現代のナチスに加担したくなければ、ニートになれ
■はじめに
この記事のタイトルを見て、捻じ曲がった道徳観念の持ち主による悪ふざけという印象を抱くのが、正常な感覚の持ち主というものである。
しかし、僕は真面目に書いているのである。扇動的なタイトルで人目を引こうという打算もなくはないが、それでも真面目に書いているのだ。
「現代のナチスに加担したくなければ、ニートになれ」と。
どういうことか? まず「現代における労働は悪行である」ということから、読者に理解を求めなければならないが、これは簡単ではないだろう。なぜなら、労働は善行であると世間一般にみなされているからである。
もちろん、「労働が善行であると世間一般にみなされている」という僕の意見には、さまざまな反論が噴出するに違いない。なぜなら「労働は悪行」という主張に似た言説は、いくらでもインターネット上で見つかるからだ。
例えば「労働はつまらないから、できるだけやらない方がいい」とか「ブラック企業を助長するだけだから、やらない方がいい可能性もある」とか「他の人にポジションを譲るために、働かない方がいい場合もある」といったものである。
基本的にこのような主張を行うのはニートや、労働を嫌悪するニート予備軍である可能性が高い。その結果、「労働は悪行である」といった主張(あるいはそれに似たような主張)は、単なる弱者の妬み嫉みであるとして一蹴されるのが常だ。「はいはい、わかったからさっさとハロワいけよ」と言われたときに、ニートやニート予備軍たちは涙目で撤退する以外に選択肢はないように見える。
なぜ彼らが涙目で撤退する羽目になるのか? それは彼らが次のような社会の常識に反論を行っていないからである。
要するに、ニートやニート予備軍たちは「労働=社会への貢献」という前提や、「労働は最低限必要である」という前提を受け入れている。
ならば、彼らがロジックを捻り出し「労働は悪行である」と主張したところで、「俺は労働したくないから、誰か労働してね」と言っているだけ、ということになってしまう。要は怠け者がサボるために屁理屈を言っていると解釈されるし、発言しているニート本人も恐らくそう思っている。
しかし僕は、労働を完膚なきまでに否定したい。
誰一人として労働しない方が好ましいばかりではなく、むしろ、労働は世界に害を及ぼしているというレベルで、「労働は悪行である」と主張したい。
仮に、僕の主張が正しいのだと前提してほしい。すると、労働はナチスドイツに奉仕するのにも等しい行為となり、ニートは正義のレジスタンスということになる。前提が正しければ、この結論に疑いの余地はないだろう。
では、「労働は(本質的に)悪行」という前提は、果たして妥当性があるのか? なぜ、労働が悪行なのか?
考えてみよう。
■労働が悪行である理由
【その1】何もしていないサラリーマンが膨大にいるから
労働が悪行であることを理解してもらうにはまず、世間に蔓延している労働の大半が、商品の生産やサービスの提供、物の運搬やメンテナンス、人々のケアといった(俗に言う)エッセンシャルワークではないことに思いを馳せて欲しい。
労働者と聞いて真っ先に思い浮かぶのは満員電車で鮨詰めにされているくたびれたサラリーマンだろう。彼らがエッセンシャルワーカーであることは滅多にない。何をしているのか、抽象的で、よくわからない人々だ。
彼らはコンビニの駐車場やパチンコ屋、喫茶店、個室ビデオ店でサボっているサラリーマンと同一人物である。
小さい頃、磯野波平が何をしているのか、疑問に思わなかった子どもはいないだろう。ごみ収集人やケーキ屋さん、野球選手なら、何をしているのかを直感的に理解できた。しかし、磯野波平はいつも灰色のオフィスに揺られ、何も置いていないデスクで雑談しているのである。子どもだった僕にとって「一体、社会のどんな役に立っているの?」と疑問に思わないでいることはむずかしかった。
