彼のような男を、僕は待ち望んでいた
誤解も曲解されない文章ほど退屈なものはない。社会を揺さぶる最高の洞察であるならば、それは犯罪のように人々の耳に響く。
僕はこれまで労働なき世界を夢見て、労働や社会、人間について考え、文章を書き、理論を磨き上げてきた。
そして、この記事は僕にとって最高の洞察であった。誰もみたことのない最高到達点に辿り着いた。そんな手応えがあった。
しかし、どこか自信を持てずにいたのだ。
「毒にも薬にもならない退屈な文章ではないだろうか?」
「同じことを誰かが言っているのではないか?」
「とんでもなく的外れなことを書いているのではないか?」
彼が現れたのは、僕にとって幸福であった。
僕はこの文章を読んで確信した。僕は間違っていなかったのだ、と。
このschzoという男は、1000文字や2000文字では収まりきらない長文で僕を批判した。薄暗い部屋の中、震える手で「投稿ボタン」を押した瞬間、彼は僕を批判したいという情熱の炎で燃え上がっていたに違いない。決して短時間では書けなかっただろう。何度も悩み、書き直したことだろう。その間、炎が消えることはなかった。
この炎は、労働なき世界へ僕たちを誘う灯台だ。
「新しい労働哲学」を深く理解した方なら、彼こそが労働なき世界の体現者であることがわかるだろう。彼がニートだから、ではない。
彼がこの長文を投稿した理由はわからない。暇だったからかもしれないし、イカれた思想を世に広めるべきではないという強い使命感からかもしれないし、愚かな僕を改心させたいという老婆心からかもしれない。しかしいずれにせよ彼には1円の得にもならないことは明らかである。それにもかかわらず、彼は欲望のままに書いたのである。
これこそが労働なき世界だ。
※「欲望」という言葉は、「新しい労働哲学」特有の用法である。詳しくは以下。
さて、それでは僕はどうすべきなのだろうか?
彼の文章にややイラッと来たのは事実である。そして今、完膚なきまでに論破してやりたいという衝動に猛烈に駆られている。
これから先、僕が「新しい労働哲学」を洗練させ、普及させようと思うのなら、彼のような批判者に出会うことは避けては通れない。おそらく、賢明な判断はスルーすることである。しかし、スルーするのは精神衛生上よくない。あたかも僕が彼の批判に対して尻尾を巻いて逃げたかのような印象が残るからだ。もちろん僕自身はそうではないことを頭では理解している。しかし、「俺はスルーしているだけやし、schzoは日本語の読めない低脳やから反論しても無駄やろ」と心の中で反芻したところで、僕の心はチラリとも安らぐことはない。
ならば、ディスはディスで返し、ビーフに発展させよう。そして、この精神的な負い目をschzoに押しつけてしまえ。どうせ僕が反論すればschzoは飽きて反論してこないだろう。事実上それは僕の勝利である。もちろんそれは彼が「くそ、やられた! ホモ・ネーモの言う通りだ!」と地団駄を踏むという事態を意味しない。「俺はスルーしているだけやし、ホモ・ネーモは日本語の読めない低脳やから反論しても無駄やろ」と心の中で反芻させるという意味での勝利である。
つまり僕はschzoにこの文章を理解させようだなんて思っていない。どうせ理解しようと試みることすら彼は拒否するのである。しかし、そんなことはどうでもいい。理解を拒否する姿勢を引き出すことこそ、僕の勝利なのだから。
さて、前置きが長くなってしまったが、ビーフをはじめていこう。
■schzoのジャブに対する反応
schzoが最初に取り組んだことは、僕のプロフィールにツッコミを入れるマイルドな人格攻撃である。
彼はまず、アマゾンに書いている僕のプロフィールを引用してくる。
これに対して次のように続ける。
そして、僕のYouTube、Twitter、noteのフォロワー数(それぞれ14人、9人、332人)をとりあげて、次のように続ける。
軽めのジャブである。このジャブは次のような宣言であると受け止めることができる。
常識的に考えれば明らかに「多数のフォロワー」という表現は誇張であるが、ここは本題ではないし、「多数のフォロワー」というのはあくまで主観に過ぎないのだから、そこはいちいち深追いすることはしませんよ?というわけだ。
