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自分のことを好きになれない

 私は周りの人に「君、自分のこと大好きだもんね。」とよく言われる。初めから真逆のことを書いて、読む側にも言う側の君たちにも申し訳がなくなる。
 こうやって勝手に繕って、仮面を被って「ごめん。私そんなんじゃないんだ。褒められたってどうやって返せばいいの。」とお調子者の自分と真逆に勝手に辛くなり、また違くて謝罪する。
 上記すごく綺麗事だ。そんなことを考え始めたのはいつからだろうか。頭の中を肯定できる自分と否定的な自分が追いかけっこする。  

 そして、私は立ち止まってしまった。

 自分のことを信じることができなかった自分は、何が本物か、みんなは誰に頼っていると思っているのだろうか、と周りの人でさえ信じられなくなった。好きなものがなくなった。行動ができなくなった。"居なくなりたい"と思い浮かぶ歌詞、映画のワンシーンに重なるとかではなく、まじめに思った。

 梅雨のジメジメとした空気のなか、何もやる気の起きなかった私は散歩に出た。感情が低迷した私が無理やり働いた冬が明け、春のあたたかさも感じられずに雨しか降らなくなった頃であった。

 私は真夜中の道路のど真ん中、スウェットの裾と、ケツを生暖かく濡らし、肘を後ろについていた。もう、どうでもよくなっていた。背中もこのジメジメした空気から逃れてしまおう。もういっそ全て生暖かく、気持ちの悪いものとなってしまおうと力を抜こうとした時であった。
 「何やってんだよてめえ!危ねえよ!」と怒鳴られた。ああ、久々に怒鳴られたな。なんて思ったと同時に私は他人にも迷惑をかけるのか、と冷静に思ってはいけない場面で思った。
 しかし体は動かずに心無い弱っちい雨に降られていた。 トラックの運転手は警察を呼び、その後も怒られたのだろうが記憶が曖昧だ。

 後日病院にいた。母は昔から仕事好き(?)であったが、休みを取ってついてきてくれたのだろう。
 遠くから
「いや、見に来てもらいに来たんです。今日じゃなきゃダメなんです。え?暇そうじゃない。何が無理なんですか。」
と言い合っている声が聞こえる。
きっと母だな。予約が上手く取れていなかったようだ。いつもこう。中途半端。なんて思って私のために動いている事象に意味がないと思い、そして謎の涙が止まらなかった。ボタボタと白いTシャツを濡らし、また馬鹿馬鹿しいが、それを見かねて私は診察室は通された。

 診察室の中に入ると妙に涼しくスッキリとした空気に一瞬にして包まれた。透明なパネルの向こう側には、仕事用に繕ったような、ピンクの柔らかさを羽織り、お正月のお餅のようにどしっとした、目の垂れた、様な人がいた。
『ぱんださん』がいた。
 この人(ぱんださんみたい)と思えた私は、嘘みたいなピンク色の優しさを素直に優しさとして受け取ることができた。
 そして最近のことの記憶がないこと、周りから言われたのが「最近暗い、心配、何かあったの?」であったこと。体重が劇的に痩せたこと。確かそんなことを話した。
 回答は案外あっさりしていた。
「適応障害ですね。お仕事3ヶ月お休みしましょう。診断書お出しします。」であった。
 母はその返事にやけに納得したそうだ。
「今から師長さんに連絡するから、ね、あとは、」と慣れないことをこなそうと口を動かしやけにちょこまかと動く。確かそんな感じであった。 こうやって私のことを育てる外枠を整えて来てくれたなとどこか懐かしい気持ちに一部なった。
 そこから1ヶ月不眠が続いていた私は取り返すように眠った。
 ただひたすらに涎を垂らし目ヤニをつけ、ここはどこかも分からぬ適度に柔軟性のある地面に引っ張られていた。  
「今となっては」みたいな考え方ができるようになったのは「現在」である。
 現在に至るまでは、焦燥感、安堵、羞恥心、開放感というN極とS極の感情に振り回され続けた。現在は治った、というか慣れました。
 体が落ち込んでいるうちは体のせいにできたものが、私も人間なので回復機能がそれなりについており、体は日中椅子に座れるようになり、お風呂に入れるようになった。
 こんなご時世に不謹慎な言葉ではあるが普通の人間に産んでくれてありがとうと母に久しぶりに現在感謝できた。
 体が回復してからは、生活に戻ろうと努力した。
 朝は起きて散歩に行って、買い物に行こう。読書して、何か生産性のあることを勉強してみよう。そんでもって、タイミングをみて復帰しよう。
 だなんて意気込んだ。
 なんだかんだ言って上記のことはそれなりにできた。そして毎日を過ごす中で心は死んでいった。
 私の家族はああ、よかった。復活したと、思い込んだ。私も思い込んだ。
 どこかにいる私があの夜の様に叫び続けた。

