欲望論(暫定版)
欲望というテーマは、とんでもなく重要だと思う。
世間一般に流布する、人間が何を欲望するかについての説明は根本的に間違っていて、それが人間を悲惨な目に陥れていると、僕は感じているからだ。
人は叙々苑で焼肉を食って、モデルとセックスして、シモンズのベッドで寝て、サイバーパンク2077をプレイして、ランボルギーニを乗り回していれば満足するかのように想定されている。
その前提を覆し、欲望の理論を更新することができたなら、人間の人生はもっと輝くと僕は考えている。
そのことを説明するために、まずは世間一般に流布する欲望に関する理論がどのようなものなのかを分析したい。
そして、通俗的な欲望理論がなぜ誤っているのか? なぜ誤った理論が成立しているのか? なぜその犯人が金なのか? 金が覆い隠している人間の欲望はなにか? といったテーマまで考察していく。
書いているうちに長くなった。書きながら考えをまとめたのでやや蛇行している。考えはかなりまとまって、欲望に関しての僕の意見の暫定的な決定版となった(それを決定版と呼んでいいのか?という指摘は無視する)。
ともかく、暫定的に発表することとしよう。
■一般的に欲望と認められているもの
宗教はおおむね人間の欲についてあれこれ思索を巡らせるものだが、仏教ほど欲望について考え抜いた宗教はないだろう。仏教は、終わりのない欲望に絶望し、欲望をコントロールし、押さえ込み、逃れることでしか、苦しみから逃れられないと問く。
では、仏教が考える欲望は、どのような種類があるのだろうか? それは五欲と呼ばれ、5つに分類されている。
食欲
財欲
色欲
名誉欲
睡眠欲
字面を見てもらえば、特に解説する必要はないだろう。そして、おおむね人々が漠然と抱いている欲望のイメージも、だいたいこのようなものだろう。
人は概ねこれらのために生きていると感じているし、これらを手に入れるために労働で金を稼いでいる。
ただし、これ以外にも、世間一般に欲望と認められているものは存在する。それは、娯楽を求める欲望である。ストレンジャーシングスを1日中観ていたいとか、サイバーパンク2077をプレイしたいとか、King Gnuの最新曲を聴きたいとか、そういう欲望は五欲には当てはまらないように思われる。
6.娯楽欲
と、ひとまず追加しておいて差し支えないだろう(ギャンブルや酒、タバコもここに入れていいだろうか)。
さて、この五欲(六欲)であるが、裏を返せばこの5つ(6つ)の欲望以外は人間は欲望することがないという前提や、この5つ(6つ)の欲望を満たしておけば人間は満足するという前提が存在することがわかる。
なるほど、人はもっと高貴な目的のために生きていると感じる人もいるだろう。家族との穏やかな時間や、やりがいある仕事、ボランティア活動、noteの執筆などである。しかし、それらに「欲望」という言葉が使われることはほとんどない。
なぜだろうか?
■明らかに存在する他の欲望
人間が何らかの対象や行為を強く求めることを欲望と呼ぶのなら、明らかに欲望と呼んで差し支えないものが他にもいくつか存在するように思われる。
1.何かしたい欲
例えば、パン屋に行ったときのことを思い出して欲しい。あなたはトングを手に取った途端に、それをカチカチと鳴らしたいという衝動に駆られることになる。仮に「絶対にカチカチと鳴らすな」と言われれば、身を切るような苦痛に苛まれるに違いない。
これは欲望と呼んで差し支えないはずだ。しかし、六欲のどれにも当てはまらないことは明らかだろう。
同じく、意味もなくぶらぶらと散歩することや、ひたすらリンゴの皮をむいていること、千羽鶴を折り続けることも、ときに人は欲望する。
パスカルは人間のことを部屋にこもってじっとしていられない生き物だと言った。裏を返せば、無意味でも何かをやっていたいという欲望を持っているということだ。
なるほど、仏教にとって欲望とはそれが行き過ぎれば害を及ぼすからこそ欲望の名に値するのであり、これらの行為は別に害を及ぼさないがゆえに欲望ではないと見る向きもあるだろう。だが、千羽鶴を折り続けることは明らかに迷惑であることから、この反論は意味がないことがわかる。
また、これらを名誉欲に紐づけて考える向きもあるだろう。「ふん、所詮はリンゴの皮剥きを続けることで名声を高めたいのだろう?」というわけだ。しかしこれも少し考えれば誤りであることがわかる。なぜなら、仮に五億年ボタンを押して孤独な暗闇に閉じ込められていたとしても、そこにポツンとトングが置いてあったならあなたはカチカチせずにはいられないからだ。
つまり、人はとりあえず何か行為したいという欲望を持っていることは間違いない。
2.他者に貢献したい欲
BUMP OF CHICKENに『透明飛行船』というストーリー仕立ての楽曲がある。
小学生と思わしきこの曲の主人公は、曲の冒頭で鉄棒から落ちるのだが、その後に、僕たちにとっても見覚えのある次のような描写がある。
これを偽善であるとか、自分の名誉欲のためにやっていると断ずるのは容易い。だが、果たして本当にそうだろうか?