そしておそらく、実際のところは何もしていないのである。果てしなく続く会議や社会調整といった儀式に時間を費やしたり、時計をチラチラと見つめながら定時が来るのを待ち焦がれたりするだけで、生産もケアもせずに金を得ているのである(豊作を祈る儀式を行って、農業に携わることなく米を得る神官のような仕事と考えるべきである)。
だったら、波平は労働をやめ、会社からお小遣いをもらいながら家でマインクラフトでもやっていて方が有益ではないだろうか? 少なくとも波平は楽しめるのだから、その方がいい。
【その2】労働の大半は無駄な競争だから
とは言っても、『サザエさん』は波平の密着ドキュメンタリーではない。画面外であくせくと働いている可能性もある。もしかすると、会社が金を儲けるために何らかの命令が波平にくだされ、なんらかの「競争」に参加していたかもしれない。しかし、それでも波平が何か有益な営みに携わっているという印象を抱くのは難しい。「競争」というとポジティブな印象の言葉だと解釈されているが、要するに金の奪い合いである。
営業、広告、デザイン、コピーライティング、マーケティング、コンサルティング、ブランディングなどなど。これらは金の奪い合いに関するキーワードである。
金の奪い合いとは軍拡競争であって、例えばXという土地に商品を売りつける権利を巡って、A国とB国が争っている状況を想像して欲しい。A国が戦車を作ればB国も戦車を作るのだ。営業活動や広告、マーケティングなどは戦車を作るような行為なのである。要するに、みんながやめたほうがみんなが得する。
僕たちが労働と呼んでいるものの大半はこういった活動である。
こういう活動に勤しむ人々はそれなりに忙しく、苦労もしている。しかし、忙しくて苦労しているからといって、その仕事が世の中の役に立っているわけではない。軍拡競争に取り組む人々は忙しくて苦労しているだろうが、軍拡競争そのものが無くなった方が人類にとって有益なのと同じである。
それにもかかわらず、彼らは「俺たちは苦労している。社会の役に立っている」という自己意識を育み、ニートを攻撃するが、それは間違っている。
彼らも仕事を辞めて、お小遣いをもらいながらマインクラフトをやっている方が、社会全体は幸福になるのだ。
【その3】世界は過剰生産に陥っているから
軍拡競争のネガティブな側面は他にもある。
日本では作られた服の半分は売れ残る。そこで無駄になった労働がどれだけあるのか、もっと深刻に考えた方がいい。
単純に考えれば綿花栽培、縫製、輸送、梱包などが無駄になっているがそれだけではない。綿花栽培には肥料も農薬も使用されただろう。耕運機に使用されたガソリンを精製した人もいれば、スプリンクラーのメンテナンスに使用されるネジにメッキをかけた人もいるだろう。それに付随してサプライチェーンのあちこちで膨大な会計処理が行われたことだろう。芋づる式に膨大な労働が無駄になっているのだ。
これらの大半の仕事はエッセンシャルワークとみなされるが、半分が捨てられているのを見れば、少なくとも半分はエッセンシャル(必要)ではない。さらに言えば、売れた半分の服の多くが即座にクローゼット送りとなり、一度も着られることなくこんまりのような人に処分されることを待っていることを考えれば、半分以上が無駄なのである。
「需要が予測できないから仕方がない」という反論には意味がない。需要は予測できる。人が食べる食事量や、人が着る服の量は大して変わらないのだから。ただ、売り上げを倍増させるために広告キャンペーンを行ないつつ、希望的観測で膨れ上がった需要は予測通りにはいかないという話なのだ。
広告キャンペーンをやめて、売り上げを倍増させようとするのをやめた方がいいことは明らかだろう。
※僕は少年ジャンプや『ゼルダの伝説』、ディズニーランドは必要がない、と言いたいわけではない。これらは人々を楽しませるからだ。しかし、広告キャンペーンなど無ければ無い方がいい。僕たちの社会を覆い尽くす労働の大半は、人々の生物的なニーズに応えるわけでもないし、人々を楽しませるわけでもない。もちろん、やっている側も楽しくない。そんなクソ仕事である。