このジャブが読者に対して伝えているメタメッセージは、「自分の意見と異なるからと言って頭ごなしに否定するのではなく、あくまで自分はイデオロギー的に中立かつ論理的なスタンスでこの文章に挑むのですよ?」というものだろう。立派な姿勢である。
しかし、その一方で「9人が多数のフォロワーだってよwwww」という暗黙の批判も込めているのである。
つまり、相手を馬鹿にして優位性を確保しつつ、それでいて自分がイデオロギーに左右されない論理的な人物であることも提示している。極めて洗練された戦略である。
ここまでに対する僕の反論は次のようなものである。
「ネタにマジレスするのは恥ずかしいからやめてくれ」
軽く冗談を飛ばしたら、マジレスされて最悪な気分になったことは、誰しも経験があるのではないだろうか。多数のフォロワーとかちょっとノリで言っただけじゃん。
もちろん、この僕の反論も言いがかりになる。なぜなら、「フ、フォロワーの数が多いか少ないかは、主観的概念であり、本人が多いと思えばそれは多いのである。ですよね先生?」とschzoは書いているからである。これには先述の通り明らかなメタメッセージが含まれている。しかし、実際にはそのメタメッセージは書いていないのである。つまり、僕のカウンターパンチは空振りに終わるように、初めから設計されているのである。
■定義問題のすれ違いに対する小言
さて、軽いジャブの後にschzoは本題へと移る。
僕は労働が必要ないと言うことを主張しているので、まず彼は労働を定義しようと辞書を引く。
いささかマルクスっぽい定義だが、これをschzoは「価値を形成する過程を労働と云うらしい。」と要約する。
ここを読んだとき「あ、しまった」と僕は思った。僕はこの記事の中で労働を定義していない。
僕は極力、議論の序盤に労働を定義することを避けていて、文章の中盤頃に書く場合が多い(が、この記事の場合は、忘れていたのだ)。なぜそうするのか? その理由は、僕の労働の定義を読んでもらえばわかると思う。
僕は労働を「他者から(直接的又は間接的に)強制されて取り組む不愉快な行為」と定義している。
これを読めば、「こいつの言うことに反論したい!」という欲望で煮えたぎって手当たり次第に突っかかろうとするschzoのような人物は、これが好機とばかりに反論を畳み掛けてくることが予想される。
彼が定義問題にうるさい人物であれば「いや、それは労働じゃないからwww」と言うだろう。あるいは論理にうるさい人物であれば「自分で定義して『労働なき世界が可能』って、そらお前の中ではそうなのだろうなwww」となる。そこまで具体的な反論が思い浮かばないとしても「は? 何言ってんねんコイツ」となれば、その後の議論に耳を貸してくれなくなるのである(どうせ耳は貸してくれないのだが)。
詳しい議論は避けよう。ともかく僕は「他者から(直接的又は間接的に)強制されて取り組む不愉快な行為」を労働と定義していて、それをなくすことが可能であると主張している。
とりあえず、そういうものだと思って、じっくり僕の言うことに耳を傾けてほしい。僕が何を言おうとしているのか、彼は興味があるはずなのだ。そうでないならわざわざこんな長文を書かないだろうし、「コミュニストや新自由主義者が今後展開するであろう稚拙なワガママに注目していきたい。」などとも書かないはずだ。
思う存分、稚拙なワガママに注目してくれたまえ。そのためには、ワガママが何を意味しているのか、理解してもらえると嬉しい。いまは確実にschzoは誤解しているのだから。
※僕の労働の定義は以下の記事を参照してほしい。
さて、続けよう。
schzoは、「価値を形成する過程を労働と云うらしい。」と労働の定義(僕とは異なる定義)を確認した後に次のように続ける。
ここを読んで僕は再び「あ、しまった」と思った。
僕はナチスという言葉を「進化論派生の疑似科学を理由にホロコーストを行った国家社会主義」という意味で使用しているわけではない。単純に「悪」という意味で使用している。
当たり前だが人々が畑で野菜を育ててトラックで運んでいたら必然的にホロコーストが誕生すると主張しているわけではない。
