見出し画像

歩くことしか許されない街【雑記】

大阪のサクラダファミリアことウメキタエリアから、ようやくショベルカーが撤収したらしい。あんな一等地になにを作るのかを僕はずっと知らなかったのだけれど、どうやらでっかい芝生の広場ができたとのこと。

さて、これについて人々はどう感じただろうか?

金を払わなければ座ることすら許されなかった資本主義の街 梅田において、私的所有されないコモンズの領域が広がることにより、脱資本主義に向けた偉大なる一歩となる‥左翼界隈の一部からはそんな評価の声もあがっているらしい。

だが、やはりこれはアリバイづくりであり、ガス抜きであると忘れるべきではないだろう。はじめに4畳半の牢獄に閉じ込められたあと「ほら、隣の部屋を遊び場として解放してあげるよ」と許されたのだとしても、僕たちが牢獄に閉じ込められていることには変わりない。これが寛大さであるなんて、どうして言えるだろうか? 

ところが禁止が空気のように当たり前の社会で生きてきた僕たちは、そのことに気づかない。ヴィーガンのスローガンの一つに、「より広い檻ではなく、空っぽの檻を」というものがある。振り返ることすら許されなかった豚に「おめでとう!振り返ることができる檻に移動させてあげるよ!アニマルウェルフェアだね!」と声をかけたところで、なんの気休めにもならないはずである。ところがそれと同じことが、梅田という街で、人間に対して行われている。「ほら、ここでは自由に寝転ぶことを許してあげるよ?」と僕たちは許可を与えられているのだ。

許可とは、禁止の上にしか成り立たない。梅田は金のない者には歩くことしか許されていない街である。座ることも、寝転ぶことも、酒を飲むことも、歌を歌うことも、基本的には禁止されている。

ではなんのための街なのか? 消費することと労働すること、そしてそれに向かって移動するための街である。

僕が「そうだね、ここは消費と労働と移動のためのスペースにしよう」と同意したことは一度もない。僕が生まれたときからずっとそうであったから、僕はそのルールに従って生きてきたのだ。

では、そのことを決定し、僕たちに禁止を押し付けているのは誰なのか? それは金であり、資本であり、資本と結託した行政である。金と資本という檻に、僕たちは生まれたときから放り込まれているのだ。

なぜ僕たちは、許可する側ではなく、される側なのだろうか? あるいはなぜそもそも許可が必要なのだろうか?

なぜ街で遊びまわっていたら労働の邪魔をするから迷惑だと思うのか? なぜ労働をしていたら遊びの邪魔になって迷惑だとは思わないのか?

これは梅田に限った話ではない。どこであろうが街ではそれが当たり前になっている。僕たちの当たり前は、重力のように僕たちを包み込む。でも、重力とは違って当たり前は変えられる。一度疑ってみてもいいのかもしれない。こんな時代なら特に。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!