ついでに言えば、軍拡競争のための会議を開いている人々のために建てられたオフィスビルの一群は、全くもって無駄である。ビル一棟建てるのに、清掃し、メンテナンスするのに、どれだけの労働が無駄になったことだろう(そして無駄にco2が大気に解き放たれたことだろう)。
【その4】環境に悪いから
環境問題についても同様の結論が導き出される。無意味に服を作って広告キャンペーンを展開するといった労働をやめることが、大気中のco2削減の最短ルートである。
環境問題は、僕たちがマイ箸を持ち歩くことで解決されることはない。マイ箸を持ち歩いたところで、割り箸メーカーは割り箸を作り続けるだろう。そうしなけば倒産するのだから。
つまり、労働が環境破壊の原因であり、消費はその結果に過ぎない。労働をやめれば環境問題はおそらく解決する。
※といっても、正直ほとんどの人にとって環境問題なんて眼中にないだろう。ところが、労働をやめれば自然と環境問題が解決されると考えたらどうだろう? あなたが我慢することはなく、むしろ我慢から解き放たれることで環境問題が解決するのだ。co2が温暖化の原因かどうかは僕にはよくわからないが、どっちにしろ労働を止めれば勝手に大気中のco2は減るのである。その方がいい。
【その5】労働以外の活動ができないから
残念ながらこの社会では人の役に立つことをしていたら、金を稼げない傾向にある。道端でゴミ掃除をしても金を稼げないし、飢えた子どもに食事を与えても金を稼げない。あるいは、労働の無意味さを主張し、人類を救うための有益な文章を書いていても、金にならないのである。
しかし、必要もないウォーターサーバーを売りつけたり、街路樹に無断で除草剤を撒いたり、部下にパワハラLINEを送りつけたり、タワーマンションを転がしたり、無駄な会議で部下たちを退屈の泥沼に沈め込んだりすれば、なぜか金を稼げる。労働とは、往々にしてこのような悪行へと成り下がっている。サラリーマンであれば、自分の会社の悪行を1つや2つどころか、無数に挙げることは容易いだろう。
残念ながら人々は労働に大半の時間を奪われており、退屈に耐えながら無意味な悪行に手を染めなければならない。その結果、有益な行為を行う可能性が高い余暇の時間が失われているのである。
ここで、想定されるのは、「労働の場合、プロジェクトは責任感を持って完遂されるが、余暇で立ち上げられたプロジェクトは完遂されない(ゆえに余暇が社会にとって有益な営みを誘発することはない)」という反論があり得る。だが、労働に時間の大半を割かねばならない状況が、余暇の活動から責任感を奪っていると考えることもできる。というか、おそらくそうである。
労働を最優先するあまり、僕たちは他のことができない。さっさと労働をやめればいいのである。
【その6】楽しくないから
そもそも労働は楽しくない。楽しくないことに1日8時間(あるいは、大半の人はそれ以上)も取り組むことは、普通に考えて良くないことである。
もし他の条件が同じで、楽しくないことに8時間取り組むか、楽しいことに8時間取り組むかだったら、後者の方がいい。そのことに反論できる人類は存在しないだろう。
そして他の条件は同じではない。楽しく物事に取り組んでいる方が、生産性が高いのである。楽しい物事に取り組む方が、社会の役に立つ可能性が高いのである。つまらない仕事に延々取り組むことは、社会に害をなしている可能性が高いのである。
ならばみんなが楽しい方がいいに決まっているのである。
■労働したくない=怠惰ではない
労働が楽しくないのにはいくつか理由がある。1つには無意味(あるいはクソ広告のように人に迷惑をかける行為)であること。もう1つは他者の命令に従わなければならないことだ。
仮にその仕事が無意味ではない、工場でサンドイッチを作るような仕事だったとしよう(食料廃棄率は4割ほどなのでそういう観点からは無意味なのだが、一旦は必要だと考える)。それでも、他者の命令系統のもと9時から5時まで(あるいはもっと長時間)作業し続けるのは苦痛である。