(まだ無理だよ。私生まれてからずっと人のために生きてきちゃったんだよ。私のしたいことはあるよ。このままいったらまた嫌いな自分に、人が嫌いな人間になるよ。助けてよ。お前しかいないんだよ。)  

そしてそれは体に連動した。
食べても味がしない。横になっても心拍数が上がり口が渇く。死んでもいいと思っていた自分がああ死んでしまうと跳ね起きるのが嫌になり涙が出た。
 なんでかなあと項垂れるまでに、過去の私の肯定できる頑張り屋の自分は足を動かす。
 職場へ向かい「復職できます!」といっていた。
 この病を知らない人は(過去の自分)は前進んでんじゃん、いいじゃんと背中をおす。
 師長さんは「よかった!元気そう!人が足りなかったの!」と話を進める。
 次の瞬間私(限界突破人間)は自分(過去の肯定的な自分)に首を絞められた。息ができなかった。
 師長さんは「、、まだだね。」ぼそっと呟いた。職場も人員不足し、人柄も好きな師長さんも究極の状態だったのだろう。そんな職場にますます嫌気がさす。そして安易に戻ろうとしていた自分の無知を知る。
 帰宅し、休業がぱんださん(精神科の医師) により伸びた。家族も医師も案外安心した表情をしていた。この時はまだ、人の表情が素直に汲み取れたような気がした。そしてこの時ばかりは周りの人をよく見ている自分の力に救われた気がする。
 何かをしなきゃと日々を過ごす中で払拭という行為をするためか、「引っ越し」「犬を飼う」といつものように突発的にシタ。
 環境を変えてみても、嫌いな自分の考えは永遠に襲いかかり夏だというのに夜が永遠に感じる日々であった。

流石にめんどくさくなった。生活しずらいと思った。

 ふと職場の精神科の先生に以前もらっていた「お気軽にご相談を」という便りを思い出す。
 勢い任せにメールした。恋人にも家族にも殻を被っていた私は知らない人(先生) には赤裸々にメール出来ていた。  

re:精神科の先生 件名:看護部 私 面談についての相談 こんにちは。急な連絡すみません。休職している看護部の〇〇です。 精神科に通っており、薬の内服で生活に体は最近ついてきていますが、心がずっと死にたいいなくなりたいといっています。私もそう思うような気がします。 側からみたら普通の生活をしている私は頭の中は人が怖くて誰も信じられず自分も家族も信用できない自分だなんてここにいる必要あるのか、いなくなるの選択肢しかなくなります。何を言われても嘘のように聞こえます。 今までの自分も汚く感じ、それを誰にも話したことがありません。居なくなりたいと思うことを相談するのも違うのかなと思う時もありますが、何かしなければこのままかと思い生きているのであれば動こうと思い連絡してしまいました。
  と。なんて投げやりな。
 返信は、簡単なもので