あらゆる貢献が名誉欲のためであるとするならば、匿名で寄付をする人や、誰も見ていないところで鳩に餌をやるオッサン、2度と会うことのないお年寄りに席を譲る人が存在することに説明がつかない。
人は貢献することそのものを欲望していると考えるべきではないだろうか?
あれこれと世話を焼きたがる老人は、どこにでもいる。彼ら彼女らはどう見ても心の底から貢献することを渇望している。
3.極めたい欲
例えば、ペン回しの技を練習したり、白熱電球を発明したり、延々と小説を書いたりするような行為を焚き付ける欲望である。
これらも名誉欲と紐づけて考える向きもあるだろうが、その成果をほとんど公表しなかった科学者のキャベンディッシュや、誰にも知られることなく60年間小説を書き続けたヘンリー・ダーガーのような人物を説明することができない。
いや、本当のところを言えば説明すること自体はできる。しかし、ひどくぎこちない説明にならざるを得ないのだ。
■欲望が存在することに対する進化心理学の説明
六欲と、六欲に収まらない謎の欲望がなぜ存在するかを説明するのに最も説得力のある方法は、進化心理学を持ち出してくることだろう。
つまり、遺伝子の拡散という目的(いや、それは目的のように意志を持ったプロセスではないのだが)に貢献する行為にドーパミンやエンドルフィンといった快楽物質で報酬を与えられた結果、人間はその行為を欲望している、というわけだ。
この観点から六欲を見てみよう。例えば色欲は生殖行為そのものを渇望する欲望であるため、直接的に遺伝子拡散に貢献する。食欲や睡眠欲は生命を維持することで少しでも生殖のチャンスを増やしてくれる。財欲や名誉欲は、他者よりも優れていることを証明することで生殖チャンスを増やす。
娯楽欲だけ回りくどい説明が必要になるが、説明は可能である。例えばゲームをなぜ欲するのかを説明するなら、なんらかの目的を達成するとドーパミンやらエンドルフィンのような物質が分泌されるからであり、それは遺伝子拡散のために狩猟に没頭するように人間が餌付けされているから、ということになる(ゲームをしても遺伝子の拡散につながらないことは明らかだが、それは脳が勘違いを起こしているから、というわけだ)。あるいは、King Gnuの新曲をチェックしたいと思うのは、崖の向こうのサバンナの状態をチェックしたいという知識欲が生存と遺伝子拡散に役立つという方程式を、脳が杓子定規に当てはめた結果、ということになる。
ここまではまだ無理のない説明だと感じるだろう。
では、「何かしたい欲」や「他者に貢献したい欲」はどのように説明できるのか?
簡単である。まず何かしたい欲は、なんらかの探索行為や実験行為によって知識やスキルを高め生存確率を高めることにつながると解釈できる。トングをカチカチする行為は明らかに生存確率を高めることにはつながらないが、それは遺伝子がそこまで判別できないが故のドーパミンの誤作動なのだ(明らかに二郎系ラーメンを毎日食べることは健康に悪いのに、飢餓を恐れてそれを渇望するのと同じである)。
同様に匿名の寄付や鳩に餌をやる行為も、名誉欲を高めて生殖機会を増やすというアルゴリズムの誤作動と説明できる。
キャベンディッシュも、ヘンリー・ダーガーも同様である。誤作動で説明がつく。
進化心理学によれば、あらゆる偉大な科学も、文学も、音楽も、すべては誤作動だ。アインシュタインは相対性理論なんて考えている暇があればストリートナンパしまくるべきだったのだ。
そんなふうに考えることは明らかに馬鹿馬鹿しいわけだが、まぁ筋は通っている。
■一般的な欲望理論と進化心理学の矛盾
ここまで来るとかなり宗教原理主義的な立場になってくるが、一旦は進化心理学の主張を受け入れるとしよう。すると何が起きるのかを冷静に考えたい。
「誰かに貢献したい欲望?そんなものは存在しないよ。それは自分の名誉を高めて生殖可能性、あるいは巡り巡って自分の子孫の生殖可能性を高めることを志しているだけなのさ。すべては利己的な遺伝子の仕業だよ」というシニカルなインテリの主張が正しいのだとしよう。
すると進化心理学は原理上、食欲や性欲、名誉欲も否定することになる。
「食欲?そんなものは存在しないよ。それは自分の生存可能性を高めて生殖可能性、あるいは巡り巡って自分の子孫の生殖可能性を高めることを志しているだけなのさ。すべては利己的な遺伝子の仕業だよ」というわけだ。
もちろん、こんなことを主張する人はいない。人間は明らかに食欲を持っているのだから。
しかし、このように考えていけば、六欲とそれ以外には、明確な境界線など無さそうに見える。なぜ、両者は区別されているどころか、後者は欲望とすらみなされないのだろうか?