「じゃあナチスなんてややこしい言葉を使わずに『悪』と書けよ」と、自分が早とちりで勘違いした恥ずかしさをごまかすためにそれを棚に上げて批判してくることが予想されるが、これはまぁ一理ある。しかし、「労働は悪である」と書くよりも「労働至上主義者は(さながら)ナチスである」と書いた方が僕は面白いと感じたというだけに過ぎない。
とは言ってもこれも枝葉末節である。あくまでschzoは「お前の言うことを現実的に考えて、鵜呑みにすればこうなるんだがwww」という少し変則的なパンチで僕が自壊していくことを期待していると見た方が事実に近いだろう。
だが、実を言うと僕は彼が現実的な前提としている部分にも若干の批判を加えたいのである。
一言一句みていこう。
これは「人は働いてお金を稼がないと生きていけない」という意味で受け取って問題ないだろう。そしてこのことは周知の事実であることは間違いない。だが僕は「お金を稼がなくても生きていける社会にしたいし、それが可能である」という主張を行っているのである(その根拠はこの先で書いていくつもりであるが、「働かずにダラダラ昼寝していてもお母さんがご飯を持ってきてくれるのが普通だよね?」という主張を行っているわけではないことは、明記しておく。驚くべきことに!)。
これは先ほどの労働の定義問題にも関わる話である。「お金を稼がなければ生きていけない」ということは、事実上、賃労働や起業や不労所得の確保を強制されている状況にある。強制されているということはそれが不愉快である可能性が高い(もちろん不愉快ではない賃労働も存在し、それは僕の定義では労働ではない。要するに「楽しければいい」が僕の主張である)。なるほど、職業選択の自由は存在するし、生活保護もあるわけだが、それでも金を得るためになんらかの行為をしなければならないという状況は強制されている。
つまり僕がいう「労働なき世界」とは「誰も強制されない社会」なのである。
(仮にお金を稼がなくてもいい社会になったとしても、「じゃあ飯食わないといけないと人間は強制されているから、飯食うのも労働じゃん? 労働なき世界じゃないじゃん」といった反論が生じてきて、それに対して反論することも造作もないわけだが、これ以上深追いすると、見えない幽霊相手にスパーリングを行うようなものなので、ちょっとスルーしたい)
さて、このことを踏まえて続きを読んでいこう。
前半はほぼ当たり前のことが書いてある。重要なのは後半部分である。
ここでは、食糧が「商品やサービス」として提供されることが前提されている。もっと言えば、「商品やサービスとして提供される以外の社会はあり得ない」という主張と受け止めて問題ない。
もちろん僕は貨幣を持たない狩猟採集民を持ち出して悦に入りたいわけではないし、schzoが金のない社会を知らないなどと主張するつもりはない。が、暗黙のうちに次のように前提されていることは明らかだろう。
僕たちのように高度に資本主義が発展したテクノロジー社会に生きるなら、食糧がおおむね商品やサービスとして現れる社会しかあり得ず、商品やサービスとして提供される以上は、それを手に入れるためには金が必要になる。と。
また「商品やサービスを受けるには対価に賃金を支払わなければならないので、またこちらも支払う対価の賃金を得る為に働かなくてはいけない。」を突き詰めていけば、自発的に誰かに食糧を分け与えようとする個人など存在するはずがないと前提されていることがわかる(もちろん、schzoがお裾分けという文化を知らないなどと主張するつもりはないが、彼はあくまでお裾分けなどのように自発的に行われる食糧の提供方法は、社会を組織する主要な方法になることはあり得ないことが前提している)。
長々と書いてしまったが要するに僕は、「強制ではなく、自発性に基づいた経済システムが可能である」と主張している(しつこくなるが、その根拠は後ほど)。
■再びすれ違い問題に対する小言
誤解を訂正しているだけでもう6000文字を超えているわけだが、まだまだ誤解を解いていきたい。
続いては、僕が「世の中のニートの労働批判が中途半端である」という旨の主張をした部分である。