一方で、友達や家族とピクニックするためにサンドイッチを拵えるという工程ならどうだろう? 我慢しながら嫌々作業する人はいないはずだ。楽しいピクニックに想いを馳せながら、そこに自分が貢献できる喜びを噛み締めながら、サンドイッチを作ることができる(そもそも労働の時間がなくなればコンビニで大量生産のサンドイッチを買う必要もなくなるのである)。
他者の命令ではない形であるなら、その作業は苦痛ではない。いちご狩りに行きたければ半年も前から予約しなければならないにもかかわらず、いちご農家に就職する若者が極端に少ない理由はこれである。
ニートは誰かの役に立つことを嫌がっているのではなく、誰かに命令されることや、無意味なことをしなければならないことを嫌がっている。ニートは決して意味のある貢献をすることを拒否しているわけではない。
例えば体育の授業を思い出して欲しい。体操に使うでっかいマットをみんなで運んでいるとしよう。自分たちだけが協力することなく腕組みをして突っ立っているのと、みんなと一緒になって運ぶのと、どっちがいいか考えて欲しい。例えば手を添えるだけであっても、運びたいと思うのが普通ではないだろうか?
みんなが役に立っているのに、自分だけ役に立っていないという状況を受け入れるのはむずかしい。かなり無理して「俺は体育なんかしたくないから、手伝わない!」「ふん、別にお前ら手を添えてるだけなんだからいらないだろ?」とかそういう言い訳を心の中で反芻せずにはいられないのである。
そろそろ認めるべきだろう。人は誰かに貢献したいという欲望を持っていると。それは食欲や睡眠欲や性欲などと同列か、あるいは場合によってはそれ以上の欲望なのである。
■人間は命令されたくない生き物
ところが、これで「男子、手伝ってよ!」と命令されたなら話は変わってくる。絶対に手伝ってやるものか!という感情が芽生えてくるのだ。
以下のツイートも、僕の主張をバックアップしているように思う。
ゲームを嫌いにさせる方法は、この意味で示唆的である。人は命令されたり、管理されたりすることが嫌なのであって、ゲームそのものが嫌いなのではない。
同様に、人は命令されたり、管理されたりすることが嫌なのであって、誰かの役に立つことそのものが嫌いなのではない。
故にニートは怠惰であるという主張は成り立たない。なぜなら、彼らは命令されたり管理されたりすることを拒否しているだけであって、誰かの役に立つことを拒否しているわけではないからだ。
想像してみよう。1億総ニートの社会を。
1億人の365日が余暇であるなら、みんなでワイワイ盛り上がりながら家を建てたり、道路を整備したり、畑を耕したりするだろう。
■別に、役に立つ必要はない
このようにお伝えすると、あたかもニートは地域のボランティアに参加するのが当然の義務であると主張しているかのように捉えられるかもしれないが、そうではない。
好きなことをすればいいのである。ゲームをしてもいいし、延々とウィキペディアをクリックしてもいいのである。
あなたが好きなことをしていれば、少なくともあなたは幸福である。あなたが幸福なのであれば、それは世界にとって有益だと考えられる。
それに労働は悪行なのだ。労働をしないというだけで、すでに社会の役に立っている。
そもそも、役に立つとか立たないとか、そういうことを常に考えなければならない必然性はない。狩猟採集民の大半は1日3時間とか4時間しか狩猟しないというのは有名な話だが、その狩猟も実を言うと大して得るものはないのである。
現代の研究によると、狩猟に消費するカロリーと、狩猟で得られるカロリーは良くてイーブンか、多くの場合は赤字らしい。それでも彼らは狩猟に出かけるのである。要は遊びである。彼らはきっと狩猟を労働だなんて感じていない。
かたや僕たちが生きる社会では、「役に立つことをしなければ! 食い扶持を稼がねば!」と鼻息を荒げたサラリーマンが必死で残業しているのである。高度にテクノロジーが発展した現代に、である。馬鹿である。
役に立つ必要はない。好きなことをすれば良い。役に立つかも知れないし、役に立たないかも知れないが、そんなことはどうでもいいのである。
■怠惰とはなにか?
