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実りの秋は、苦行の季節か?

畑を借りている農家のお宅に生えている柿の収穫を手伝った。半分は甘柿で、半分は渋柿。甘柿はそのまま食べ、渋柿は干し柿にする予定だ。

世界の農民たちが年がら年中祭りをやっていた気持ちも理解できる。収穫はさながら祭りである。「もうすぐ収穫だね」なんて話をしながら収穫の日を待ち侘びて、当日になれば子どもたちと一緒になって、柿の木からチョキチョキとみのりをもぎ取っていく。ちなみに「やったー、とれたー!」とバケツいっぱいになった柿をみて喜ぶ僕の息子は、柿が嫌いだ。収穫しても食べることはない。それでも「柿の収穫、くる?」と聞いたら即答で「行く」と答えた。

このこと自体が、僕たちの人間観や、経済・労働にまつわる思い込みと、真っ向から矛盾している。僕たちは利己的で怠惰であるにもかかわらず、その悪魔の心を理性によってなんとか抑制することで、ニコニコと人と接したり、労働したりしているということになっている。だとするなら、3歳の息子はなんとうまく仮面を被っていることか。自分が食べるわけでもない柿の収穫に喜んで(いや、喜んだふりをして)参加するのだ。きっと、本当は行きたくないにもかかわらず、周囲の人々に良い印象を与えることで、後々のクリスマスプレゼントやお年玉の増額を狙っているのだろう。

というのはもちろん冗談である。息子はやりたいことをやっているだけであることは、誰でもわかる。きっと収穫が楽しいと思って、息子は参加したのだ。

しかし、収穫が楽しいことは実のところ自明な事実でもなんでもない。「江戸時代の農民や狩猟採集民は、1日に○日だけ労働していました」といったような言説はよく目にする。それをみて、僕たちは「ふーん、労働が短くて羨ましいなぁ」なのか「意外と労働時間長いなぁ」なのか様々な印象を抱く。しかし、そのどちらの意見も労働=苦行という前提の上に立っている。

みんなで協力して何かを成し遂げることは楽しいと、誰もが知っている。今年は田植えもやったし、芋掘りもやった。そのどれも楽しかった。米となると水や雑草の管理という避け難い作業が発生するものの、歯を磨くようなものだと思えばさほど苦行とも感じないのではないだろうか。

実際、江戸時代の農民が楽しそうにしていたことは、よく知られている。

一方で僕たちは労働が楽しくないことを知っている。つまり、僕たちが社会を組織化する方法の何かが間違っているのである。

何がどう間違っているのか、詳しい話を書き始めるとキリがない。その辺りは僕の本を読んでもらえると良いと思う。

ともかく僕は、やっぱり自分が考えていることが間違っていないと、実りの秋に再確認した。

生きることは楽しいことだし、育てることも、収穫することも、料理することも、食べることも楽しい(息子にとって食べることより収穫の方が楽しいようだったが)。

人生ぜんぶが楽しい。誰もがそう思える世界になればいいのにね。

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久保一真【まとも書房代表/哲学者】
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