「あー違うんだよなー」と、頭をかきむしりたくなる。
ニートは生産していないから労働を批判しても無意味と言っているわけではない。「ニートは労働を批判しつつも、社会として労働が必要であることを認めていること(仮に自分が働いていないとしても、誰かは働かなければならないと認めていること)」を指摘しているのである。
ニートに収入源があるとかないとか、そういうことが言いたいわけではない。だが、ちょっとこの辺りの曲解は訂正するのがめんどくさいのちょっと省略したい。
ともかく彼は藁人形論法という言葉が使いたかったのだろう。彼には僕が藁人形を持ち出してきて、それに対して反論を加えているという構図に見えるようである。
あまりにも自分の想像できない主張を目の前にしたとき、人は著しく日本語読解能力が低下するという法則が見出せそうだ。
続いても勘違いの訂正である。
あー、めんどくさい。
これはナチスの用法に話を戻さなければならない。僕はナチスを「悪」と言う意味で使っていることを思い出そう。ナチスが悪であることは誰しもが認めている(一部のネオナチや、ナチスの農業論などに感化された人などを除く)。仮に労働が悪だとする。すると労働はナチスのようなものである。労働がナチスのようなものだとすれば、ニートはレジスタンスのようなものである。なんの問題もない議論である。
というか、こんなところにいちいち突っ込んで欲しくないのである。どうでもいいからだ。
■妖精さんを信じていないという衝撃の事実を披露する
さて、ようやく本題に入った感がある。波平の話である。
以下はschzoが引用した僕の記事である。
それに対して次のように続く。
色々と言いたいことはあるが、ここでは驚きの事実に絞ってお伝えしたい。schzoは耳を疑うかもしれないが、僕は妖精さんの魔法でインターネットが使えるようになっていると信じているわけではない。
世の中には基地局を整備する仕事があることも知っているし、電柱から光ファイバーを引っ張ってくる仕事があることも知っているし、海底ケーブルの遥か先にサーバーを管理する人がいることも知っている(そう。知っているのである。きっと今頃、schzoは驚いていることだろう)。
僕はそういう仕事が全く必要ないといいたいわけではない(これは「労働なき世界」と矛盾しないことは先ほどの定義問題から明らかである)。それは確実に求められているのである。
波平の話で僕が言いたかったのは、労働を部分的に否定することである。あらゆる労働が確実に必要であると主張する人はいないだろう。それが世界中の労働のうちの10%なのか、50%なのか、人によって解釈は異なるが、「誰がどう考えても必要ない仕事」は明らかに存在するのである。9時から17時まで、朝から晩まで必要な仕事をしている個人など、ほとんど存在しない。チラチラと時計をみながらデスクでマインスイーパーをしている事務員が労働時間を削減できることは明らかだ。それなのに、デスクに齧り付くことが強制されていることは、無意味な労働が存在することの証左である。
少なくとも、減らす余地のある労働があることを、「主張その1」では主張している。もちろんこれだけを根拠に労働をゼロにすることができるという主張はできない。だがこれはジャブに過ぎないのである。僕は6個も主張しているのだから。
■誰もお小遣いをくれないことは知っているという衝撃の事実を再び披露する
続いては、仕事の大半は軍拡競争であるという僕の主張に対するschzoの批判である。
要するに、営業努力のうちには、「商品開発や改良、供給維持のための生産」があり、それは全体のパイを増やすことにつながるのだがら、単なるゼロサムゲームではないという主張である。こんなことを一般的な成人男性が思いつかないわけがないことをschzoは理解できないらしい。そんなことを承知してもなお、軍拡競争であるから止めるべきであると主張している意味を考えてほしいものである。
すでに商品開発や改良はほとんど茶番化していることは、洗剤や家電のCMやなんのイノベーションも起こさないiPhoneをみれば明らかだろう。商品開発や改良が起きていると広告を垂れ流すことの方に企業の力点がシフトしていることを誰が否定できようか?
