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宮本常一は「調査地被害」論文で誰を批判したのか?

みずのわ出版から宮本常一・安渓遊地『調査されるという迷惑 増補版 フィールドに出る前に読んでおく本』が出版された。2008年刊の初版に3章分が追加されている。

フィールドワークを行う学問が調査先にさまざまな不利益や迷惑、苦痛を与えることについては、近年さまざまな学会・大学で議論され、それを未然に防ぐ施策が調査倫理として制度化されている(アイヌ民族遺骨問題もその一環である)。

しかし宮本の論文はそのような制度以前に「調査地被害」を言語化した希有な文章である(初出は1972年)。改めて読んでみると宮本が当時、何/誰を批判的事例としながらこの文章を書いたのかが推測できて興味深い。

本書第1章では、調査先のコミュニティに迷惑を生じさせてしまったいくつかの例が示されている。名前はぼかしているが、当時の研究者なら誰について宮本が言っているのかすぐに分かるような書き方が多い。例えば昭和23年から宮本も参加して瀬戸内海で行われた漁業関係の古文書調査では、借用した資料がなかなか返されず、「だまされたという思いをした人」も多かったというエピソードがある(p.30)。これは日本常民文化研究所や水産庁の事業と思われ、その後の文書返却については網野善彦の書籍で詳述されている。

伊豆調査の話がいくつか出てくるが(p.18)、これは都立大・社会人類学の調査を指している可能性が高い。調査成果の一端は住谷一彦の書籍に収録されている。

次の記述は直接的には現地コミュニティへの被害を生んでいるわけではないが、当事者の認識や生活の実態を軽視するものとして「調査地被害」の一環として語られている。

昭和22、3年頃であったが、東京大学の経済学部の教授が、地主と小作についての調査を指示しているのを聞いて寒気をおぼえたことがある。村落内のあらゆる現象を、搾取と被搾取の形にして設問しようとしている。(p.25)

これは宮本に言わせると、「調査に名をかりつつ、実は自分の持つ理論の裏付けをするために資料をさがしている」例である。この「教授」が誰なのか明確には分からない。東大経済でマルクス主義・農村研究というと大内力であるが、昭和22年に教授というには若すぎる。となると力の父、大内兵衛だろうか。兵衛と宮本に関しては、渋沢敬三を介して若干の関わりがあったと思われ、佐野眞一のルポでは、戦後公職追放にあった渋沢がこのような出来事に遭遇したということが書かれている。

敬三と岡(正雄)が雨の中を傘もささず梓川にそって歩いていると、向うからコウモリ傘をさした大勢の集団がやってくるのに出くわした。みると、コウモリ傘をさしかけられているのは背広姿の大内兵衛と有沢広巳だった。大内門下のマルクス主義経済学者の有沢は二高で敬三の一級下にあたり、同じ二高出身の岡とも顔見知りの仲だった。
二人は信濃毎日新聞の講演に呼ばれた機会に、上高地を案内してもらっているとのことだった。敬三と岡はその集団とすぐに別れ、雨の中を歩いていると、大正池のあたりで、後の方から警笛を鳴らしてやってきた黒塗りのハイヤーが、二人をやりすごして通り過ぎた。見ると車には、さっき会った大内と有沢がとりすましたような顔で乗っていた。
敬三はなにもいわなかったが、岡は腹立たしい思いだった。くたびれたリュックサックに地下足袋姿で雨の中を歩く公職追放中の敬三に対し、大内と有沢は、戦後の価値大転換のなかで、天下をとったとばかり大勢の人にかこまれ、ハイヤーのなかでふんぞり返っている。岡は世の転変の激しさと人の心の移ろいやすさを思わないわけにはいかなかった。

佐野眞一,1996, 『旅する巨人』文藝春秋,  pp.217-218

宮本が他の学者をどう見ているか、どう評価しているかについては、かなり渋沢の見方を踏襲しているケースが多い。佐野のルポはかなり脚色が入っているが、それでも渋沢-宮本が戦後の大内にネガティブな見方をしていると考えてもよさそうで、前述の通り批判的に見ていた「経済学部の教授」が大内である可能性は高い。

