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私が恥部を晒すより怖いこと


あなたの怖いことはなんでしょうか。

今付き合っている恋人と二度と会えなくなること。心の支えとしてきた詩を書くバンドのボーカル。彼の女などイザコザ原因となって解散したという記事を通勤時に目にすること。余命宣告。自然災害。神経を削って積み重ねてきたことが一斉に崩れチリとなること。

何が怖いと考えますか。
私は、「枯渇」を体験できなくなる自分が、瞬間がこの世で一番怖い。

『枯渇』。

私はこの文章を一ヶ月ほど前から下書きボックスでコネコネこねるわけでもなく、発酵するのを待つのでも、そんな暖かく香ばしい匂いのする場所でなくて、どうしたら面白くなるかな面白い文章が書きたいな、なんてやらしい気持ちになっていた。

それに気がついた本日、久々に読み途中であった本を読みにデニーズへ足を運んだ。
いえ、ずっとしたかった書きものが理由を作ってはストップしていたから、
『外にでなければまた、寂しさの風船を自分の中で育てられる緑のような思考を放置して風船で埋めてしまう!』
とまた変な妄想と自分との会話の末に足を運んだ。

私の脳みそは案外きっかけのタイミングでよくお話してくれるので助かることもあるし、うっとおしかったり、客観視して恥ずかしくなったり、する。

とりあえず、下書きの文章を一通りみて、自分は何が書きたかったのか、思っていたことを思い出そうと頭を動かす。

何を書きたいのかさっぱりわからずなんだか絶望までも達することのできないうやむやな、自分の幼稚さや定まらない刀に情けな様であった。

私は、『自分のことを好きになれない』で書いたように精神疾患の回復期で現在考えない時間をうまく作り、自分をこの世から見捨てることがなく息を吸ったり吐いたりできるようになってきたため、あのもぐりこむような文章を書いていた自分とは正直、多重人格まではいかないが、別人格のようになっている。

そんなことが今読んでいるあなたにもあるでしょうか。なんて共感を得たくなるが進める。

私は、洋酒きの時の「私」という人格から、だんだん気がつかないうちに、一部が黒く染まるといとも簡単に滲む頭になっていると思う。
幼少期の方が染まりやすい時期かなとも思うが、私の思考はこの年になってさらにひどくなり、順応し自分の色にするまでに時間がかかるようになった。これも自分の頑固なところなのか。納得する色もないくせに違うと言いたいがため感じることなのか。

何色にでも染まる泉にどこから色が落ちてくるか視野を得る余裕をすぐに無くて、遮る能力すらなく濃い色を少しでも進入させるとそれはいとも簡単に作ってきたグラデーションも、采配も消え去ってしまうのが大人になった私である。

余裕や余白がある方がいいと思うのがまた大人でありいやらしいなと嫌悪してみる。

今日のデザートも最高にしみる。と息を吐く。
デニーズの今のおすすめはマスカットの小さなパフェといちごが乗ったナタデココです。いつも栄養を取らなければと思いつつ、甘くて冷たい身体に入ってきた瞬間に快楽を得ることのできる白くて可愛らしいものに手が伸びる。
明日こそは肉を、野菜を摂取しよう。そうしよう。

丁寧な接客に対してデザートとドリンクバーで長居する虫けらのような女をお許しください、、。とまた色の濃いメロンソーダの甘い液体を口に含む。

私は怖いものを考えるためにこの話を書き始めてみたが、まともになる程に人らしい脳みそになるなと思った。私は、前向きになれてから恐怖や不安という負の感情を避けているのか、何を買いたいのか停止した。
病むこともなく、停止させたまま、生クリームとマスカットを口に入れながら、最近読めていなかった本を手に取る。『チョコレートとグラミー』という本である。

この本は、SNSで一部の文章が目に入り、こんな少ない文字量で、愛おしさや状況、青色や懐かしさを感じることができることに衝撃と謎の悔しさが脳内を走り、書店で探し、手に入れた本であった。

物語は途中たるむようなことがあるが、その本もまたその場面であった。単なる自分の集中力の欠如とも思うが、たるんでから読むときは、ながし読みになってしまうことが多々ある。

目を通しながら、でも「ああ、この登場人物の女性、生きていけたんだな。」とか「相変わらずな生活をすると思っていたけれど、自分と向き合う強さと恨んでた相手と自分を重ねる寛大な優しさを持つ人であるんだ。」と彼女の作品の登場人物には、感情移入しかり、自分の親戚でも家族でもない。元恋人のような懐かしさと愛らしさと憎しみを思い出したり、感情の後味に残るのが不思議になった。

