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自分への批判記事を書いてみよう

僕の記事は、たまに批判される。批判コメントが書き込まれることもあれば、稀にわざわざ批判動画や批判記事が公開されることもある。

何はともあれ注目してくれていることはありがたいことではあるのだけれど、それが鋭い批判だと感じるかどうかはまた別問題。十中八九は、誤解曲解で揚げ足を取られているような印象があり、それを訂正しようと躍起になっているうちに、議論は重箱の隅突き合戦に発展していき、もともと自分が何を言いたかったのかすら忘れていく。誰しも経験のある不毛な議論へ突入していく場合がほとんどだ。

もちろん、それでも学べるところはある。「この書き方は誤解を招くんだな」とか「この点は相手に揚げ足を取る隙を与えるから注意しよう」とかそういうものだ。

しかし、それは本質的な批判ではないし、議論でもない。だから僕は自分の主張が批判によって磨かれていく経験に乏しい。

ならば自分でやってみよう。そう思った。第三者になりきって自分の記事の批判記事を書いてみよう。自分の意見を客観的に見つめるトレーニングになるし、人の批判をするための練習試合にもなるはずだ。

テーマはこの前、長文の批判記事を食らった、あの記事で。

そうと決まれば早速やってみよう。




常識はずれの主張を行っている人物が、ただ頭のおかしい人なのか、それとも徹底的な思考の果てに真実にたどり着いた人なのか、それを見極めるという趣味を持っています。

十中八九、頭のおかしい人なのです。しかし、一二くらいは、「お、これは鋭いことを書いているな…」と思わせてくれる主張に出会うことができます。

さて、このホモ・ネーモなる人物は一体どちらなのか? 私は興味を惹かれて仕方がないのです。

ハーケンクロイツを掲げ、「ナチスに加担したくなければ」から続く命令口調のタイトル。誰しもナチスに加担なんてしたくありませんので、もし彼の議論を受け入れるならば、多くの人はニートにならなければいけないことになります。もちろん、そのような結論は到底受け入れ難いものです。

物議を醸そうという意図を感じずにはいられませんね。

おそらく労働を批判する記事なのでしょう。しかし、「日本人は働き過ぎ」とか「労働は金を得るための手段にすぎないのに、本気になるやつはバカ」といった、ありきたりな批判ではなさそうです。

では、彼は何を言っているのか。「現代のナチスに加担したくなければ、ニートになれ」と、一体どのような意味なのか。現代のナチスとはなんなのか。なぜニートになることはそれに加担しないことになるのか。

彼は単なる頭のおかしい人なのか。そうでないのか。

摩訶不思議なホモ・ネーモワールドを覗いてみましょうか。


■ホモ・ネーモさんが言いたいこと

彼の言いたいことはおそらく冒頭にある本人の引用Xにまとめられています。

ここから、ナチスという言葉遣いの意図もなんとなく察することができます。

今では満場一致で悪だとみなされるナチスですが、かつてはドイツ国民の手によって民主主義的に選ばれました。ドイツ国民にとってナチスはある意味で正義だったのです。しかし今となっては膨大な歴史書によって悪の烙印を押されています。

槍玉に上げられるのはナチスだけではありません。ナチスに投票した人々も、無思考の大衆の典型例としてしょっちゅう引き合いに出されています。「自分の頭で考えないと、ナチスに投票するような愚かな大衆になっちゃうよー」というわけです。

おそらくホモ・ネーモさんは、同じように「労働」を未来から捉えています。労働とは後世から見れば明らかな悪であるのにもかかわらず、多くの人は正義として肯定している。労働を肯定することは、後世から見ればナチスに投票することと同じような悪に見えるはずだ、というわけでしょう。

僕は、労働を完膚なきまでに否定したい。

誰一人として労働しない方が好ましいばかりではなく、むしろ、労働は世界に害を及ぼしているというレベルで、「労働は悪行である」と主張したい。

この主張は普通に考えれば受け入れることはできません。労働する人がいなければ、彼がこの記事をアップロードするためのインターネットも、パソコンも、電気も、テーブルも、なにも用意されないのですから。

