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動物園をなくしてほしい【雑記】

「食わせてやってるんだからいいだろう? 自然界は厳しいぞ? ここでぬくぬくと暮らせばエサを取りに行く必要もないし、他の動物に食べられる心配もない。悪いことは言わん。お前はここで暮らすのが幸せなんや・・・」

動物園にはこうしたパターナリズムを感じてしまうから、僕は好きになれない。これは、人間による権力の押しつけであり、強制であり、虐待であると僕は思う。仮に、栄養価のあるエサを与えられ、身体的に保護され、ワクチンを打たれ、適度な気晴らしが与えられているのだとしても、それはほんのわずかな慰めでしかない。

もし、その生活が動物たちにとって最高の環境だとすれば、動物園の檻を解放しても、動物たちは動物園の環境に居座り続けるはずだ。そんなことを言えば動物園側もこう反論するだろう。「彼らは外で生きていく力はなく、檻を解放された途端に路頭に迷い死んでしまうだろう。だからここで暮らすのが幸福なのだ」と。だが、そもそも力を奪ったのは閉じ込めた側なのである。誘拐してきた少女の脚をへし折ってから、「ほら、あなたは動けないのだから、ここで暮らすのが幸せなのですよ? 食事も用意します。さぁ私に感謝しなさい」と言う男が無罪になることがないのと同じように、動物たちを閉じ込める行為は正当化できないと僕は思う。

ライオンやアザラシを狭い部屋の中に閉じ込めて、鑑賞しながら過ごすことができるコテージが「可哀想だ!」「もっと広い場所を与えるべきだ!」とプチ炎上していた。僕はそれをを見ても、まったく共感できなかった。

僕からすれば「レイプするときはちゃんとコンドームをつけるべきだ!」と批判されているように見えるのだ。僕はレイプをやめてほしいと思う。正直、見ていて辛いし、そんな施設が社会に存在しているのだと思うだけでも辛いのである。

なんとか動物たちに快適な空間を提供しようとする飼育員の努力やプロ意識が存在することは確かだろう。だが、あえて露悪的な言い方をすれば、きちんと濡れるまで前戯するのだとしても、レイプを正当化することはできないと僕は思う。

なるほど、「動物の幸福かなんてわかりっこないのだから、『かわいそう』はエゴ」といった批判もあり得るだろう。もしその理屈が通用するなら、殴ったり蹴ったりしても幸福かもしれない可能性が存在するため、かわいそうではないということになる。そんなはずはない。

というか、そうまでしてなぜ動物園を正当化したいのだろうか? いや、僕だって動物園には何度も行ったことはあるし、楽しい経験をしたこともある。動物愛護団体になんとなくカルト味を感じる気持ちもわかる。だが、それでもやっぱりなくなって欲しいなぁと思う。

動物をみるなら大自然のなかで駆け回っている動物がいい。


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久保一真【まとも書房代表/哲学者】
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