純粋に登場人物の今の感情を誰にでも入りやすいような経験や感覚をうまく組み込み、色や匂いや思いを表現しているからだと思った。

改めて小説というのは、映像とは違って、会話だけでは物語は進まないものであり、目から入る原料は、印刷された文字だけだというのに、その本の色や香りや心にすっと入ってきて切なさや怒りや愛おしさを感じさせてくれる最高に繊細で密度の高い趣向品だと感じている。

昔はそんなこと思う余裕もなく、小学生の頃は祖母から寄せられる宿題の音読で一位になりなさいという熱意に押されて感情をなくし喉から文字を跳ね返していたため、一人でこの年になって黙々と読んだり、こうやって文字を綴る楽しさや難しさに興奮したりするようになるとは思わなかった。

怖いものの話でした。急に話を戻します。ごめんなさい。
「枯渇」が怖いという表現は極めて不躾であるし荒っぽいし、いやらしい書き方であるし、想像する気力も起きない。同感である。しかし、優柔不断である私は事象を一つに絞ることができずに感覚で書きました。

私の枯渇。
それは、何も飲まずに過ごしていたある日に、罪悪感を感じジムにいった。1時間過ごして汗を流したが、自責の念から食べてないし飲んでいなかった。あの喉が焼けるような鉄を含んだ唾の出るあの味を感じられなくなること。その後に流し込むビールの冷たさやキレを今後思い出さずに体験せずに死ぬこと。

軽々しい枯渇への恐怖であるが、そんなことをできるような怠惰な日常に、
「ああ、苦しい。」
という感情を思い出す。

そんなことを思い出せなくなる、はたまた『いつぶりだろう』という感覚へ不安や恐怖を感じたのだ。

『死』が怖い人からする。

先ほどの『枯渇』は、体に負荷がかかることであり、医療を軽くつまんだバカな私でも分かり得ることだが、血がかたまりどこかに詰まるリスクを伴う。自分の祖母や死を恐れていた地域のご老人にはやって欲しくない。最近の若者は健康意識が高いが、そういったものも、是非水分をこまめにとって生活してほしいものだ。

自分はそのリスクを兼ねていても、永遠に感じたいと思う。思ってしまう。できないことを超えたいと常に求めてしまう。よく深い人間なのである。

底知れぬ『枯渇』を模倣したこの日常にある嫌味、悲しみ、知らぬうちに溜まった全てを洗い流すのはあの銀色の缶に入った茶色の液体であることを忘れたくはない。

枯渇を忘れる感覚が怖いに移行する。
それは、思考をずらすと思う出すこと。人は裏切るものと忘れてしまうこと。
裏切られた時に感じる枯渇はなぜあれほどに喉の奥を冷たい砂がスーッと通るような呼吸を意識せずにはできないような危機に犯されるのか。

人はいつからか、どこからか、人を信じることを諦め、忘れていく。
裏切られることから逃げることを知らずのうちにしては嫌な感覚から逃げる。慣れていく。経験の浅いものには苦しみを与える嫌な大人は、信じるから逃げるを覚えた大人は、本当に裏切られた子供に対してなんと声をかけるのだろう。
子供を、人を裏切り金に変え、楽しむのもまた、嫌な感覚を経験し逃げた「人」なのではないだろうか。

誰もが感じたことのあるあの瞬間を大人になればなるほど餌にされ蜜として重宝されてはいないだろうか。社会に入ってきた新人にあの感覚を与え続けるのも、枯渇を忘れ違う余裕を得た気になっている恥ずかしい人間の皮を被ったおぞましい肉体であることを思う。
人の感覚は、本当は自分だけのものであって、恥ずかしいことではないことを忘れてしまい嫌な人肉の塊と化すのだと。

やればできる「枯渇」感覚の記憶喪失は悲しいし、歳をとるたびに、経験を積むたびに逃げるのを辞めたい。自分自身にも言い聞かせる。そんなことをしないといけないほどに年を重ねることは大変であるのだと情報を脳に入れ込まれ体がウドいているのが日本人なのかなんて闇を国に葬り去りそうになる。
私は、「枯渇」から逃げるここにある自分が怖いのです。

あなたは何を怖がりますか。

「枯渇」に自ら飛び込むことをする年代は高校生、大学生ほどでしょうか。大人へ近づく年。それを滑稽にする資格は「大人(肉体)」には無いと考える。蜜にするのは勝手にしてくれとも優しさで思うが本人を責め立てたりすることは逆に滑稽であると思う。そんなことを訴えても如何しようも無い、如何しようも無いことをここに私は書いています。

私にもそんな枯渇を欲していた時期があり、今でもそんなことがあったなと支えになったり恥になったり人生の弊害になったりしますが、そんなことでこんなことを思い、存在しています。怖いことの経験の中に「恥部を見せるより怖いこと」が枯渇であるとたどり着いたので経緯を話してみようかなと思います。