怠惰とは、特定の義務との関係でしか生じない。特定の義務を遂行すれば勤勉であり、遂行しなければ怠惰であると定義される。
しかし、その特定の義務は果たして正当性があるのか?という問題について真剣に考えなければならない。
現在の社会では、特定の義務とは「労働」であり、怠惰とはおおむね「労働しないこと」を意味する傾向にある。先述の通り労働の正当性は既に失われている。
ならば、労働という義務を拒否する権利は万人に与えられている。義務に同意していないのならば、それは怠惰とは呼べない。
逆に僕たちは主張したい。
労働を批判し、拒否することこそが正義なのであり義務である。つまり、労働をすることは、義務の放棄であり、怠惰である、と。
■労働至上主義者を「労働ナチス」と呼ぼう
ここまで見てきた通り、労働とは悪行である。人々を苦しめ、環境を破壊し、ときに人の命を奪う。過労死。事故死だけの話ではない。世界ではいくら働いても豊かになれない農民が娘を売り飛ばすような事態も起きているのだ。労働を否定することは正義であり義務である。
それにもかかわらず労働を押し付けようとする人々は無数にいる。「働いたくない? 甘えるな!」とお説教してくる50代の中間管理職を見つけることほど、簡単なことはない。初代ポケモンの短パン小僧よりも登場頻度は高いのである。
さて、ここで20世紀前半のドイツでナチスが政権を獲得したことに思いを馳せよう。後世からみて明らかな悪であっても、当時を生きる人々の目にはそれが正義に映るという事態は歴史上何度も起きてきた。奴隷制。魔女狩り。十字軍。太平洋戦争。
今となっては僕たちは「なんでドイツ人はナチスに投票したんやろ? アホちゃうか?」と岡目八目で馬鹿にするが、五十歩百歩である。馬鹿にするような人々は当時のドイツに生きていたら、大声で「ハイル、ヒトラー!」と叫び、ヒトラーを批判する人がいたならば「けしからん!」と非難していたに違いない。なぜなら、現代の労働という明らかな悪に対して、批判の声をあげていないからである。
僕たちは、当時のドイツ人がナチスを批判するという道徳的な責務を放棄していたと感じている。同じように、100年後の歴史家は、現代の僕たちは労働を批判するという道徳的な責務を放棄していると感じるだろう。
ならば、僕はこのように提案したい。この期に及んで労働至上主義を唱える人々を「労働ナチス」と呼ぼうと。
■ニートとは正義のレジスタンスである
労働社会は現代のホロコーストである。
人間の自由を踏み躙り、その存在価値を貶めている。僕たちの大半は、「お前たちは怠惰なのだから命令に従え」と声を荒げる労働ナチス党員たちに屈服し、人によっては労働ナチスに入党している。
ならばニートとは現代のレジスタンスである。不服従を通じて抵抗しているという意味で、ガンジーのごとく、権力に異議を申し立てているヒーローである。
これが僕の「新しい労働哲学」である。
※ここに書いたのは簡易版である。詳しい内容は下記も参照して欲しい。
■僕がやりたかったこと
ニートを正当化する理論は、これまで存在しなかったか、あったとしても中途半端なものだった。
どこまでいってもニートとは後ろめたい存在であった。
しかし、僕が表明した「新しい労働哲学」によって過去のパラダイムは転換された。ニートこそが正義である。労働は悪行である。と。
もちろん、このことが即座に万人に受け入れられ、革命が起きるようなことはないだろう。
しかし、「新しい労働哲学」はニートやニート予備軍たちに対し、自分たちが正義のレジスタンスであるという新しいアイデンティティを提供する。自分たちが正義であることを知った人々は強い。歴史が証明する通りである。
