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日本が100人の村だったなら
100人のうち比較的年寄りの5人が、100人分の食料や木材を生産するために畑を耕し、魚をとり、木を育てて切る仕事をなんとかこなしていました。彼らは老体に鞭を打ちながら頑張って働いているにもかかわらず、お金を少ししかもらえませんでした。
幅広い年齢層の10人が保存食を作ったり、家具や家を作ったり、インフラ整備を担っていました。彼らも頑張って働いていますが、手元に残るお金はほんのわずかです。
また、同じく幅広い年齢層の20人は掃除したり、料理をしたり、人の世話をしたり、乗り物を運転でものや人を運んだりしていました。彼らも同じく頑張って働いても、なけなしの給料しかもらえません。
体力が有り余っている働き盛りの30人は、加工された商品を売り付けるためのキャッチコピーを考えたり、訪問販売したり、パワーポイントを作ったり、他によくわからない書類を書いたりしました。彼らは他の人たちよりもたくさんのお金を手に入れていました。彼らの仕事はたくさんお金がもらえるので、自信満々で「俺は社会の役に立っている」と胸を張っていました。そして他の仕事をしている人たちもその言葉を信じて、「自分もああなりたい」と考え、書類を書く仕事をやりたがりました。
残りの35人は勉強したり、子どもの世話をしたり、のんびり散歩したりしていました。
あれこれと統計をあたってみたが、途中でめんどくさくなったので比率は適当である。だが、さほど的外れではないと思われる。だいたいこんなものだろう。
これをみて「いや、30人の仕事いらんやろwww」という印象を抱かずにいることは難しい。しかし、現実社会においてこの30人に相当する人に向かって「いや、お前らいらんやろwww」とツッコミを入れる人はいない。100人と考えれば僕たちが生きる社会の異常性がよくわかるが、1億人の社会となれば全体像が見えづらくツッコミを入れる人も少ないのだろう。
だが、『ブルシット・ジョブ』という本は、そこにツッコミを入れた。僕はこの本を読んだとき、衝撃を受けた。
もちろん、自分の身の回りに無駄な仕事が存在していることは知っていた。しかしそれは社会というスケールでみたときにはちょっとした誤作動のようなものであって、社会全体としては人々の幸福のために効率的に歯車が回っているはずであるという暗黙の前提を疑っていなかったのだ。『ブルシット・ジョブ』を読むまでは。
しかし、この本を読んで確信した。この社会は全体として非行率で馬鹿馬鹿しいことにまじめな顔で取り組んでいると。正直「嘘だ」と言って欲しかった。あまりにも不条理だと思った。労働で苦しんでいる人たちが苦しむべき理由は全くないのだ。ただ単に「社会全体でクソくだらないことに取り組むべき」というプレッシャーに押しつぶされそうになっているだけなのだ。
僕たちの社会は、科学的で、合理的で、効率的なのではなかったのか? 宗教的な盲信を捨て去った、神が死んだ時代ではなかったのか? そんな疑問が渦を巻いた。
とは言え、僕のようにナイーブになる人はおそらく少ない。「まぁ社会ってそういうもんやろ」とスルーするのが一般的な感覚だろう。しかし僕はその感覚を全く理解できなかった。彼らは子々孫々までこの無益な営みを繰り返す愚かな社会を残すいくつもりなのだろうか? それを肯定しているのだろうか?
おそらくそうだ。人は途方もなく巨大なシステムには疑いを向けることはない。だからこそ、100人の村だと考えれば、その愚かさに気づけるはずだ。そして人々は100人の村だと明らかに愚かであることを認めざるを得ず、一方で1億人なら愚かではない理由を探そうとして、失敗するだろう。その後、その話をなかったものとして忘れ去るのだ。
それでも、100人の村に例える方法はショッキングだと思われる。僕は統計音痴でできなかったので誰かやってくれないだろうか。統計大好きの誰かさん、どこかにいませんかね?
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