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実存主義への批判 自由を恐れる人間などいない【アンチワーク哲学】

人間はハサミとはちがう。ハサミは「切る」という本質あるいは意味がもともと付与されたうえでこの世に誕生するが、人間は理由なく生まれ理由なく死ぬ原子の塊にすぎず、その原子すら外の世界と次々に入れ替わっていて、もはや自分とかない。だからこそ人間が生まれてから死ぬまでにやることなすことすべて「だからなに?」「意味あるの?」と一言で一蹴することが可能になる。

ニーチェが「神は死んだ」と言うまで、そうではない時代があったらしい。人間は神の計画に従って誕生し、神の計画のために生きた。そのため、かつての人は「だからなに?」「意味あるの?」と聞かれたとき、「いや、神のためにやってるんだから意味あるに決まってんじゃん?」と自信満々で返答できたそうだ。

ところが現代に生きる僕たちはこう告げられる。「おめでとうございます! あなたを縛り付けていた神は死にました! あなたは晴れて自由の身です! さぁ、あなた自身の人生に、自由に意味づけし、自由に生きてください!」と。

しかし、どうしたわけか人々は自由を謳歌し幸福になることができなかった。ここでサルトルのような実存主義者たちが、したり顔で現れてこう言う。「あなたたちは自由の刑に処されているのだ」と。

彼らは言う。自由とは手放しで礼賛できるものではない。多くの弱い凡人たちは、自由の前で呆然と立ち尽くしてしまう。そこに全体主義的独裁者が現れれば、即座に追従してしまうだろう。彼らは自由を扱い切ることができず、服従に飢えているのだから。

実際そうして生まれたのがナチスであった。なるほど、ナチスへの反省を十分に繰り返した現代では、全体主義へと急転直下することはないかもしれない。だがそうなるともう信じられるものがなくなった人々はニヒリズムに陥るか、唯一信じることができる健康という意味に縋りつくしかなくなる。ニーチェが言うように末人たちは健康に気をつかってまばたきするくらいしかやることがないのだ。

このように考えれば、キルケゴールがキリスト教への回帰を訴えたのも頷ける。たしかにヒトラーのような人を信じるくらいなら、神を信じていた方がまだマシだろう。

一方で、多くの実存主義者たちはもっとマッチョな思想を訴えた。アンガージュマンせよとか、超人になれとか、自己に向かって投企せよといった具合である。

だが、多くの人はこう言うのだ。「いやぁ、超人になるのは大変そうですよね‥自分みたいな凡人にはできそうもありません」と。あるいはもっと傲慢な人ならばこう言う。「俺ほどの超人になれば自由を扱い切ることができるが、多くの凡人はそうではあるまい。連中は自由の前に呆然と立ち尽くすのだから、俺のような超人が命令してやらねばならないのだ」と。

なるほど、自由とはトレーニングを積んだ超人にしか扱いきれないというのであれば、自由なんてかなぐり捨ててしまいたい気分に駆られるのは理解できる。

だが、ここで僕は疑問を呈したい。

本当に自由とは、そんなに扱いがむずかしいものなのか?

多くの凡人には扱いきれないものであり、ツァラストラのように飛び抜けた強い意志を持った超人にしか扱いきれないものなのか?

もしそうなのだとすれば、なぜ小さい赤ん坊は母親の顔色をおそるおそる観察しながら「次はなにをすればいいですか? 寝返りですか?」などとお伺いを立てようとしないのだろうか?

なぜ3歳児は「なにをしたらいいかわらないから教えてくれ」と母親に縋りつき、「くもんに行ってお勉強しましょう」と言われるがままに行動しないのだろうか?

彼らは自由を思いっきり謳歌する。彼らが困ることがあるとすれば、それは親によって自由を制限されるときだけである。

彼らは「好きなことをやっているだけ」なのである。好きなことをやることは、文字通り赤ん坊にだってできる。では大人はなぜ自由を謳歌できないのか? 学校教育によって服従に慣れさせられたから・・・というのが一般的な説明であるが、それは本質的ではないだろう。

僕は一言で答えを提示したい。それは「大人が自由ではないから」だと考える。もっと言えば「金によって強制されているから」である。

そのことを説明するには、まず自由とはなんなのかを考えなければならない。自由とは、他者や周囲の環境からなんの影響も受けないことではない(そんなことができるのは神以外ありえないだろう)。また、なんの義務も引き受けないことを意味しない。自由でありながら周囲の影響をうけ、義務を引き受けるということは十分にあり得る。というかむしろ、そうすることなく生きることはできない。僕たちは重力の影響を受け、生存のために呼吸や食事、排泄を強いられているし、社会のなかで生きざるを得ないからだ。

周囲からの影響や義務をも、自発的な意志で受け入れている状態のことを自由と呼ぶのである。つまり、環境や他者からの要請と自由意志を調和させることこそが、自由の意味なのだ。

具体的に考えよう。

まず僕たちは自然によって呼吸や排せつを強いられているからと言って自由を制限されているとは感じない。また、未開人のなかには、狩りや採集、農業を「遊び」であると捉えていた人々は珍しくなかった。食糧生産活動はある意味で自然が人間に与えた要請である。しかし、だからといって彼らは自由を侵害されているとは感じなかった。人間は自然から与えられた要請と自由意志を調和させることができる。