しかし、まだまだ議論は始まったばかり。その根拠はこの先に書かれているはずですので、期待しながら読み進めていきましょう。


■ブルシット・ジョブへの批判への批判

ホモ・ネーモさんは労働が悪である理由を6つに分けて説明してくれていますが、まず1つ目は「何もしていないサラリーマンが膨大にいるから」とのこと。

直接、「ブルシット・ジョブ」という用語は使用されていないものの、おそらく影響を受けているように感じます。要するに、「無意味な仕事をやっているサラリーマンが膨大にいるよ」という話でしょう。

実際のところは何もしていないのである。果てしなく続く会議や社会調整といった儀式に時間を費やしたり、時計をチラチラと見つめながら定時が来るのを待ち焦がれたりするだけで、生産もケアもせずに金を得ているのである(豊作を祈る儀式を行って、農業に携わることなく米を得る神官のような仕事と考えるべきである)。

この指摘自体は、サラリーマンならば誰しもが思い当たる節があるでしょう。私自身「こんな会議意味ない…」と同僚と愚痴をこぼした経験は1度や2度ではありません。

しかし、だからと言って即座に労働全般を否定できるわけではありません。

結果的に会議が不毛であることはよくありますが、チームで何らかのプロジェクトを遂行するためには多かれ少なかれ会議や調整が必要です。それが全くなくなれば、各人が全く的外れな計画を思い描いてバラバラに行動するような事態に陥る可能性があるのですから。

会議や調整が非行率であるという指摘なら受け入れることは容易いです。しかし、それを「効率化した方がいい」ではなく「(まるまる労働ごと)無くした方がいい」という主張は、現段階では受け入れることはできません。

「時計をチラチラと見つめながら定時が来るのを待ち焦がれたりするだけ」という部分も同様です。確かにこの時間は果てしない無駄のように感じるかもしれませんが、「待機」に全く意義がないなどということはありません。

17時閉店のお店なのに16時からお客が全く来ないということはよくありますが、だからといって「16時に店を閉めておけばよかった」などと言うことはできないでしょう。仕事が発生する可能性に備えて待機することは、一見無駄ですが「必要な無駄」です。もしそれを否定するなら消防士の9割は解雇してしまった方がいいでしょう。

もちろん、これらの無駄を放置すべきと言いたいわけではありません。改善の余地は存分にあるはずです。しかし、これだけで即座に労働を否定することは妥当とは言い難いでしょう。

とは言え、これは6つの根拠のうちの1つ目なので、これだけでホモ・ネーモさんの主張を却下することはできません。続いての根拠をみていきましょう。


■競争への批判への批判

続いて2つ目に、企業による競争が不毛であることをホモ・ネーモさんは主張します。彼曰く、営業、広告、デザイン、コピーライティング、マーケティング、コンサルティング、ブランディングといった営みは、単なる軍拡競争であり、お互いを消耗させる結果にしかならない、とのこと。

金の奪い合いとは軍拡競争であって、例えばXという土地に商品を売りつける権利を巡って、A国とB国が争っている状況を想像して欲しい。A国が戦車を作ればB国も戦車を作るのだ。営業活動や広告、マーケティングなどは戦車を作るような行為なのである。要するに、みんながやめたほうがみんなが得する

僕たちが労働と呼んでいるものの大半はこういった活動である。

この指摘自体は肝に銘じておいて損はないでしょう。街やインターネットは広告で溢れかえっていますし、胡散臭い飛び込み営業やテレアポに奪われる時間は不愉快そのものです。

しかし、先ほどの議論と同様に、これを根拠に労働を否定するのは難しいと思われます。

企業による競争の結果、さらなる性能や生産性の向上、価格低下という望ましい効果が生じることは疑いようがありません。広告やマーケティングも、ニーズを言語やビジュアルとして表現することで、人々が新しい価値に気づくという体験を提供しています。広告によってお気に入りの商品に出会った経験はホモ・ネーモさんにだってあるはずです。

