こんなにも人から受け入れられる死があるのか?
タイトルだけ見ると、すごいむごいことを言っているように感じられそうです。でも、今私の中のストレートな感情を表現すると、その一言に尽きるのです。間違いなく。
(母の弟にあたる)タモツ叔父さんが亡くなったという知らせを受けたのが、今週日曜日の昼頃でした。
この時期に県外へ移動することはどうなのか…と思いつつも、やはり身内だけでも全員集まって送り出そう、ということになり、母と二人、月曜から沖縄へ行きました。
現地へ着くと、梅雨は明け、どこまでも青く澄み渡る空。
「めんそ〜れ」と、迎えてくれているなぁ、と。
ここへ降り立つといつも、そんな風な心地になり、心が一気にリセットされる感覚になるのが不思議です。
空港から一気に車を走らせて、親戚一族が住む山原(やんばる)と呼ばれる北へ。そこで、別の叔父さんと合流し、遅めのお昼をとりながら、タモツ叔父さんの最後の様子を話して聞かせてくれました。
うちの母は4人兄弟の一番上で、下には弟にあたる叔父さんが3人います。
その長男が、タモツ叔父さん。
子供の頃。
夏休みになると、時には一人で、沖縄へ半強制的に送り込まれていました。
両親と離れて夏休みを過ごすことも、へっちゃら。
おじいちゃん、おばあちゃん、そして叔父さんたちや、その子供(いとこ)たちが、毎日私を飽きさせることなく、過ごさせてくれたからです。
沖縄の親戚は、みんな一族の絆が強く、私もすぐにその中に受け入れてもらえていました。
でも、タモツ叔父さんは、子供の頃の私から見ても、少し「異質」な存在。
他の叔父さんに比べて、面倒見は決して良くなくて。
昼間は全く相手にしてこないのに、夜の宴会の席では、私を呼びつけ、花札の輪に混ぜ、眠いと言っても寝かせてもらえません。
毎晩のように宴が終わる頃は、おじいちゃんと、タモツ叔父さんが大体、ぐでんぐでんになってその辺にゴロンとなっている。
そんなどうしようもない叔父さんでした。
だけど、叔父さんが話す話には、どこか惹きつけられたのです。言ってることの8割がホラとユーモアで構成されているな、と子供ながらに思っても、残り2割の真実があるから、あなどれない。
ドライブしている時に、米軍のトラックとすれ違う際「今の、叔父さんの友達だ」と言うのを、ふんふんと適当に流して聞いてましたが、ある日、許可証を持った叔父さんと一緒に米軍基地の中を訪ねたことがあります。
自分の顔ほど大きいハンバーガーを買ってもらって食べたり、コインゲームをしたり。叔父さんが米兵と談笑してたり。
幼い頃の記憶だけど、今もあの日見た光景、興奮は忘れられません。
時々そんな風にこちらの意表をついてくる人でした。
妹の結婚式にも、前夜お酒を飲みすぎて寝坊(そんな気は、どこかでしてたのですが…)。
式の前の親戚顔合わせの儀式は、まさかの叔父さん待ち。ハラハラする親戚の気持ちをよそに、やがてたばこをプカプカ吸いながら、悠々と登場。
全くもう!とみんなに怒られても、気にも留めない様子です。
ところがいざ式が始まると、親戚の余興で、三線を弾きながら朗々と唄いあげる叔父さんの歌声に、会場全体が一気に引き込まれて、最後はアンコールまでおきたほどです。
人は歳を重ねるごとに、落ち着いていきそうなものですが、叔父さんは、その無茶苦茶ぶりに年々拍車がかかっていきました。酒量も増し、奥さんや子供にも愛想を尽かされ出ていかれる始末。それでも、我が身を省みるどころか、アウトロー加減が増していき、うちの母もたびたび電話で、叔父さんを叱りつけているのを聞いたものです。きっと全く叔父さんの耳には入っていかなかったんだろうけど。
葬儀を終えて、親戚みんなで、そんなタモツ叔父さんの、生前のはちゃめちゃぶりに花を咲かせていて、ふと感じました。
みんな、叔父さんに振り回され、「本当に大変だった」とか「どうしようもない人だ」と言いながら、全員が笑顔なのです。
叔父さんの上積みだけみると、確かにどうしようもないことだらけなのですが、みんなが、つい手を焼いてしまい、放っておけない存在。
だから、時折誰かが「でも心は本当に優しい人だったね」とか「あんな人は唯一無二だ」と、言う言葉に、みんなが頷いていて。
それぞれが、それぞれなりに、叔父さんを愛していたのだな、と思いました。
ガンが見つかっても、病院に入ることを拒み、最後まで好きなお酒を飲み、好きなように生きて命を全うした叔父さん。周りも、その叔父さんの生き方に最後はとやかく言わず、暗黙で尊重してました。
だから、最後は叔父さんの生き方や選択に、全員が折り合いがついていたのだと思います。
本当にはちゃめちゃな叔父さんだったけど、叔父さんが私に教えてくれた生き方、死への向き合い方は、それまで抱いていた感覚と一味も二味も違うものとなり、私の中に大切に残りました。