生物の始まりと終わり
人間は愚かであると再確認した。またしてもだ。何回も見ているのに無駄に希望を抱き、そのたびに愚かであると認識し絶望する。また、技術の進歩のたびに、大多数の人間の醜さを見せつけられ、自らにもその愚行を引き起こすための回路とスイッチがあることも認識させられる。
さて、一体いつになったらこのループを断ち切れるのだろうか。
死を望む人間に対して、ぶっきらぼうな言葉で「死にたきゃ死ね、生きたきゃ生きろ。」という言葉をかける人間はどれほど頭が回っていないのだろうか。
確かに、結論だけで言えば、私も同じことを言うだろう。私たちの命は親の幸せのために無理やり持たされたものだ、それを捨てようが何かに使おうが、それは個人の自由だ。
ただ、死を望んでる人間に対して短絡的に結論を伝えたところで、それは伝わらないし、余計に相手を苦しめるだけだと思う。そもそも、他人を苦しめて良いのだろうか。自らに対して何一つ危害を加えていない相手の感情や言葉を否定して、苦しめる行為が楽しいのだろうか?もし、本当にそうだとしたら仕方ない。私とは考え方が違うのだろう。私はその苦しみを知っているからこそ、他人を苦しめることに対して不快感がある。だから、そういったことを楽しむような人間と話すことはない。お互いのためにね。
そもそも、人間であり同じ種族だからこそ、言語という発明品を用いて自らの思考過程と結論を伝えるべきじゃないのだろうか?私はそう思う。
そうすることで初めて、相手が理解というプロセスを起動し始めるのではないだろうか。そんな事を考えながらチャット画面を見ると、「死にたきゃ死ね!」だの「本当に死ぬやつはインターネットに書かないwww」という言葉が画面に流れていく。
ああ、本来のインターネットは、情報収集とより気軽に繋がれるような技術だったのに、今じゃいろんな人間が自らを保つために、他者を攻撃し続けるための手段と化してしまったのだ。自らの確固たる軸を作れば、そんなことをしなくても自らを保つことができるのに、作る努力すらしないで。
そんな人間にかける言葉はない。私はもう絶望したのだ。
再び無駄な希望を抱くまで、こうやって言葉を書き連ねることはないだろう。私は孤独を楽しむことにする。