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なぜ意識高い系はビッグイシューを買わなくなったのか?【雑記】

思うところがあり淀屋橋の駅前で、ホームレスのおっちゃんからビッグイシューを買った。生まれて初めての経験である。

せっかくの生れてはじめての経験なのだ。いい機会だと思って、気になっていたことをおっちゃんに聞いてみた。「儲かってまっか?」と。

まぁボチボチらしい。とくに最近はビッグイシューが売れないとのことだ。ビッグイシューが日本にやってきた当初は、意識の高いキャリアウーマンみたいな人が買っていたらしい。だがいまは、そうした当時のお客は高齢化し、若い人は買いにこなくなったという。

なんとなくこの話に時代の移り変わりを感じてしまった。

エリートがビッグイシューを読まないようになり、自己啓発本を読むようになったのはいつからなのだろうか? 格差や貧困の問題に悩んでマルクス主義やフェミニズムに傾倒するのではなく、オルカンかS&P500のどちらに投資すべきかを悩むようになったのはいつからなのか?

ここには、社会のデスゲーム化の影響があるように思われる。

富を生産して生きる社会ではなく、富を奪い合うことでしか生き残ることができない社会になりつつあるいま、いまの時代を生きるエリート(気取り)たちはデスゲームに勝ち残るのに必死で、投資に副業にスキルアップに余念がなくなってしまった。

かつての意識高い系はおそらくシステムを批判していた。それが可能だったのは、システムに適応することにさほどコストがかからなかったからではないか? 衣食足りて礼節を知るのだ。システムを批判する運動を繰り広げるためには、まずはシステムに養ってもらう必要がある

しかし現代はシステムに養ってもらう権利が簡単には与えられない。小学校受験し、STEAM教育を受け、有名大学に進学。インターンシップに精を出し、数百倍という倍率を潜り抜け大手企業に就職。入社後も自己啓発本を読み、投資に夢中になる。これだけやっても老後を安心して暮らせるかわからない。そんな状況であるならば、とにかくシステムに養ってもらうためのデスゲームに夢中になることは避けられない。

システムはかつて以上に狂った。狂った結果、意識高い系はシステムに適応することに必死になり、システムを批判する余裕を失った。そして、システムをまるでサッカーのルールのように変更できない所与の規則とみなすようになった。

その結果、受験やマーケティングといった奪い合いのデスゲームで一定の好成績を残すことこそが正義であり、それをしないことはであるという価値観が蔓延してしまった。

レバレッジをかけてFXで億ったFIRE民や生まれながらの地主が道徳的に攻撃されず、生活保護受給者や親のすねを齧るニートが攻撃されるのは、後者がデスゲームのルールに違反しているからである。改めて考えれば、クライアントに媚びを売って金を稼ぐコンサルと、親からお小遣いをもらうニートとの間に大きな隔たりがあるとは思えない。前者が受験や就活といったデスゲームを攻略してきたこと以外に、大きな違いはないのだ。

それでも、エリート(気取り)はこう言い張る。「とにかくデスゲームに参加して、金を稼いでいることこそが正義であり、そのために努力すべきである。現に私は投資にスキルアップに努力しているではないか?」と。

ビッグイシューに対するよくある批判のなかに「雑誌を売る暇があったら、スキルを磨いて、なんでもいいから仕事しろよ」というものがあるらしい。この批判に違和感を抱いたのは僕だけではないだろう。「雑誌を売る」と言うのもれっきとした仕事ではないか? 

ところがちがうらしい。どうやらビッグイシューを売るという行為は、同情を集めて金を集めようとするルール違反行為だとみなされているのだろう。

不思議な価値観である。だとするならば、いつも世間話を聞いてくれる営業マンのノルマのために必要もないのに契約する心優しい老人をたぶらかす営業職がルール違反でないのはなぜなのか?

そして、そもそも怠惰であることがなぜ問題なのか?

どうして僕たちは言い切ることができないのか? その貧困の原因が生まれや環境、運が原因ではなかったとしても、本人の想像を絶するほどの怠惰が原因であったとしても、彼には健康で文化的な生活を営んで欲しいと、どうして僕たちは言えないのだろうか?

そして、僕が話をしたおっちゃんは、どうみても怠惰ではなかった。残暑と呼ぶには過酷すぎる炎天下のなか何時間も立ちっぱなしで、雑誌を片手に道行く人に声をかけている。1部だけ買おうとする僕に対しても発売日のことや、バックナンバーのことまで懇切丁寧に教えてくれた。彼はただの真面目で気さくなおっちゃんであり、スーツを着て歩いているそこら辺のおっちゃんとなにも違わないように見えた。

怠惰であることは、人間にとって一種の苦行である。だから人は自由を与えられればなにかしら行動をはじめようとする(か、はじめ方がわからずに苦悩するのがふつうである)。しかし、デスゲームに参加すること以外が怠惰であるとみなされてしまえば、デスゲームの複雑怪奇なルールを乗り越えられる特殊な人間でなければ怠惰であり、生きる価値ナシとみなされるのだ。

社会は狂った。だから人は狂わなければ社会で生きられなくなった。

ビッグイシューを買うことは、狂った社会で狂わずにいられる自分を手にすることを意味するのかもしれない。

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久保一真【まとも書房代表/哲学者】
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