精一杯だった。
そんなこともあり、私は無理やり小学校に行くようになった。家より学校の方がマシだったからである。学校でも問題ばかりだったけど。

それからしばらくは、そんな生活が続いていた。父親の顔色をうかがって、時々失敗したら怒られて殴られる。もちろん善悪の区別がまだ明確についていないので、良くないこともやって怒られた。そんな時はより過激になる。私のものを壊したりもしていた。ひどいときには外で地面の上を引きずられて、大きな擦り傷ができたこともあった。

しかし、そんな父親を憎めない部分もあった。彼はしっかり授業参観にも来てくれていたし、機嫌がいい時は仲良く話せた。多分感情の制御が苦手だったんだと思う。お互いに。
そんな風に考えていた。甘ちゃんだった。

そんな日々が続いて、中学校に入学することが決まった。
しかし、中学校でもあまり変化は起きず、むしろ周りとの関係を築くことができなく、もっとしんどくなっていき、余計に学校に行きづらくなってしまった。

担任からは「お前には根性がない!」と胸ぐらを掴まれながら怒鳴られ、家に帰ると父親の表情を伺いながら生活する日々。壊れるのは確実だった。

ある日を境に、朝から激しい腹痛が出るようになった。もちろん、調子が良ければ行くのだが、大半の日はトイレから出ることが難しかった。もちろん父親は物に当たったりしている。勢いよくドアを閉める音が聞こえてくる。普段の数倍はでかい音だ。しかし、彼にも仕事があり出勤をしなければいけないので、1時間程度すれば収まるものだった。

そうすると、少しだけ気が楽になるので腹痛も収まる。収まらないときもあったけど。そのとき、メンタルの調子が良ければ学校には行くし、行けなかったら休む。そんな日々が続いていた。

ただ、それで環境が好転することはない。帰ってきた父親に怒鳴られ、殴られる。学校に行くと「なんで学校に来ないんだ!!理由を言え!!」と数時間拘束され、怒鳴りつけられる。理由なんてわからない。当時の私は色々考えたけど何にも出てこなかった。彼らに「お前らが原因だ。」とでも言えばよかったのだろうか?

それが中学に入ってから1年間は続いた。地獄だった。
中学2年生からは、温和な人が担任になったのでそういうことは一切なくなった。だからこそ、少しだけマシになった。だが、学校に行くことはもう難しくなっており、家も安心できる環境ではなかったので、居場所がなくなっていた。

そこで、学校からの紹介で「教育支援センター(?)」みたいなところに連れて行かれて、面談を受けた。話をし、病院に行くことを勧められた。不登校や精神的な物を持っている子供の診察をよくしているらしい。素晴らしいことだ。

早速面談に行ったが、症状の原因も精神的なものだったので、とりあえず漢方だけ出された。毎日飲んでいたが、あまり効かず。改善されなかった。そりゃ、環境が変わらないからだろう。

病院から帰るときに、私は父親にこんな事を言われた。「学校に行けないやつは障害者だ。お前は障害者で恥ずかしくないのか?」と。バカバカしい。私は障害者のことを恥ずかしいとは思っていない。まだ中学生だったが、その考えは持っていた。だから、私はこう言った。「恥ずかしくない。」と。
初めて父親に言い返した日。素晴らしい。

しかし、やっぱり当時の私はこう言われたのが辛かったのだろう。自殺を図ろうとした。全部嫌だったんだ。本当に嫌だった。嫌だから、川に飛び降りて死のうとした。だが、人がいたので失敗した。工事の警備の人だった。

それから、私はどうしたらいいかわからなくなり、ずっと街中を自転車で走っていた。あのとき見た夜の景色はどれも好きだった。またいつか見たいとさえ思う。すべてを忘れられる瞬間だった。

しかし、そんな時間はずっとは続かない。私は保護されてしまった。そして、次の日に児童相談所に入れられてしまった。学校長と話し合いをして「自殺の危険性があるため。」という理由だったはずだ。

児童相談所についてはあまり詳しく書かないが、最低な職員もいた。いい歳して、子どもたちに怒鳴りつけるジジイとかね。ああ、あんなのがどうして職員になれたのだろうか?