「新しい労働哲学」は、労働を撲滅するために全国民へのベーシック・インカムが必要であると主張する。労働しなくても食いっぱぐれることがないのであれば、労働(悪行)ではなく、真に人に役立つことや、真に自分がやりたいと思えることに没頭できるはずだ。そうなった社会の方がいいことは、ここまでの文章を読んでくれた人なら理解できると思う。
財源のことや、人々のモチベーションのことなど、細々とした不安点に対する回答は長くなるので割愛するが、この閉塞しきった労働社会を突破するためにこれ以上の方法を僕は思いつかない。
※ベーシックインカムについてはこちらも参照
ベーシック・インカムは価値観を変えるが、価値観が変わらなければベーシック・インカムは実現しない。「人は怠惰」と思っているならばベーシック・インカムに反対せずにはいられないからである。
この文章を読み、納得してくれたなら、それは社会の価値観が少しだけ変わったことを意味する。あなたを含めて、1人ひとりの価値観が社会を作っているのだから。
そして、あなたが自信を持ってニートを肯定し、ベーシック・インカムに賛成してくれること。それは、労働ナチスの撲滅につながる活動なのである。
■あとがき
僕はニートではないのだけれど、ニートマガジンというマガジンに寄稿させてもらうことになった。この記事はその第一弾である。
ニートマガジンとは、ニート的な集合知であり、ニートの閉塞感を打破するコミュニティでもあり、さらには潜在的なニートを含めた人々の連帯を生み出すハブでもあるようだ。ニートでなくてもOKということだったので、僕も参加することにした。
なぜ、僕は参加したのか? それは世間一般に流布するニートや労働に関する価値観の抜本的転換が必要だと感じているからだ。
僕は常々疑問に思っていた。ニートが後ろめたい気持ちにならなければならないのはなぜなのか? むしろ、褒め称えられるべきではないだろうか?
彼は朝から晩まで営業電話をかけて人々の時間を台無しにすることはないし、会議のための会議で部下を疑心暗鬼に追い込むこともない。
医師免許という現代の呪術師の仮面をつけて原価数百円の注射で何万円もぼったくることもない。インターネットを広告まみれにすることもない。判断能力のない年寄りを騙して必要もない外壁塗装を売りつけることもしない。お店の前に除草剤も撒かない。ゴルフボールで車をベコベコに凹ませることもない。
幼気な少年のちんぽを強引にしゃぶることもない。不安を煽って必要もない保険を売りつけることもない。困っている人を助けるための助成金を掠め取る貧困ビジネスもやらない。砂漠を売れ残ったシャツでいっぱいにすることもない。アマゾンの原生林を切り開くこともない。
とはいえ、最近はニートにも同情票みたいなものが集まってきた。「資本主義や競争社会から抜け出して生きるのも、まぁひとつの選択肢としてアリかもね」みたいな雰囲気は漂っている。
しかし、ニートはあくまで「労働=当たり前」という価値観のメインカルチャーに対する、サブ・サブ・サブカルチャーのポジションを与えられたにすぎない。「本来働くべきだけど、それについていけない人はニートになってもいいかもね、本来は働くべきだけど」というわけだ。
僕はもっとラディカルに、根本的な価値観の転換が必要であると感じている。
ニートこそ正義で、労働が悪なのだ。労働することは当たり前ではなく、奴隷制や戦争のように1秒でも早く無くすべき人類にとっての負のレガシーなのだ。
労働を擁護する人々は「労働ナチス」なのだ。
これは、物議を醸す言葉遣いである。しかし、僕は物議を醸したいのである。
毒にも薬にもならない議論でお茶を濁したくはない。専門家同士にしか伝わらない抽象的な言葉(「コミュニズム」みたいな)をジメジメした古本屋の奥でやりとりして悦に入りたくもない。
そして、こういう僕の議論が実際のニートにどう受け入れられるのかも気になっていた。まぁ色々あって、参加することにしたわけだ。
月に2~3回くらいは書いていきたいと思う。では。