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なぜ左翼は財務省解体デモに反応しないのか?【雑記】
大阪で行われた財務省解体デモにフラっと足を運んだわけだが、ものすごい人であった。僕が見た感じ、ざっと300人くらいはいたんじゃないかと思う。
特筆すべきは「デモに初めて参加しました」という人の多さである。主催者が質問したところ、おそらく半分以上は初参加として手が挙がっていたのではないだろうか。これまではノンポリであった人たちが、路上に出て、拡声器を握り、プラカードを掲げているのである。
さて、この状況は、普段から「日本人は直接行動をしない。もっと政府に怒った方がいい」という不満を抱えている左翼の目にどのように映っているのだろうか? 「おお、ついに日本人が立ち上がり始めたか!」と拍手喝采で合流してもよさそうなものである。だが、僕の観測範囲においてではあるものの、アナボル共にどこ吹く風といった様子であり、ほとんど誰も関心を示していないように思わる。噂によると(読んでないので真偽のほどは知らないが)しんぶん赤旗も財務省解体デモを一切取り挙げていないらしい。
なぜだろうか? そもそも財務省解体デモ参加者の目的は、左右で多少のばらつきはあれど、新自由主義的な緊縮財政から積極財政への転換を図ることであるとして大まかにひとまとめにしても問題ないと思われる。つまり、彼らに通底しているのは、国債発行により政府支出を増やし、公共事業へ投資したり、減税したり、給付金を配ったりすることで、景気を刺激し、国民生活を豊かにして欲しいというケインズ主義的な要求である。
そもそもケインズ主義とは一種の妥協であった。資本と労働者の権力関係そのものをひっくり返そうとしない限りにおいて、労働者に週休二日や一軒家、マイカー、健康保険を保障してくれるシステムであり、はじめて週休二日を労働者に与えるなどして労働者をもてなしたフォーディズムを理論化したものと言ってもいい。だが、フォードが労働組合に反対していたのは有名な話である。悪い言い方をすればケインズ主義やフォーディズムとは労働者から牙を抜き、飼い馴らすシステムなのだ。
そして多くの労働者は、それなりの待遇を与えられるのであれば、それなりに満足して飼いならされるものである。たしかに16時間も労働させられるような状況はひどいが、8時間なら我慢できる。マルクス主義者は16時間労働の状況を変えるために資本家から権力を奪い返そうとした(アナキストは権力を奪うのではなく破壊するのだが、いずれにせよアナキズム的世界において資本家は存在し得ない)。だが、資本家の方はケインズ主義という妥協案を提示して、16時間労働を8時間労働へと変え、プロレタリアートに一軒家とマイカーを保障し、自らのポジションを守り抜いた。この時点で左翼が振り上げた拳には戸惑いが生じてしまった。別にマジョリティが怒るほどの状況ではなくなったのである。気づいたらソ連も崩壊した。もう誰も革命を起こすほどの必然性も、現実味も感じない。結果として左翼は革命という大いなるビジョンを捨て、労働争議やジェントリフィケーションへの対抗、政治家の不祥事の追求、軍事行動への反対、LGBTQの権利主張、環境保護といった個別イシューへと主戦場を移した。
その結果はどうであったか? オルタナティブで巨大なビジョンを語る左翼が消え去ったのである。自民党政権に反対する左翼はたくさんいるが、代わりに共産党や立憲民主党に政権を取らせようと主張する左翼はほとんどいない(と思う。知らんけど)。「左翼はなんにでも反対ばかりで代案がない」という右翼の揶揄には根拠がないわけではないだろう(反対ばかりすることが悪いこととは限らないわけだが)。
その後、新自由主義が席巻し、ケインズ的理想は少しずつ破壊されていった。格差が拡大し、貧困が拡大した。このタイミングで左翼は腕まくりしながら再び舞台上にあがってもよかったものであるが、いまや老人会と化した左翼にそこまでの力はない。そこで、新自由主義的政策を進めてきた自民党と財務省、そしてその根拠となる財政観を攻撃し、マクロでオルタナティブなビジョンを提示したのは左翼ではなく財務省解体デモであり、ノンポリの集団であった。
だが、ノンポリ集団の実体は、かつてのケインズ主義的理想を復古せんとするケインズ主義者である。左翼からしても、まだ何色でもない無垢なオルグ対象というわけではない。しかも、勝手にオルグされている。だから左翼はなにやら燃え滾っている彼らにイデオロギーを注入して自分たちの陣営に引き込むことができないと判断した。
では、左翼はケインズ主義者に対して政治闘争を仕掛ければいいのか? 残念ながら、彼らはそもそも資本家ではないし、政治闘争化するほどの苛烈なイデオロギー的対立はない。それに、オルタナティブでマクロなビジョンは左翼の中からはとっくに失われている。
対立していいのかもわからないし、同調するモチベーションもない。その結果として、左翼は困惑しつつスルーという行動パターンを取らざるを得なくなったのではないだろうか。だから古典的な左翼(もちろん新左翼も、ノンセクトもここに含まれる)は、財務省解体デモに反応しないのではないだろうか。
この分析がどこまで当たっているのかはわからない(実を言うと僕は左翼の思想史にそこまで詳しくないのだ)。だが、なんとなくこういうメカニズムが働いているような気がする。これに関してはいろんな人の意見が欲しいところである。自信ニキはぜひコメントを。
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