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宮田登と新世紀エヴァンゲリオン

大変しょうもない話ですが授業準備をしてるときにふと思ったことをメモしておきます。

民俗学者、宮田登(1936-2000)の代表作に『ミロク信仰の研究』(1970)というものがあります。弥勒菩薩(マイトレーヤ)がゴータマブッダの死後56億7千万年後に現れて衆生を救済するという信仰を、鹿島踊や富士講、金華山、鯰絵など様々な民俗資料から明らかにした書籍です。人々は苦難の日常から逃れるために理想的世界である弥勒世の到来を願い、弥勒が下生(げしょう)することに備えた様々な行事や儀礼を発達させてきました。地震や飢饉など苦難の折には一層弥勒世への期待が高まるということで、弥勒信仰は一種の世直し思想やユートピア思想であり、社会変革への動きでもあるわけです。

しかし宮田の解釈では、弥勒下生を「待つ」という民衆の態度は社会変革への主体的な行動ではなく、漸進的で緩慢な変革に向けた受動的な態度であり、56億年後というのは結局のところ訪れることのない未来、言い換えると、結実しない革命である、というものです。ネガティブな評価ですが、大塚英志によると宮田はこの研究を、「60年安保で革命はなぜ失敗したのか、日本人はなぜ革命ができないのか*」明らかにするためにやってきたのだということなので、同時代の「革命」について宮田なりの見解を示した政治的な著作であるとも言えます。

*大塚英志 2021 「1980年代とサブカルチャー——大塚英志さんに聞く」宇野田尚哉・坪井秀人編『対抗文化史——冷戦期日本の表現と運動』大阪大学出版会、pp.323-360.

で、それはいいとして、『ミロク信仰の研究』に収録された元論文の一つに、「「世直し」とミロク信仰」というのがあります。一年に二度正月行事を行うことで強制的に良くない年を終了させてしまう取越正月や、鹿島神宮への信仰行事、大災害がもたらす変革への期待、などを取りあげながら「世直し」の意識について扱った論文で、『ミロク信仰の研究』の根幹を成します。

この論文の中に昭和40年代の松代群発地震のことが出てきます。長野県の松代では当時、地震がよく起こるので弥勒信仰が高まっており、近くの湯田中町では半身が地中に埋まった弥勒菩薩像がとりわけ人々の信仰を集めている、という話です。20世紀後半の話としてもすごいですが、宮田は以下のように述べます。

かつて弘化4年の善光寺平大地震の際、この一帯は弥勒のお陰で被害がなかったので、たちまち流行神になったという。それで松代地震の折もその霊験を願って信仰を集めている。(略)土地の古老の話に、この弥勒は毎年少しずつ伸びて行く、やがてはるかな未来には、全身が姿を現す、このときは、世の中がけいろくう(回禄)になる、すなわち終末とともに新しい世になるという。

宮田登 1968「「世直し」とミロク信仰:日本における「世直し」の民俗的意味」 『民族学研究』33-1, p.43.

ここでふと思い出したのは、松代というのはアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』で確か「第二新東京市」だとかネルフの基地があるだとか、そんな話があったようななかったような…ということです。周知の通り「第三新東京市」は箱根仙石原に置かれているということになっていて、私は昔、なんで松代と箱根なんだろう…と不思議に思ったことがあります。いろいろ調べたら、のちの話の中では設定が変わって実は「第二新東京市」は松本ということになったそうですが、そこはさほど重要ではありません。「第二新東京市」というのは、太平洋戦争中に東京壊滅に備えて大本営の臨時本部が松代に設営されていた、という史実に照らして考え出されたアイディアであることは明らかです。

ではなぜエヴァの中で松代と箱根なのか?どっちも温泉があるし、、ぐらいに思っていたのですが、温泉があるっていうのは大地震の中心になる可能性を有すると言うことでもあり、それがより重要だったんだろうなとこの論文を見ながら思いました。小松左京『日本沈没』にあるように、箱根もまた地の裂け目であり、フィクションの上で描かれる終末が現実に起こるかも?というイメージを人々にもたらすには最適の場所です。そもそもカルデラのど真ん中である仙石原に新たな首都機能を設けるというのは、どう考えても永続的な安定を願うものではなく、戦略的破滅に向けた行為であると思われます。要するに古老が言うとおり、松代も箱根も、「終末とともに新しい世になる」ために相応しい場所だったのだろうなということです。

『新世紀エヴァンゲリオン』は死海文書だの使徒だのと、言葉だけを見るとユダヤキリスト教的世界観で作られているような気がしてきますが、その思想にはなんだか日本的な世直し観が漂っているようです。宮田登の文章を読みながらこのアニメを見ると、20世紀末の終末ムードを背景とした弥勒世の到来をめぐる話、のようにも見えてきます。ということは「やがてはるかな未来には、全身が姿を現す」弥勒というのは、エヴァンゲリオン初号機…などという適当でいい加減なことは、晩年の宮田登がこのアニメを見ていたとしたらどっかでちょろっとエッセーで書いていたかも知れません(知らんけど)。


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