競争が全くなくなれば、なんの努力も向上もない社会が訪れるのではないでしょうか。事実、旧ソ連が現役だった時代、競争を否定していた東側諸国の商品が西側諸国の商品に劣っていたことは明らかですし、東側諸国の人々は西側諸国の商品を渇望していました。

もちろん、だからといって不毛な競争が存在しないと言いたいわけではありません。事実として、不毛な競争が増えていることは間違いないでしょう。広告業界の市場規模は年々膨れ上がっていますし、巨大化したGoogleやMetaの利益が妥当なものかは常に疑問があります。社会が広告まみれになることは健全ではないと多くの人は同意するでしょう。しかし、競争を全く無くそうとする極端な立場も、クメールルージュやボルシェビキの末路を見れば健全ではないことがわかるはずです。


■過剰生産への批判への批判

3つ目として挙げられた根拠も上記と関連して、競争が過剰生産を生むリスクについての指摘です。

日本では作られた服の半分は売れ残る。そこで無駄になった労働がどれだけあるのか、もっと深刻に考えた方がいい。

単純に考えれば綿花栽培、縫製、輸送、梱包などが無駄になっているがそれだけではない。綿花栽培には肥料も農薬も使用されただろう。耕運機に使用されたガソリンを精製した人もいれば、スプリンクラーのメンテナンスに使用されるネジにメッキをかけた人もいるだろう。それに付随してサプライチェーンのあちこちで膨大な会計処理が行われたことだろう。芋づる式に膨大な労働が無駄になっているのだ。

半分が売れ残るというデータはソースが示されていませんが、服に限らず多くの商品が売れ残り、捨てられていることは事実でしょう。

この点を「資源が無駄になった」と「環境問題」として捉える議論はよく見かけますが、「労働が無駄になった」と「労働問題」として捉える議論は目新しく感じます。

そして、これらは消費者の責任として捉えられるケースが多い(食べ残しをしないようにしましょうねー!と説教されるのが常)ですが、ホモ・ネーモさんは企業の競争という側面から説明しようとしていて、その点は注目すべき観点かもしれません。

続けてホモ・ネーモさんは過剰生産は広告などの生み出されることを指摘します。

「需要が予測できないから仕方がない」という反論には意味がない。需要は予測できる。人が食べる食事量や、人が着る服の量は大して変わらないのだから。ただ、売り上げを倍増させるために広告キャンペーンを行ないつつ、希望的観測で膨れ上がった需要は予測通りにはいかないという話なのだ。

広告キャンペーンをやめて、売り上げを倍増させようとするのをやめた方がいいことは明らかだろう。

売れ残りが生じるケースの多くは「機会損失を防ぐために多めに予想して作られるため」です。ホモ・ネーモさんは、その予想される機会というのが「希望的観測で膨れ上がった需要」であり、その希望的観測が「売上を倍増させるための広告キャンペーン」によって引き起こされていると主張します。

これは鶏が先か、卵が先か、という問題でしょう。

商品を売るために需要が作られている(そしてときどき失敗して膨大な売れ残りを生み出す)側面もありますが、需要があるから商品が作られているとう側面も無視できません。それに、需要が元々あったのか、意図的に生み出されたのかの境界は常に曖昧です。その需要が広告によって生み出されたものであろうと、「昨日私が買った新商品『焼タラコおにぎり』への欲望は生み出されない方がよかった」などと人々が感じることはないでしょう。

結果的に人が求めて購入する可能性があるのなら、生産されることを否定すべきではない、と私は考えます。

もちろん商品のロスを減らさなくていいと言いたいわけではありません。ただ、これは一概に企業の競争(や労働)の責任とは言えないでしょう。消費者がクローゼットにパンパンに服を詰め込んでいることは、消費者にも責任はあります。


■環境問題への批判への批判

4つ目の根拠は、過剰生産によって引き起こされる環境問題です。

環境問題についても同様の結論が導き出される。無意味に服を作って広告キャンペーンを展開するといった労働をやめることが、大気中のco2削減の最短ルートである。

環境問題は、僕たちがマイ箸を持ち歩くことで解決されることはない。マイ箸を持ち歩いたところで、割り箸メーカーは割り箸を作り続けるだろう。そうしなけば倒産するのだから。