近日、「東横キッズ」なんて言葉がありますが、情報に踊らされた少年少女は、若さという時間をステータスや将来のために販売する。利口であり、危険であり、あちらでは滑稽、恥とされ、こちらでは仲間として認められるようなことであります。

流行りで取り上げましたが、どんなことも言葉を作り、共通のイメージ化として広める。どんな言葉も「そんなもん」ですなあ。と思う。悪い意味の言葉もひとときの懐かしいことを思い出す言葉もそんなもの。

どんな高貴な経験も、言葉でまとめあげられ、無意識化に生きすみ帰省中のような役割も果たすのでしょうか。なので私は、幼少期に真面目にテストを受けたって、嫌がられいじめられ、褒められ、すべてを何をするにも思われるということを忘れたくはない。

どこの言葉も最近は「こうするべき!こう感じるべき!」と四方からじわじわと固められて気がついたら昔流行った形を変えられた西瓜のように思考の形を変えられている。よくある世にも奇妙話が具現化した現在の形であると思う。

私も思考を自分の目に入った味だけ濃い原材料や色だけ濃い着色料でダメにし、謎の架空の生命体と戦い、何かを見失い疲弊し鬱になりましたから、この際思い出から、また最近会う友人から、家族から親戚から思考を解いて塩抜きして柔らかくでき始めて「よかった」と簡単な言葉で安堵する。


恥部を晒してできることは何でしょう。
ただ考えてみる。快楽のための性行為、金目的の商品価値。
大きく分けて二つかな、なんて思いますが、それはどこまでも尊いものであり、恥ずかしいものでありグロテスクである。感じ方はそれぞれですが、そこを見せることの前後の物語はあなたの人生のポイントになっているのではないでしょうか。
私はこれまで両親が今までも今後も知ることのない量の人人間と接してきたと感じている。

私は恥部を晒すようなエピソード実際に晒した出来事の中で出会う人との物語が好きである。純粋に大人を感じ、幼稚で愛らしいものや私たちが動物であることを再認識させらる。

ある夜のこと。渋谷の未成年でも簡単に入ることができるチンケなクラブハウス。
何かわからない誰しもが持っている寂しさを風船のように大きく膨らませることしかできなかった私はそれを抱えて夜な夜な、気になるあの子と同じ帰路に乗れないとわかったころには、そこへ行き朝まで時間を潰していた。

今流行っているのか、そんな飲食店でバイトしていた時に永遠にループするあの頭が痛くなるようなポップチャート曲が並ぶ。

そしてみんなが叫ぶ。あたかも「俺が、私がこのクラブハウスでナンバーワンにストレスフルで寂しくて、人とは違う部分があるんだ!」と誇張して叫ぶように。

あまりに滑稽で悲惨である。

それをバカにしてくる先日マンションの屋上を借りて行ったバーベキューで、一切話しかけてこなかった主催者。ラインの追加をされたかと思えば
「お疲れー、何してる?」とメッセージの後に続けて5分後には電話のバイブがなる。

「お疲れ様ー」の声は一変して、私のうるさい外野から察知した彼の「安い女」という認識の私は、「家きなよ。どうせ始発待ちでしょ。タクシー捕まえなよ。」と都会からは程よく離れた払えなくもないタクシー代の距離を移動しろとせがまれる。
「今日はいいや。また今度。」と当たり障りない言葉を放ると
「クラブで会う友達なんてロクでもない。人脈広げようなんてバカだ。」
と彼の中で出来上がったトラウマでもあるのだろうか。未完成のフィールドの妄想を突きつけられ、連れ込もうとする。
私は、「ああ、友達をつきりにきた女」そう思割れているんだ、というか彼はそれをしてたんだろうな、と下書きをなぞった。

私は友達作りに来ているわけではなく、またそう安直に思ってくれる彼でよかった。自分よりやや年上で大学を出て、就職していた彼は、エモいを履き違えた安い居酒屋でどれだけ可愛い子を持って帰れるか、そして自慢し、バカにしながら自分から離れないように愛を売るかをするような一般人であった。

一般にいる近しい年代の彼に作り出された私の形は私のSNSで繋がる彼らにも思われているのかなとホットした。一息つくような異様な行動をとることに日常から逃げる私は結構異次元のふわふわとした時間の流れに気持ち悪くもなってきた頃であったからだ。

私はその時間は自分をお金に変えることに専念していた。その時間内でできることで馬鹿らしい理由で。理由と言えば寂しさや日々の虚しさで自分の体を通過する冷たい嫌な感覚を、自分と同じような誰かが、寂しさや欲求やステータスを埋めるために使用してくれて、お金という紙切れでしていることに価値をつけてみるようなことをしていた。入り浸っては場内を回る。
「おお、またやってるよ」なんて言葉も聞こえる。

