彼女は活性死者、私は不活性生者。
私の知り合いにゾンビがいる。私は純粋に彼女の人格が友人として好きで、面白い人間だと思っている。もちろん、精神疾患を持っている者同士なのでトラブルもあったが、いい距離感で付き合えている。
そんな彼女はもともとゾンビではなかった。いや、今もある側面から見たらゾンビではない。生き生きと自分のやりたいことをやり続ける素晴らしい「人間」だ。まあ、スピリチュアル系の物事に傾倒しやすい人間なので、やってることはお世辞にも素晴らしいとは言えないなと、私は思っていた。
半年くらい前に、そんな彼女と通話する機会があった。久々の通話だったので積もる話がたくさんあった。お互いにいろんなことを話した。私は、元来話すことが好きなので、結構話し込んだ。そんなときに、ある男の話をされた。
それも系統的にはスピリチュアル系だった。彼女は「その人に救われた。」のだと言う。わたしには分からなかった。この世界に救いがあったと仮定して、その救いを手に入れるためには、少なくとも他者はきっかけに過ぎず、最終的には自己肯定をして行動しなければ、救いは手に入れられない。私はそう思っている。
しかし彼女は不安定だ。自己肯定も波がある。そんな彼女が救われたはずがない。これは何か裏があるんじゃないか?私はそんな事を考えていた。
その時期から、彼女のゾンビ化が始まった。いや、加速度的にゾンビ化が進んだと言うほうが正しいのかもしれない。
彼女には昔、仲が良かった女性がいたのだという。しかし、彼女は自殺してしまった。なぜ自殺したかは聞いてないし、これからも聞くつもりはない。そんなところを根掘り葉掘り聞くほど、私は野暮じゃないからな。
そんな女性に心酔していた彼女は、やがてその彼女の幻影を追いかけるようになった。彼女が生きていたという記憶を忘れないように、彼女の幻影の欠片と成り得る物質を次々取り揃えていったらしい。しかし、それはある程度のラインを弁えていたようにも見える。
そして、ある男と出会い心酔していった彼女は、よりスピリチュアルな方向に傾倒していき、ゾンビ化が始まった。他者に心酔し、植え付けられたスピリチュアル系思考を押し付け、死人の幻影を追いかけ続けるゾンビ。自己の思考を持たない活性死者。ああ、なんて恐ろしい。
彼女にはそこまで追いかけ続けないといけない理由があるのだろうか?理由が気になって私は、彼女に聞いたことが1回だけある。すごい昔の話だから、内容は覚えてないけど。確か、理解はできたけど納得はできなかったはず。まあ、そういうことなんだろう。
たぶん、亡くなった方はそれくらい美しい人間だったんだと思う。少なくとも、一人の人間をここまで突き動かす何かがあるんだ。ただ、彼女は自分自身の幻影を追いかけるその子を見て何を思うだろうか。喜ぶのだろうか。嘆き悲しむのだろうか。できることなら、本人に聞いてみたかった。しかし、彼女はこの世にはもういない。死人に口なし。それがこの世のルールだから。
ゾンビになった彼女は果たして本当に幸せなのだろうか。私には一切理解できない世界だが、本人が幸せならそれでいいのかなあと思う。ただ、私は彼女の元来の性格が好きだ。死人を追いかけ続けたらすべてが駄目になる。追いかけ続けてその人に擬態しようと思っても、結局は劣化版コピーにしかなれないのである。だから、私は彼女には自身の思考を持って欲しい。活性死者にならなくていい。不活性生者のままでいてくれ。これはお前たちにも言えることだ。誰かの幻影を追いかけ続けても無意味だ。最終的には自分の足で立ち、歩かなければいけない。それが知恵を持ち、社会を形成した人間の宿命だ。
しかし、死人の事を忘れてもいけない。第二の死に追いやってはいけない。忘れられることは第二の死だ。その瞬間、死人の存在を証明できる人間はこの世に一人もいなくなる。恐ろしい話だ。
彼女はその中間を進んでほしい。そうすればもっと輝かしい人間になれるはずだ。少なくとも、あの子の本来の人格を見た私はそう確信している。彼女も元は輝かしい人間だったんだ。
私と彼女の関係はこれからもしばらくは続くだろう。他人を追いかけ続けるゾンビがどのように人間になっていくのかを、私は知りたい。ただ、それだけなのである。