■なぜ、六欲以外は欲望とみなされないのか?
なぜ、二郎系ラーメンを食べたい心理やヴィトンの財布が欲しいという心理は欲望であり、トングをカチカチしたい心理や老人に席を譲りたい心理は欲望ではないのか?
現段階で考えられる仮説は、望ましくない欲望は欲望と呼ばれ、望ましい欲望あるいは無害な欲望は欲望と呼ばれないというものだ。
果てしない食欲は体を壊すだけではなく共同体の食糧を枯渇させるし、四六時中セックスする男はトラブルの種だし、強欲な高利貸しは人々を破滅させる。
一方で、トングをカチカチし続けようが、趣味の時間で小説を書き続けようが、有益ではなくともそこまで害はない。他者へ貢献しようとすることや相対性理論を発見することは、基本的に有益であるとみなされる。
細かい例外はあるが、ある程度の説得力はある。
しかし、ここまで考えて次なる疑問が生まれてくる。
人間は有益なことを望まず、無益なことばかりを望むかのようにみなされている。明らかに人は有益なことも望んでいるにもかかわらず、である。
なぜなのだろうか?
■金が、人々の欲望を限定した?
いくつか説明は考えられるが、1つに絞って説明していきたい。金という要因である。
金とは、欲望を満たされる側と、欲望を満たす側を明確に切り分ける概念装置でもある。
金を払う側は相手に欲望を満たしてもらい、金を受け取る側はそのために奉仕するだけ、という関係を人々は金をやりとりするときに思い浮かべずにはいられない。
つまり、金でやりとりするという行為自体が、欲望に上下関係を作るだけではなく、片側の欲望を否定する。
しかし、子どもはお買い物ごっこと、店員さんごっこを区別することはない。買い物もレジ打ちも子どもにとって欲望の対象なのである(金がどのようなものかよくわかっていない息子は、店員さんごっこをしながら客に金を配っている)。
となると、次なる疑問が生まれてくる。買い物もレジ打ちも欲望の対象なのであれば、なぜ人は金を発明する必要があったのか?
なぜ片側の欲望の存在を否定し、片側だけ存在するかのように考えるようになったのか?
■強制が、金を生んだ?
自発的な貢献と、他者を強制的に貢献させることの間には高い壁がある。
自発的な貢献は欲望の対象であり人はそれを渇望するが、他者が欲望していない行為を強制的に行わせることは難しい。
他者を強制するには暴力を伴うのが普通である。「おい、俺のち○ぽをしゃぶれ」と通行人に言ったところで無視されるのがオチだが、銃口を突きつければしゃぶってくれる。
しかし、毎回毎回、銃口を突きつけ続けるのは骨が折れる。だから誰かを強制的に働かせるメカニズムが必要になるという問題がある。それだけではなく、誰かを強制的に働かせることは悪いことだとみなされるという問題もある。つまり、道徳的なプロジェクトとして粉飾する必要がある。
その両方の問題をクリアしたのが負債。つまり金である。
デヴィッド・グレーバーが言うように、暴力に基礎付けられた強制関係をモラルで粉飾し、永続化させるには、負債関係を思い描かせるのがいい。つまり「俺は相手に負い目(負債)があるのだから、言うことを聞くのは仕方ないよな…」と思わせるのが効率的なのだ。
それを効率的に稼働させるには、負い目(負債)の度合いを数値化する必要がある。負い目(負債)の度合いを数値化したものが金だ。
まとめると金とは、相手が欲望していない仕方で相手を働かせたいという欲望から誕生したと考えられる。金というシステムは、はじめから金を受け取る側の欲望を考慮しないのである。
■能動的な欲望は、欲望とは見なされない?
となると、次なる疑問が生まれてくる。なぜ「おい、俺のちんぽをしゃぶれ」と金を渡してくるある男は想像できても、「おい、俺にトングをカチカチさせろ」と金を渡してくる男は想像できないのか?