つまり、労働が環境破壊の原因であり、消費はその結果に過ぎない。労働をやめれば環境問題はおそらく解決する。

確かに競争が過剰生産を引き起こし、それによって環境問題が加速している側面は否めないでしょう。しかし、競争を全く止めることは社会の停滞を意味しますし、それこそ再生可能エネルギーへの投資も止まってしまうのではないでしょうか。

一方で、このマルクス主義的な観点は肝に銘じておいて損はないでしょう。資本が増殖を求めて競争し合うあまり、地球上のありとあらゆる場所が市場に飲み込まれ、結果として環境破壊につながったというのはおそらく事実です。しかし、同時にトイレやワクチン、道路や学校が普及したことも事実。

となると、今求められるのは競争をいい方向に手懐けることではないでしょうか。トイレやワクチンの価格を下げて市場に普及させるために起きた競争はいい競争ですし、太陽光パネルや電気自動車を普及させるための競争も良い競争だと考えられます。競争をコントロールするのは株主でもありますが、究極的には私たちの消費行動や政治です。

ならば日常的な消費や政治参加を通じて、良い競争を促していくことが、私たちにできることではないでしょうか。


■余暇が少ないことへの批判への批判

ホモ・ネーモさんが5つ目に挙げた根拠は、かなり挑発的で興味深いものなので、少し長いですがそのまま引用します。

残念ながらこの社会では人の役に立つことをしていたら、金を稼げない傾向にある。道端でゴミ掃除をしても金を稼げないし、飢えた子どもに食事を与えても金を稼げない。あるいは、労働の無意味さを主張し、人類を救うための有益な文章を書いていても、金にならないのである。

しかし、必要もないウォーターサーバーを売りつけたり、街路樹に無断で除草剤を撒いたり、部下にパワハラLINEを送りつけたり、タワーマンションを転がしたり、無駄な会議で部下たちを退屈の泥沼に沈め込んだりすれば、なぜか金を稼げる。労働とは、往々にしてこのような悪行へと成り下がっている。サラリーマンであれば、自分の会社の悪行を1つや2つどころか、無数に挙げることは容易いだろう。

残念ながら人々は労働に大半の時間を奪われており、退屈に耐えながら無意味な悪行に手を染めなければならない。その結果、有益な行為を行う可能性が高い余暇の時間が失われているのである。

これは社会貢献と金銭の報酬のバランスに関する批判と受け止めた方が良いでしょう。つまり、社会に貢献したからといって報酬を受け取れるわけでもないし、逆に社会に害をなしている人が大金を稼いでいることもある。このことがおかしいというわけです。

この問題に対する私の意見も先ほどと同様です。消費行動や投資、政治によって解決される問題だと考えます。

しかし、ホモ・ネーモさんは労働をやめて余暇を解放することで、人々が社会貢献を始めて、競争が引き起こす問題が解決されていくと主張します。

これは流石に楽観視が過ぎるのではないでしょうか? 余暇を増やして人生を有意義なものにすべきであることは同意するものの、だからといって人々が即座に子ども食堂をはじめたり、ゴミ拾いのボランティアを始めたりはしないことは明らかでしょう。

それに、これまでのホモ・ネーモさんの態度に一貫していますが、労働によって得られる良い影響を全く無視しています。労働によってワクチンが作らなくなったとして、人々の余暇の活動で疾病予防ができるとでも言うのでしょうか?


