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旅行なんか、やめてしまえ【雑記】

観光客で溢れかえった名所でパシャリと写真を撮り、「私は写真を撮りに来ただけではありませんよ。きちんとこの観光名所の見どころを肉眼に焼き付けて堪能するために来たのですよ」という印象を周囲に与えるために必要最低限の時間、そこに滞在することが、多くの人の旅行の目的である。

人は、金のために労働まみれの平日を我慢してきた。だからこそ、金を払って週末に楽しまなければならないという強迫観念を感じている。しかし、なにを楽しめばいいのか? 観光地は誰もが認める金を払うべき対象であり、「楽しんだ」というお墨付きを文句なしで受け取ることができる場所である。それに飛びつかずにいることはむずかしい。

だからこそ、人は観光地でチェーン店に入るのを避けようとする。その旅行を「ならでは」で埋め尽くさなければ、「楽しんだ」というスタンプを押してもらえないからである。

そして観光地の側はこう言う。「このグルメは、この土地ならではのものですよ! これこそが高い金を払って味わうべきグルメなのですよ!」と。その土地とはなんのゆかりもないグローバルサウスから輸入された材料で作られた人工的な名産品は、そうやって「ならでは」の仮面をかぶる(東京バナナが東京の名を冠する理由はいったいなんなのか?)。そうした大義名分がなければ、人々は観光地で消費する意味を見出すことができないからだ。お祭りのとき、コンビニの店員が路上でフランクフルトを売り始めても誰も見向きもしない一方、倍以上の値段がする露店のフランクフルトには人々が殺到するのも同じ現象である。味なんてほとんど変わらないし、コンビニのフランクフルトの方が安い。それでも高い金を払って屋台で買わなければ「お祭りならではの食事を楽しんだ」というスタンプを押してもらえないのだ。

「ならでは」とは金を払わなければ手に入らない。逆に言えば、金を払わないなら、それは「ならでは」ではなく、価値のないものであると人は判断する。そのため、人は金を払うことを欲する。大阪人が通天閣に上ったことがないのに東京タワーをありがたがり、東京人が東京タワーに上ったことがないのに通天閣をありがたがるのは、理由がないわけではない。「俺はこんなに交通費を払った。それだけの効用を手にしているに違いない」という思い込みを手にしたくて仕方がないのだ。

果たしてそんなことをする意味があるのか? いや、やりたければやればいいのである。効率的に消費するというタイムアタックを楽しみたければ、楽しめばいいのである。だが、僕はそんな旅行はしたくない。僕は金を払うことが効用の唯一の証明ではないことを知っている。金を払わずとも、家の周りにも素晴らしい景観があふれていることを知っているし、自らの足で歩き、自らの手でなにかをつくること自体に価値があることを知っている。もちろん、旅先の土地には、その土地の魅力や、その土地の人の魅力があることも知っている。知らない土地を歩くワクワク感も知っている。

僕は観光地が押し付けてくる消費のマナーに則ったお行儀のいい旅行はしたくない。旅行なんてやめてしまえ。僕は旅をしたいのである。


#私のこだわり旅

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