わかりにくいなら軍需産業の方から考えてみよう。
「兵器を求める人やそれを売る軍需会社も兵器がなければ困ってしまう。」これはその通りである。だが、軍需会社が兵器を販売したときと同じ額のお小遣いを国から貰い受け、それで戦争が起きない方がいいことに疑いの余地があるだろうか? どう考えてもない。それは人はたくさん死ねば死ぬほどいいと言っているのと同義である。
もちろん、現実的な話をすれば、お小遣いはもらえない。だが、その方がいい、というのは皮肉な話である。労働するよりも、何もせずにお小遣いをもらう方がいいに決まっているのにもかかわらず、誰もお小遣いをくれないことが問題だと僕は言っているのだ。
軍需会社は何もせずにお小遣いをもらえるならば、わざわざ兵器を作ろうとはしないだろう。戦争相手の国の軍需会社も同様である。そうやって世界中の軍需会社にお小遣いをやって、誰も兵器を作らなくなったら? 世界は平和である。もちろんそうならないことは重々承知している。しかし、そうならないことが問題であると僕は言っているのである。
これと全く同じ現象が、洗剤メーカーに起きている。洗剤メーカー各社が一切のCMをやめて、広告代理店やクリエイティブエージェンシーにはCM発注日と同じ額のお小遣いが与えられたとしよう。広告代理店は広告を作るという労働を免除されて、全く同じ結果が得られる。その方がいいことを否定することは誰にもできないだろう。
同じように、プロバイダー契約を必死に獲得しようと朝から晩まで営業電話をかけてくるコールセンターのバイトに、営業電話をやめさせてお小遣いをあげた方がいいのである。
もちろん、実際は誰もお小遣いをくれないのである。ちなみに言えば僕もお小遣いをもらえない(きっとschzoは驚くだろうな。多くの人は大人になってもお小遣いをくれる心優しいママを持っていないことを、僕は知っているのである!)。だが、お小遣いをもらえる方がいいのである。
さて、ここではっきりさせなければならない。ここでいうお小遣いとはベーシック・インカムのことである。ベーシック・インカムをあげれば軍拡競争的な労働が減る。軍拡競争的な労働が減ることはいいことである。
■何か1つ反論すれば全て反論したことになる風潮にものを申す
さて、続いては過剰生産についての話である。僕が軍拡競争によって過剰生産に陥っている事態を象徴する例として、アパレル産業が作った服の半分を捨てているという主張を行ったことに対し、それとは異なるデータをschzoは提示した。そして…
人は信じたい情報はすぐに信じる。いい教訓になった。
僕お正直なところを言えば、都合の良い統計を適当に使うタイプである。どうせ原典に当たる人なんて少ないわけだし、どうせ統計も信用ならない。ならば都合の良い統計を適当に引っ張ってくれば良いとさえ思っている。とはいえ、一応、全くソースのない情報は出さないようには心がけてはいる。
2.4%と50%。大きな開きがある。おそらくschzoが提示したデータは売れたあと捨てられる割合なのではないだろうか? いちいち調べるのはめんどくさいので、ちゃんと確認して教えてくれると嬉しい。
僕が50%という都合の良いデータに飛びついたように、彼も2.4%という都合の良いデータに飛びついた。同じ穴の狢である。
だからといって、僕の主張が間違っていることにはならない。細かい数字は正直、どうでも良いのである。
食糧に、服に、その他諸々に、売れ残った物が捨てられていることが問題であることは明らかである。それが何%であれ、少なければ少ない方がいいことは明らかだろう。たくさん作ってたくさん売らなければならないという資本による要請が、必要なさそうなものをたくさん売りつける膨大な人々を雇用していることに疑いの余地はない。イオンモールでウォーターサーバーを売りつける人々や新聞の契約を死に物狂いで取ろうとするおじさん、駅前でフルーツを売りつける可哀想な若者、必死で知り合いを当たって友達を失っていくアムウェイ会員。こういう人々による労働が存在すること自体が、過剰生産の問題を明らかにしている。