宮本が国東半島で調査をした際には、その前に調査に来た「立派な民俗学者」が住民を訊問的に調査をした結果、住民はまるで叱られたような気になり、「もう調査されるのはこりごりだ」と言ったという話が出てくる(p.18)。

ここでの「立派な民俗学者」が東京教育大学の和歌森太郎であることは、小林康正が指摘している。

宮本が、そのやり方を「訊問科学」(人文科学)という言葉で皮肉った文脈の中で、あえて国東という具体的な地名を上げたのは東京教育大学の研究者に対するあからさまな当てこすりである。国東半島は東京教育大学がはじめて総合的な民俗調査をおこなった記念となる場所であった。

小林康正, 2024, 「「不知火海総合学術調査団」における「ことば」の位相」杉本星子・西川祐子編『鶴見和子と水俣:共生の思想としての内発的発展』藤原書店, p.136

この調査は和歌森を団長とした1958年の東京教育大学・民俗総合調査である。小林によると、宮本と教育大(現筑波大)の民俗学は対立関係にあった。教育大系民俗学の最大の特徴はオーラリティの排除であったという。要するに、眼の前にいる人々の語りの個別性には関心がなく、語りの集積で見えてくる「民俗」にのみ関心を向け、それを形作るためには現地の人々になんとしても「民俗」に関する情報を引き出さねばならないという気持ちが「訊問科学」に繋がった、というのが小林の分析である。

ここには資料の客観性をどう確保するのかという認識の違いもある。教育大の民俗学者が歴史学的な意味での資料的客観性(それは科学性と言っても良い)を重視したのに対し、宮本の民俗学は、語りが仮に虚実を含むものであったとしても、それ自体語り手の語りたいことであったとすればその全体を当事者的リアリティとして表現していこうとするスタンスを持っていた。それは『忘れられた日本人』に顕著である。

「事実」をどう認識するかという方法の違いは、単に学派の違いと言うよりも研究者個人への批判にもつながっていく。教育大の方では強烈な宮本批判が行われていたようだ。当時の教官であった千葉徳爾の言葉を引きながら、岩本通弥は次のように述べている。

宮本に対する教育大スクールの評価は、千葉徳爾「宮本常一箸「瀬戸内
海文化の基礎」を紹介し、あわせて所感を記す」『日本民俗学会報」28
号、1963年に、最もよく映し出されていよう。「示唆に富む見解」の多さ
を認めつつも、「実証に乏しい」論証法の不備や、海人を民族的に異なる
系統の文化集団のように看倣し、「民族の文化の不変不易」を前提とする
認識に対して、疑義が呈されるほか、「宮本氏のこれまでの蓄積は、近ご
ろいろいろな形で公刊されて世に益している」が、「多忙の間にもこうし
た論文の形での公表が、私たちには最も望ましい」と、結んでいる
(42-48頁)。

岩本通弥, 2009, 「「生活」から「民俗」へ——日本における民衆運動と民俗学」『日本學』29,p.55

要するに教育大の民俗学から見れば、宮本常一は文化の不変不易を強調する論証不十分な学者、ということになるだろう。この対立軸は学史研究において様々な観点から解釈可能だが、それはさておき、「調査地被害」論文が書かれた文脈にはこのような民俗学の方法論的な差異、方向性の違い、といったことが関係していた。それを踏まえて読めば、宮本が誰と戦っていたかもまた見えてくる。

ただし注意しないといけないのは、和歌森太郎・教育大をヒールにして、それに立ち向かう宮本常一というナラティブが定式化されつつあることだ。前述の小林論文は水俣調査で”失敗”した教育大系民俗学者・桜井徳太郎を論じるために強いて宮本を補助線に議論をしているので、両者の差異が強調されてはいる。しかし教育大といっても多様であり、少なくとも和歌森太郎に関しては民俗学史の観点から、まだまだ議論の余地がある。

ちなみに学史的に宮本常一の「評価」を議論した論考はいくつかある。拙著(門田岳久『宮本常一 〈抵抗〉の民俗学——地方からの叛逆』)第2章では、近年の宮本研究なども踏まえてそのあたりについて触れているので興味のある方にはぜひご高覧いただきたい。


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