■閑話休題

6つ目の根拠は省略します(それは「労働は楽しくない」というものであって、確かにそうなのですが、「とはいえある程度は仕方ない」としかコメントしようがないからです)。

さて、途中段階ですが、一旦議論を総括してみたいと思います。

いまのところ、労働への批判というよりは、「企業活動をどのように組織化すべきか?」という話題のように感じます。

ここまで挙げられてきた問題点は、業務を効率化することでブルシット・ジョブを無くし、過剰競争や過剰生産を抑制することで解決可能です。つまりITの活用、企業組織のスリム化、広告や環境負荷に対する規制強化や課税といった方法が必要であるという結論は導き出せますが、「労働が悪」「競争が悪」という結論はあまりにもそれらのメリットを無視しているように感じます。

また、非効率な組織はいずれ市場によって淘汰されることが予想されますし、過剰な広告コストもいずれ淘汰されていくでしょう。環境問題も同様で、消費者は環境負荷の大きい大量生産品よりも、環境負荷の少ない商品を好む傾向に向かっています(そのようなライフスタイルへの転換を促すのもホモ・ネーモさんが毛嫌いする広告やマーケティングの役割だと言えるでしょう)。

つまり、これからいい方向に競争が進んでいくことによって、ホモ・ネーモさんの指摘する問題は解決されていくと考えられます。

とは言え、市場原理主義、競争原理主義的な立場にも注意しなければなりません。ホモ・ネーモさんが言う通り、市場や競争が様々な問題を引き起こしてきたことは事実です。なんのコントロールもなく自然に任せていれば全てが解決するということはあり得ないでしょう。だからこそ、どのようにコントロールすべきかを、議論し続けるべきだと私は考えます。


■働き方やモチベーションに関する話題

と、ここまで批判を繰り広げてきましたが、まだまだ中盤戦。この先にはかなり労働に関する哲学的な議論が展開されていて、「なるほど…」と頷かされる指摘も多くありました。

例えば「ニートは役に立つことそのものを拒否しているわけではなく、命令されることや無意味な作業を拒否している」という指摘です。

他者の命令ではない形であるなら、その作業は苦痛ではない。いちご狩りに行きたければ半年も前から予約しなければならないにもかかわらず、いちご農家に就職する若者が極端に少ない理由はこれである。

ニートは誰かの役に立つことを嫌がっているのではなく、誰かに命令されることや、無意味なことをしなければならないことを嫌がっている。ニートは決して意味のある貢献をすることを拒否しているわけではない。

そして人には本来的に人に貢献したいという欲望が存在すると主張します。

そろそろ認めるべきだろう。人は誰かに貢献したいという欲望を持っていると。それは食欲や睡眠欲や性欲などと同列か、あるいは場合によってはそれ以上の欲望なのである。

これ自体は私も同意見です。トップダウン型の命令系統では、的外れな命令で部下のモチベーションが下がり生産性が下がるだけではなく、ビッグモーターのような組織的犯罪に発展する恐れすらあります。そういう硬直化した軍隊式の組織の中で馴染めない人がいるからと言って、彼らが直ちに怠惰と決めつけられるわけではないでしょう。

そうではなく、1人ひとりが重要な使命を胸に、自発的に行動できる方がモチベーションも生産性も高まる。おっしゃる通りでしょう。

順当に考えればこの議論は、会社組織のトップダウン形態を見直して、より人々が輝けるボトムアップ型の組織形態(例えばティール組織のような)を採用すべきという結論に到達すると考えられます。あるいは教育改革という解決策を導き出す人もいるでしょう。

ところがホモ・ネーモさんはここから、「労働を無くすべき」という結論に直ちに飛躍しています。

想像してみよう。1億総ニートの社会を。

1億人の365日が余暇であるなら、みんなでワイワイ盛り上がりながら家を建てたり、道路を整備したり、畑を耕したりするだろう。

恐らくホモ・ネーモさんは、一般的な広義の「価値を生み出す」という意味ではなく「賃労働」や「嫌々取り組む労働」といった意味合いで労働を捉えています。そのため、金銭の授受を伴わず自発的に家を建てるような行為は労働には含まれないのでしょう。そして彼は、そのような金銭を伴わない相互扶助の経済を理想としていることが伺えます。

理想論として掲げることは悪くないものの、貨幣や市場を発展させなかった縄文人のような人々がコンピューターも飛行機も発明することなく、高い幼児死亡率を甘んじて受け入れていたことは指摘すべきでしょう。

それに、すでに80億の人口を抱えてしまった以上、多数の人々を動員する賃労働によって規模の経済を働かせることなしに、今の人口を維持することは難しいのではないでしょうか。