では他者からの要請はどうか? たとえば往来で誰かに道を尋ねられたとしよう。そのとき多くの人は、相手に対して真摯に道順を教えようとする。そのとき自由が侵害されていると感じる人は稀であり、むしろ教えることを自由に欲する。あるいは親戚が家に尋ねに来たとき、車で駅まで送ってやろうとする人も同様である。それは他者からの要請を自由に受け入れているわけだ。つまり、人間は他者から与えられた要請と自由意志を(ある程度まで) 調和させることができる。

では逆に自由意志と調和できない要請とはなんなのか? 答えは明らかに「やりたくない」と感じる要請である。

さて、ここで僕たちが置かれている状況を確認してみよう。僕たちは生きるために金を稼ぐことを半ば強いられている。このことはほぼ疑いようがないだろう。では、金を稼ぐという要請は自由意志と調和させることができるだろうか?

不可能ではない。マネーゲームを楽しむビジネスマンや、明るい社畜たちは、金を稼ぐ行為を自由な意志で欲望していると感じていることだろう。しかし、「金儲けはやりたいことではない」と感じる人はどうか?

彼にとって金を稼ぐための労働は苦行であり、自由意志で選択しているだなんて思えない。なるほど金を稼ぐ手段は膨大に存在していて、そのなかから自由に選択することは可能である。しかし、賃労働であれ、フリーランスとしてであれ、起業であれ、生活保護であれ、パパ活であれ、そのいずれにも魅力を感じることができなければどうか? 彼は自由意志と金を稼がなければならないという義務を調和させることができないだろう。

要するに、そのとき彼は自由ではないのである。

なら、彼はは自由の前に困惑しているのではない。「ほら、あなたたちは自由ですよ」と押し付けられているにもかかわらず、金儲けという義務を押し付けられ、それを自由意志と調和できないことに苦しんでいるのだ。

ホリエモンのようなビジネスインフルエンサーに「好きなことをして生きていけばいい」と言われて、末人が返す「好きなことがないんですよね」という言葉の真の意味は「(金儲けできるような)好きなことがないんですよね」という意味である。好きなことがない人間などおそらく存在しない。彼にも食べ物の好みや漫画やゲームの趣味など、好きなことはいくらでもあるはずだ。単にそれで金儲けできないということを言っているにすぎない。

実存主義者による「マッチョになって自由を謳歌できるようになれ」という押し付けは、事実上「金儲けを好きになれ」と言っているにすぎないのである。

人間は自然からの要請は容易に受け入れることができた。狩りや採集が嫌で適応障害を発症する未開人などいないのである。また、自由な意志でボランティアに勤しむ人が充実感を覚えるように、他者からの要請の多くも容易に受け入れることができる。しかし、金儲けという要請を人間は自然と受け入れることができない。なぜなら金儲けとは往々にして不毛であったり、あまりにも過酷であったり、あまりにも他者への服従を要請するような苦行である傾向にあるからだ(そしてたいてい他人からの要請に応える労働であればあるほど金が儲からないのである)。

となれば実存主義者が騒ぎ立てた問題は、「金儲けしなくていい」という状況に至れば自然と解決するのではないだろうか? 人は自由を謳歌する能力を備えているし、他者や自然からの要請と自由意志を調和させる能力なら万人が有している。なら、「金を配る」=ベーシックインカムによって、実存的問題は解決するのではないだろうか?

人生に意味を見出す必要はない。好きなことをやっている人は「人生に意味があるかどうか」など気にするだろうか? いや、見出しても構わないのであるが、それをしなければ幸福になれないなんてことはない。人は好きなことをやっていれば幸福になれるのである。

人は金儲けという束縛から解放されれば自由になんからのプロジェクトに打ち込む。そして自由に試行錯誤し、自由に壁を乗り越える。そして、乗り越えることができずに困っている人は、周囲に協力を呼びかけ、周りの人々は自由にそれをサポートしようとするだろう。

もちろんコミュニケーションには、一定のスキルが求められることは間違いない。だが大人は他人とうまくやる方法をそれなりに身につけているものである。ただ、権力を押し付け合い、労働を押し付け合うようなやり方をやめさえすればいいのである。そうすれば互いに自由なまま、1人では成し遂げれない巨大なプロジェクトを次々に遂行できるだろう。

人が自由を恐れることはない。そしてこうも言える。自由であれば、自由であるほど、それは良いことであると。

もし自由を与えられて、なんの指針も持てないと感じる人がいたなら、そのときはあらためて自由に他人に服従すればいいのである。彼が真の意味で自由にナチスに追従しようが、それは別に構わないだろう。そのときは別の自由な人々が、ナチスを拒否するだけである。ゆえに自由はほとんどの場面で不自由に勝る。

こうして、金持ちへの服従を正当化することに利用されてきた実存主義者の根性論は、アンチワーク哲学によって乗り越えることができる。万人を金と労働の支配から解放すればいい。そうすれば実存的問題はすべて解決されるだろう。

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久保一真【まとも書房代表/哲学者】
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