連絡ありがとうございます。
⚪︎日⚪︎時から会いていますか?時間は1時間見ていただければと思います。返信お待ちしております。

とのことであった。
 私は安直な人間なので、一コマ進んだ私に高揚を覚えた。そんな自分が惨めでやだなと思った。(いつものループ)
 面談当日そりゃもうなんかわからんことを話した。
自分の生い立ち、自分の嫌なこと、諸々にもろを3つ付けたそう。そうしよう。
 話してふわっと軽くなった自分がいた。気分が少し高揚し「こうやって話せば少しずつ楽になるんですかね。何もしないよりいいんですかね。」と食い気味に問うた。
 アンサーはこうだ。
 「環境は人を作り出すが全てがキーであると限らない。多分普通に生活していた時にはこんなお辛い経験は話さないし思い出す出来事がなければしまっておいていたでしょう。
"ひとはみな、そんなものです。"」
ああ、そうか。
 私は少しの苛立ちと腑に落ちないことを感じた。その後の言葉を聞くまでは。先生は続けた。
「しかし、今あなたはとてつもなく弱っている。この状態は無理したあなたがいたならば、ていうかいたとおもうけれど、いつかは来ていたと思う。普通のあなたなら考えていないことも考えてしまう。そんな状態です。人のために尽力をしてきたのが、今後生きていくことを不安にさせたのかもしれませんね。自分のことを大切に仕方がわからないのじゃないですか?」
 はい。そうです。わからんのです。納得した。
 ぱんださんはいつもピンクの空気をくれたので、ズバリいいますよ!並の威力を持つ濃い紫の言葉は圧倒されたがそれに続けて、私が求めていた言葉の範疇とは別の急カーブをぶつけてきた感じ、ドッチボールで急に「はい!もう一つボール増やしまーす!」ですごい威力で攻撃されたくらいの"異"違和感を得た。
 違和感が私を納得させ腑に落ちたのは、いつも人は私の先をみて言葉をくれていたのだなとハッとさせられた部分でもあった。人に気を遣わせたなと思い、感謝もせずにそうやって言えば私が納得すると思っている誰かへ安直だなと馬鹿にしていたのだ。
 なんて様だ。そしてそれを誰も知らないのだ。
 それは言葉に出ていたのか、顔に出ていたのかわからないが先生はもう一度くれた。
"ひとは、みな、そんなものなんですよ。"
誰も人に全てを話そうなんて思いません。と。
正直怖かった。そして凄と簡単な言葉で思った。
 大切にすることについて考えた。そう思えば昔から友達に、恋人に『自分を大切にね』と呪いのように言われていたなあと思い出す。頷き、少し嬉しくなり、そしてわからなくなって、シャボン玉が音もせずに地面と同化するように静かになくなる言葉であった。
 「どう、行動したらいいですか。」と頼りなく情けなく聞いた。流石に細木数子さんは亡くなったしななんて思いながら。
 先生はズバリいった。
「あなたが、何も考えず、客観視せずに夢中になった出来事はいままでの人生でありますか?楽しいとか辛いとかはその事象の中でしか起こらないそんなこと。」
 私は、家族にも気を使うような子どもで気が抜けなかったのだが、唯一祖母が習わせてくれた習い事は、週に5回もあったのに大好きだった。汗を流し、声を出し、全身の力を使ってする演技もトレーニングも好きだった。
 「唯一習わせてもらった新体操をしている時です」
それだ。と先生と目を合わせた。
 読書でも、散歩でもなかったのだ。(それも大事である)だが、新体操をすぐにしようなんて難しかった。
 恋人がタイミングよく事務の契約に誘ってくれて、通うことにした。3キロ走った。心拍数は160まだ上がった。久々だった。
 何も考えていなかった。久々だった。
 気分が良く、外に出ると夕陽の光も、少し湿気の無くなった乾いた風も気持ちよく心から思った。誰のことも考えていなかった。
 これを続けたらいいのかも。と希望が見えた。
 同時になんか寂しくなった。自分を大切にできないことに慣れていて、その不純物のようなものに自分が嫌いでそれが好きだったのかもしれない。気持ち悪い。
 ループが始まる。
 
 わたしは自分が嫌いである。苦手だ。
こんなに掻い潜る人間は。そんな私が書くこの話は誰かの私みたいな人もいると心の支えになる、そんな安直なことは書かないし思わない。
 しかしそんなことを本気で書いているなにか残そうと、自分の文章と言う才を信じてみようと思う馬鹿な自分が好き、かもしれない。
 同時に思い返すことは自分を大切にしていないことに繋がるし、辛くなったりする。
その度に、考えなくて済む自分の行動をすることができるようになった。方法を覚えたが、できない時もあって、そんな時も、何もわからなくなった自分になっても大切な人を傷つけない自分を、必要と自分がして行こう。
 そんなことを思って私は今日もここに居座っています。
 人生は暇つぶし。この世に生きとし生きるものは、この宇宙の惑星の中の小さな地球に招かれた来客であり、この世で遊ばされている。
 つまらない財や、時間に踊らされながら見つけ出した綺麗な愛や、自然に癒されて。どんな人間でもである。

そして命が切れるとき思うのだろう。
ここにもう少しいたかったな、さあ、帰ろう。と。
その時が来るまで、なんとか居ようと無理はしなくていい。たまに自分と戦って振り返りすぎず今の自分で在りましょう。
 みんながみんなこんな人もいるなで在りましょう。私の助けに、私と誰かのきっかけに、希望になって切れそうな何かを繋ぐ哀れで気まぐれな生き物でいましょう。

なんと安直な世界に今日も乾杯。嫌いな自分に祝杯を。
 
 


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