答えは明らかである。前者は突きつけられた側がなんらかの行動を起こす必要があるが、後者の場合「うん、好きにすれば?」で済むのである。
「何かしたい欲」も「他者に貢献したい欲」も「極めたい欲」も同様である。基本的には、好きにすればいいのである。
一方で、二郎系ラーメンを食べたいとき、Gカップの風俗嬢とSMプレイがしたいとき、ポール・スミスのスーツを着たいときなど、六欲を満たしたいときは、他者を動員する必要がある(睡眠欲だけうまく定義に収まらないが、これは例外として考えていいと思う)。
遠回りをしてきたが、これが欲望とみなされるものと、欲望とみなされないものの有力な区別方法かもしれない。つまり、他者を動員する必要性がある欲望が「欲望」とみなされる。
もっともこの定義も万能ではない。「バンドやろうぜ!」は他者を動員する必要があるが、欲望とはみなされにくい。ならば、自分を動員する必要がある欲望は欲望とみなされないという逆説的な定義の方がいいのかもしれない。
■金と強制が諸悪の根源?
さて、金によって他者に強制的に動員させられることによって、本来、それを自分で欲望する可能性があったにもかかわらず、欲望する可能性を絶たれてしまう。そして、それは欲望ではないとみなされるようになってしまった。なぜなら、強制とはその定義上、望まない行為を行わせることを意味するからである。
強制されることがなければ、レジ打ちをすることは、買い物することと同じような欲望の対象である。にもかかわらず、あたかもレジ打ちそのものが欲望の対象になり得ないかのような錯覚が誕生した。
だから六欲以外の欲望には「欲望」という言葉が使われないのだ。
金と強制が諸悪の根源であると感じるのは、僕だけだろうか?
人は本来、有益なことも欲望する。しかし、金と強制によって、あたかもそれを欲望しないかのように見なされてしまった。
ならば、欲望をもっとうまく組織化すれば、金と強制は必要ないのではないだろうか? つまり、労働は必要ないのではないだろうか?
■欲求と欲望を区別しない
さて、ここまで僕は欲求と欲望という言葉をごちゃ混ぜに使ってきた。それに対して、苛立っているインターネットポリスも多いだろう。
だが、私人逮捕には及ばない。僕には情状酌量の余地がある。
僕は欲求と欲望という言葉を区別する必要がなく、全て欲望と呼ぶべきであると考えている。
一般的に欲求は生きていくのに必要な生理的なものであり、欲望はそうではないとみなされる。つまり、パンを食べたいのは欲求であり、北新地で豪遊したいのは欲望というわけだ。
この両者の境界線は曖昧である。パンではなく麦粥でもいいはずなのに、わざわざパンにしている以上、それは必ずしも生きていくのに必要だとは言えない。逆に北新地に行っても飯は食う。
あるいはレヴィナスの定義を好む人もいるかもしれない。欲求は限りがあり、欲望には限りがないというわけだ。これも正直、怪しい。
なぜなら食欲にも小休止はあっても終わりはないからである。逆にヴィトンのバッグが欲しいという欲望にも小休止はある。さすがにレジで購入し終えた途端に他のバッグが欲しくなるような人はいまい。
欲求と欲望という言葉は、あたかも人間には正当な欲と、そうでない欲があるかのように区別する。しかし、それを区別する必要はない。区別したいのは誰かを強制したい人なのだ。
僕は人が欲するものは全て肯定したい。中には人を害する欲望もあるわけだが、それだけで欲望のポートフォリオが埋め尽くされる人はいないのだ。
■欲望のポートフォリオを取り戻せ
ここまでで、人が有益なことも欲望することがわかった。金と強制によってその欲望が不可視化されていることもわかった。
そして、大抵の人はさまざまな欲望を持つ。四六時中セックスする生活は不幸だし、朝から晩まで飯を食うのも疲れる。ゲームに没頭するのもいいけど、たまには森林浴だってしたい。アインシュタインもバイオリンを弾いたわけだ。
おそらく人は無益なことも、有益なことも、そこそこ欲望する。ならば、その欲望をもっとうまく組織化する方法を社会全体は考えるべきである。
人を強制的に働かせることは、基本的に効率が悪い。その人は楽しくないのだから。楽しくないというのは悪いことである。楽しくて、社会が成り立っている方がいいに決まっている。
他者の欲望を強制的に満たす労働の時間は自分の欲望を満たすことができず、余った時間では「欲望」とみなされる欲望を満たすためにソシャゲやディズニーランド、二郎系ラーメンに金を払う。これが僕たちの労働社会である。
ソシャゲやディズニーランド、二郎系ラーメンで満たせる欲望は、膨大な人間の欲望の中のごく一部にすぎない。
もっと多様な欲望を満たしたいのが人間である。仏教は欲望を抑え込むように説いた。しかし逆である。欲望は解放されなければならない。
欲望のポートフォリオは分散されること。それが人間の幸福である。そして、人類社会の幸福も、それと同義なのだろう。
欲望は悪ではない。欲望を解放せよ。