そんな感じで、児童相談所を出ても環境は変わらず、病院に行っても何も変わらず、そんな日々が続いた中学校生活だった。だけど、高校受験だけはなんとかうまくいった。行きたかった公立の高校に入れたのだ。父親は何事よりも金を優先する人だったので、学費のことで文句を言われたくなかったのだ。まあ、最終的には文句を言われたんだけどね。

そして、高校へと進学した。
高校はいい場所だった。綺麗だし、先生たちもまともだし。家庭環境だけが本当に悪かったのだろう。この頃になると、殴ると親戚にバレるということが父親もわかってきたので、殴ったりはしなくなった。だが、物に当たることが倍近く増えた。夜中に急に叫んで暴れてる音が聞こえるようになった。私の存在が嫌になったのだろう。高校三年時には、医療費や食費も出してもらえないことも増え、食事に困る日々が続いた。このときが一番つらかった。金もなく食事もない。あるのは住だけ。

私は、薬物の過剰摂取による自殺を図った。家中にある薬をかき集めて飲んだ。どんな薬かも覚えていない。あるだけ飲んで寝た。そして、目が覚めてしまったのでいやいや学校に行った。学校で、ぶっ倒れて病院につれてかれた。入院した。
入院生活は1日だけだったが、あんまり面白くなかった。飯はまずいし、同じ部屋にいる人達は末期の患者さんたちだ。たぶん、年金受給のために無理やり生かされてるんだと思う。可哀想だった。

体調が回復して、父親が迎えに来て家に帰るとき、「何か言うことは?入院費で6万かかってるんだけど?」と言われた。これは謝罪しろという意味である。お前が原因なのに何いってんだ?と思った。さすがにこればかりは許せなかったので、こう言ってやった。「謝る必要はないから謝りません。」
この日、父親の暴れ具合は異常だった。しかし私はよく眠れた。ざまーみろ。

しかし、入院したあとから、食費が出てくる頻度がより減ったので、食事に苦しんだ。学校の先生からお菓子をもらったり、米だけはあったので、米に調味料をかけて食べてた。父親は、ふるさと納税で手に入れたもつ鍋や肉を食べていた。なんということだ。彼は子供のことより自分へのご褒美のことを考えていた。

その頃になると、ほとんど学校に行くこともなく、日々ベッドで泣いてるだけだった。あの日々が一番つらかった。しかし、わたしは何とか耐え抜いた。必修の単位だけは何とか取って卒業した。ギリギリでの卒業だった。だが、2年後から必修の単位が増えてしまったらしい。私のせいだろうか。申し訳ないね。

あとはみんなご存知のとおりだろう?家から追い出され、自殺未遂をして、当時の恋人に引き取られ…。色々あって今に至るわけだ。父親は私を家から追い出した1週間後に結婚した。

そんな日々で私のメンタルは壊れていた。だが、いろんなところに訴えても何も変わらなかった。しかし、この日病院から出た診断書の、養育歴の欄にこんな文章が書かれていた。

「発育上の問題はない。ただ、幼少の頃から父親からの虐待を受けていた。」

もちろんこれはただの診断書だ。私からの話を聞いただけで、医師が書いたものだ。ただ、私にとっては初めて第三者に虐待があったことを理解してもらえた。この文章をみた途端、私は何かしら救われた気持ちになった。心に残っていた辛い感情がとたんに減った。

「ああ、私は誰かにこの事を認めて欲しかったんだな。」と感じるような瞬間だった。この一文を見るために、ずっと頑張ってきた。バットで殴られたり、柱に括り付けられてバカにされたり、お腹を蹴られて頭を踏まれたり、食費を出してもらえず飢え死にしかけたり、薬を過剰摂取して運ばれたり、いろんなことがあった。しかし、わたしはよく耐え抜いた。畜生未満の父親達とのバトルに勝ったのだ。よくやった。


だから、今日は記念日だ。私が畜生未満に勝った日。
ただ、この日々で受けた苦痛による抑うつ症状と、希死念慮は今も残っている。次の相手はコイツらだ。1対2の変則マッチ。いいカードだ。アイツらに勝った私なら余裕だろう。

そしてわたしは今日も脳内のリングに上がるわけだ。気分はまるでプロレスラー。そして、コイツらに屈しないために、わたしはこの文章を書き綴った。敗者の幻影に惑わされるわけにはいかないからね。捨て去るための文章だ。

「ほら。これから始まるぞ。」私がそう思ったとき、脳内にゴングの音が鳴り響いた。カーン。

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