僕がいいたいのは禁欲思想ではないことを説明するために、漫画とゲームと遊園地はあってもいいと言うことを書いたのだが、どうやらそれをアクロバティックに曲解されてしまった。人を馬鹿だと思い込みたいという欲望は、人をアクロバットに向かわせるようである。
(愚かさとは、そこら中に愚かさを見出す心に宿る。これは僕による愚かさの定義である。)
繰り返すが、僕は人の欲望を否定しないのである。人が必要だと思うなら、それは必要である。「新しい労働哲学」では、クローゼットを1万着のTシャツで埋め尽くすことを心の底から渇望する人がいたのならその欲望は肯定される。その1万着のTシャツを時給100円で作ることが重要な使命だと感じる人がいるのなら、その活動は肯定される。しかし、必要とされることを必要としていて、必要を強引に生み出そうとする活動は必要ではないのである。
■割り箸に関する批判を真摯に受け止める(が切り捨てる)
僕が唯一「せやな…」と思った批判がこれである。割り箸は間伐材由来なので、割り箸にならないなら捨てられるという指摘だ。そういえばそうだった。
割り箸の例えはノイズになる。いい教訓であった。しかしこれは大して重要な話ではない。割り箸はあくまで例え話である。
エコバッグに変えて考えればわかりやすい。エコバッグをたくさん作って売りつけることがエコバッグメーカーの使命である。エコバッグを売らなくてもエコバッグメーカーが倒産せず、その社員が路頭に迷わないような仕組みを作った方がいいよね? と言う話である。
これも1つ反論すれば全て反論したことになるという風潮の典型例だと言うえる。
■僕はごみ収集員を見たことがある
続いては、役に立つことをしていたら金を稼げない傾向にあると言う僕の主張に対する反論である。
以下は、僕の記事の引用である。
これに対して次のような反論をschzoは試みる。
「なんと! 市町村に依頼された業者がゴミを拾うことがあるだなんて、全く知らなかった!彼らはてっきりボランティアなのだと思っていた!」と僕が言えば彼は満足するのだろうか?
ゴミを拾ったり、子供に飯を食わせたりすることで金が稼げることは知っている(なんでこんなことを宣言しなければならないのか、理解に苦しむが)。
僕がいいたいのは、役に立つかどうかと金が稼げるかどうかが連動しておらず、むしろ役に立つことをしていると金が稼げない傾向にあるということである。
※その辺りは説明するのがめんどくさいので、以下を参照してほしい。
■最後の最後に、意見が一致することに喜ぶ
最後に、労働は楽しくないから悪という僕の主張に対する反論である。
最後は意見が一致して良かったのである。楽しくないなら、悪である。やめておけばいい。ただし、それを楽しみながらやる人もいるということだけ付け加えておこう。
楽しいと思う人だけがやればいい。それが僕の主張である。
■おそらく読むのを諦めたことが悔やまれる
さて、schzoの批判記事はここで切り上げて、まとめに入る。だが、僕の記事の半分も読み終わっていない。雑にまとめておわるのである。
実のところを言えば、ここまでの批判が的外れであることは、残りの僕の記事を読めば明らかなのである。しかし、そのことを受け入れたくないのか、理解できないのか、彼は「つまらないから読む必要はない!」と断じている。そのまま教科書通りに、文化大革命とクメールルージュを持ち出してきて論破完了のスタンプを先生からもらうのである。
僕から言わせれば、この先が本番なのだから読んでほしい。
■勢いのままに、まとめる
リベラルで中立的な個人を装いたいという欲望を抑えることは難しいが、僕はそのヴェールを取っ払おうと思う。どうせ、「お前」とかなんとか言われながら批判されてきたのだ。僕にだって好き放題批判する権利があるというものである。
まずいいたいことは、彼の批判の大半は、すでに僕が想定していたことである。