10万年前であれば階層のない小さなグループで手当たり次第、資源を使って生きていても問題はありませんでした。しかし、現代においてそれは不可能です。効率的な農業。輸送。工業。サービス。ケア。これらを無くして人類が生き延びることはできません。そして、それらを可能にしたのは資本であり市場であり賃労働です。


■結論

もちろん、奴隷労働や子どもを1日に14時間も働かせるようなことは非難すべきでしょう。しかし、私たちは少しずつ社会を変えてきました。今では、大規模な搾取ではなく自由に能力を発揮することで対価を得ることができる(比較的)公正な社会を実現してきました。今の社会が完璧であると言いたいわけではありません。教育にアクセスにできない人。貧困から抜け出せない人。悪質な労働環境。トップダウンで非効率なマネジメント。そのような解決すべき問題は無数にあります。それでも、着実に進歩していることは間違いありません。

次に私たちが取り組むべきは、労働や市場、競争をいかに理想的な形で組織化し、人々がモチベーションを持って働き、充実した余暇を過ごし、豊かな自然を守ることではないでしょうか?

労働を否定することは、これまでの人類の進歩や努力を否定することをも意味します。ホモ・ネーモさんはこれまで述べたような理由で労働を悪と呼び、ナチスと呼びますが、あまりにも一面的な捉え方だと言わざるを得ません。繰り返しますが、労働や市場、競争にはデメリットを補って余りあるメリットが多くあります。それを完全に否定する立場には、私は同意できません。

一方で、労働や市場、競争を無批判に神聖視する風潮があることも事実。適切にデメリットを見極めながらコントロールする必要性が忘れ去られ、宗教的原理主義に陥るくらいならば、彼のように真逆の立場の原理主義によって、イデオロギー的に中立なところまでゆり戻しをかけるのは悪くないかもしれません。

彼の思想は挑発的であり、過激です。しかし、完全に却下すべき思想というわけでもなく、一抹の真理は含まれているでしょう。様々な立場、意見を見聞きし、議論して、最適な選択へと向かうためには、彼のような存在は必要なのかもしれません。少なくとも、彼のような過激な思想を遠慮することなく後悔できるインターネット環境(もちろん、労働によって維持されています)は、捨てたものではないでしょう。




なんだか自分が統合失調症になったような不思議な気分になる。特に自分がどんなイデオロギーの人間かを設定して書き始めたわけではないのだが、気づいたときには善意溢れるリベラルになっていた。これが分裂生成ってやつか。

ただ、僕と善意溢れるリベラルとの見解の相違点が明らかになった。それは、人間をどこまで信用するか?という点だ。

善意溢れるリベラルは一見すると人間の可能性を信じているわけだが、金銭の獲得競争による動機づけがなければ人は偉大なことなど成し遂げないという前提を持っている。

そのことは縄文人がコンピューターを発明しなかったことから明らかだというわけだ。

その点に関しては一理ある。だが一方で、縄文人も様々なイノベーションを起こしてきたことは間違いなく、単にコンピューターや蒸気機関が生まれなかったのは、そのようなものに興味がなかったからではないだろうか。つまり、生産性高めたり、情報処理を行う必要性を、彼らが感じていなかったのだ。

だが、仮に縄文人がイノベーションを起こさなかったとして、現代に生きる僕たちが縄文人と同じように社会を組織化できない理由にはならない。その理論で言うならば、奴隷制のない社会がイノベーションなど起こせないと18世紀あたりで誰かが言っていたならその通りということになってしまう。奴隷制の土台の上で僕たちの文明が成り立っているように、労働の土台の上でもっと自由な文明が成り立ってもおかしくない。

そして、そのために必要なのが、労働や怠惰、自由、欲望といった価値観の転換とベーシック・インカムなのだ。

うん、やっぱり書いてよかった。

こういう文章を書くことは自分の意見を整理することにもなるし、自分が反対意見を知らないわけではないことのアピールにもなる。

オススメだ。統合失調症のような気分になるが、オススメだ。

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久保一真【まとも書房代表/哲学者】
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!