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苦痛も脳内サーフィンにする感覚で🏄♀️🏄♂️🧠
私は24歳だ。
23歳まで不幸に生きてきた。
病弱に生まれたのはただの入り口だった。
3歳から性虐待が始まった。
性のそれを見せられ、やられた。
暴力を受けることが安らかだと感じるまで頭はおかしくなってた。
学生になる学年の分だけ不良たちと連んで乱行の場にいた。
中退してからは殺人犯と暮らして毎日20回の性行為と包丁を突きつけられた。
児童養護施設でも職員とそういう関係になったし、DVシェルターではくらい部屋でひとり、窓がないから太陽はお預けだった。ポストにご飯が届くだけの生活を繰り返して、
恋愛もしたことあったけど、失恋する度に自殺未遂をして閉鎖病棟の中。
家庭から12で離れ気づけば11年間、社会から閉ざされた世界で暮らした。
そんな苦痛の中で、やっと今幸せになった。
私はあまりにも不幸すぎて、もう怖いものがなくなった。
死も怖くない。だって意識障害を起こして臨死体験もしたし、病気も抗うことなどできずに付き合うことを覚えた。
性もその中に正しさを見つける能力が備わった。これは人の倍育った。
私は苦痛の中で乱行の場もあったが、不純になったことはないし、道徳観と心の健康さと普通の人よりモラルがある。あと、とにかく明るい。
廃人にも犯罪者にもならなかったし、普通の人以下普通の人にもならなかった。
こんなに強い意志なんて、正直私にしか持てないと思ってる。
でも、私みたいな人や私より苦痛に弱い人がいたら、このイメージを送りたい。
"脳内サーフィンすれば良い"
これは、人生の中、と、はっきり抱いたのは、臨死体験をしたときに死ぬことを自覚したときに生まれたものだ。
"脳内サーフィン"とは、抗うことから離れ、それを海のようなこの星(私たち人間)にとって意味のある海の波として捉え、客観的に、主観的に感情的にならず、面白い感覚でただ風に任せて俯瞰することのことだ。
苦痛自体を面白い感覚で楽しんでみることは、案外幼い時から私もできた。
その感覚は、むしろ無心じゃなく、涙から生まれたことを忘れたくない。
私は涙を1人流していたときに、"今泣いてるわたし。(確認)すごい。これが心だ。(感動)私、悲しいって感じてるだけ心があるんだ。なんか痛いけど、嫌いじゃない。だって生きてる感じする。"
これは、まさに、小学3年生の時に思った時のことだ。
本当に怖いのは何も感じないこと。心を感じれなくなること。
私は、そこに気づいてたから、今に達することができたんだと思う。
だから、心をずっと感じ続けること、それがたとえ不幸だとしても苦痛だとしてもそれは心でしかなくて、
それは貴重な美しいものに変わりはなくて、同時に、いま心を感じれないみんなのことをその時は少し、今はとても、私より不幸だと思ってる。
私のこの23年間について、"脳内サーフィン"として名づけ、
不幸からの『サバイバー』として、
これからは、世のため人のため、
医療職なので、戦士として善い人になり続けるつもりだ。