ビップ席では大体不動産会社か広告代理店の若い経営者と中年の取引先がシャンパンを女に飲ませていた。どこにいたってそんなことどうでもよくて、寂しそうな一人で来た医者やパイロットの卵を見つけては話しかけて、でも結局快楽や思い出を欲しがるから、金でその時間を適当にあしらった。

ある日の平日には、出会い系アプリで知り合った中高年と会う。
今日は鰻屋さんに連れて行ってくれるらしい。お腹は空いていないからいらないけれど、「おいしい」と頬張る嫌な女が私です。

彼らの話の内容は誰でも嘘でぬりかためて自分の理性を飛ばせる行為をできるコースへ知らぬうちに持っていけるかというゲームであることは安易に見透かすことができたので、どんなコースにするのかみていく私は旅人であった。

その中でもなんども会う彼は、知り合っていくほどにただの寂しいが真面目な生活と仕事の隅っこにしつこく残り、それを布で隠そうとしても泣きわめくのをやめなくなったような可愛らしい大人の赤ん坊を飼っていた。

結婚して20年、仕事が好きで自分のために家族のために積み重ねてきたある男のキャリアは、家族に寂しさを与えたらしい。養育費を支払う規約にサインさせられ、家族四人で生活することは思いがけないうちになくなったと。

その男性は稀に見る私には足らない誠実な人間であった。
一般的な中高年は、年を取るだけ取っても、理性捨てる瞬間をうまくコントロールできなくなったのか、「寂しい」を叫べなくなった見た目からか、客観視しすぎる男の性格のためか、「いくら払えば、、」とここぞと無理性な言葉を続ける。「僕は(私)のことはわかってるから。ウィンウィンだよね。」と。何がわかるのだろうかと思う言葉も浮かばないほどに年齢を重ねただけの赤ん坊が私の前にいるだけであった。

なんだか可哀想だなと言えない私の心は感じているのが不思議で面白かった。だから結構その活動は『真面目』に続けた。

誠実な彼は毎回する食事のたびに「寂しいんだ」と自分の心を素直に伝え、「君がこうやって定期的にご飯を食べてくれて、つまらない僕の話を聞いてくれてありがとう。」と感謝を伝えた。
この相手が彼の愛する家族であるはずだったとたまに帰りの電車で涙がでた。
久々の他人への涙は何かとしょっぱく、嫌な日常から逃げてきていた私には贅沢で出したくなかった。

私はその仕事と脳を勘違いさせていた反社会的な自分の活動を踏まえて、そういった相手の求める女を作り出すことには今までの生活で変に培った能力であったため、「こちらこそありがとうございます。これからも聞かせてください。」と本心の気持ちと裏腹に「これはお金のための嘘だよ。」という意味を一線を引くためにも相手のお金を使う価値のためにも、体の代わりに儚さを売るためにも含まなければならなかった。

彼以外の男性の中にはお金の代わりに馬券を渡してきた奴もいたが、そんな裏切りさえ、笑えてしまう時間の使い方であったと振り返る。きっぱり連絡先を消したきっかけはまた今度話すとして、楽しかった。もちろんおすすめもできないがしたい人を止めることもできない。ただし錦糸町という街は本当に恐ろしいところであるから、そこだけはやめろと伝えたい。命だけはそんなものに誰も取られて欲しくない。
こんな誰にも話せない経験を経て、人間という年を重ねるたびに皮を熱くする生き物を初めて知っていくような感覚をしていた。

彼は、誰にも見せれずに生きている真面目に生きている秋葉原の飲食店の店長。
彼は私のようなものから慰められるたびにお金を積んでいき「もう会えません」と誠実に去って行ったり、ある土木をする少年は「経験としてしてみたかった」「出会いがないんだ」と寂しげであって年も近く見過ごせなかったから、そのお金で二人で焼き鳥を食べに行ったりもした。

そんなどうでもいい時間が嫌いではなかった。

恥部という部分には過去も未来も、寂しさも理性も誠実さも含まれていて、神聖であり抗えないものであり、ひた隠すものであるとふわっと思う。
言葉で綴るのは変に感じふわの方に意味を含ませたい。

本業の方が嘘偽りの世界で、普通に生きるというステータスの上に立とうとする女と男の蹴り落とし愛や感情を立場の女装を使い簡単に人の心をえぐる行動をとる中高年の方が腹立たしくあった。そんな男も女も隠して生きていて何かを否定して生きていけなくなった時には頼るといいよと思う時も出来た。
人間は案外愛おしくある。

「怖いこと」。それは、そんな思いを共感できる時間や人と繋がれなくなることかもしれない。乾いた何かに、誰かが水を分けてあげれない世界かもしれない。

そんなことに気がつけ亡くなっていく、社会人のがんじがらめの脳みそかもしれない。

人は案外、何か重なる部分をふわっとした温かいものと感じ、それを感じるために生きているかもしれないと思った。

                      終わり



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