この本は、僕の代弁者であり労働哲学を説く哲人と、一般的な常識を持って哲人を批判する青年の対話で構成されているが、schzoはさながら青年の生写しである。
つまり彼の記事を読んだところで、僕が想定した藁人形のコピーが、へなちょこパンチを打ちにきたという印象以上のものはなかった。
へなちょこパンチを打とうとするschzoはすでに埋められた地雷を踏み抜きながら、かろうじてnoteの投稿ボタンをクリックしたものの、地雷原で受けた脳みそへの損傷が原因で、愚かに愚かさを求めるという典型的な愚かさの罠に引っかかってしまった。そして理解できないものは強引に理解できる範囲で曲解し、それでも扱いきれないものは単になかったものとみなすという、批判したいという衝動に駆られた人間に特有の反応を示して、僕という観察者に対する恰好なサンプルを提供してくれた。
そしてマジレスすると、割り箸の話とか、ナチスの話とか、あぁそういう曲解のパターンがあるのね、という良い教訓になった。僕はあらかじめ想定される反論は封じ込めるタイプの人間だ。しかし、バカがどんなふうにバカをしでかすのか、バカでない人間が想像するのは難しいものである。
さて、僕はschzoが『働かない勇気』を読むことを期待しているわけではあるものの、そうならないことは火を見るよりも明らかだ。それに、仮に読んだとしても、彼がその内容を理解することはないだろう。彼自身が理解することを望んでいないのだから。
それに初めに宣言した通り、僕はschzoにこの文章を理解させようだなんて思っていない。つまり僕とschzoの議論は永遠に平行線か、あるいは爆弾をパスし合うゲームのように、自分の元にボールが止まったまま議論を終えるというもどかしさを抱えた方が負けなのである。
さて、すでに1万5000文字である。これだけの重たい爆弾に対してschzoがどんな反応を示すのか、あるいは示さないのか、期待したい。なんてバカなことに時間を費やしているのだ?という後悔がないではない。だが、これこそが僕にとっての労働なき世界なのでよしとしよう。
そしてここまで書いて気づく。僕たちがやってきたのは議論ではない。なぜなら、そもそも僕の主張を彼は理解していないからである。膨大な文字数を費やして書いてきたことといえば、僕がごみ収集員の存在を知っているなどという馬鹿馬鹿しい主張であり、単に誤解を解こうとしているだけだ。そして、恐らくその試みは成功していない。彼は誤解したまま生きていくのである。何をどう誤解しているのかすら、彼には全く理解できないだろう。
本音を言えば彼のような人物にも理解を求めたいのである。僕に同意してくれなくてもいい。少なくとも僕が何を言っているのかを、理解して欲しいのである。
常識はずれの主張を行うと、周りから見れば僕が常識を知らないが故にその主張を行なっていると判断され、常識をひたすら教え込まれるのが常だ。そして「僕は常識をわきまえた大人のつもりである」ということを信じさせることすらできず、時間を無駄にするのである。そして常識はずれの主張は検討されることすらない。
schzoほどに熱意を持って常識(インターネットは妖精が運営していないことなど)を教えてくれる人は少ないものの、これは正常な反応である。こういう反応をどのように乗り越えていくべきか、今後の僕にとっての課題が見つかったと言える。
■最後に
どうでもいいが、彼はニートらしからぬ批判を繰り広げているものの、ニートらしい。タイ旅行の体験記を書いていてちらほら読んでみた。僕の批判文章から察する通り日本語能力にやや難があるものの、結構面白かったので、おすすめである。
批判されるのはやっぱり楽しいし、批判を返すのはもっと楽しいのである。テトリスみたいなもので、無駄な時間だとはわかっているものの、やめられないのである。
なんだかんだ言ったが、schzoには感謝したい。スキゾイドなのだろうか? それともドゥルーズマニアなのだろうか? 僕もスキゾイド気質があるドゥルーズ好きなので、きっと仲良くできる。
ありがとう、schzoよ。ニートライフを楽しんでくれ。