舞台「凍える」を観て※ネタバレあり
https://stage.parco.jp/program/kogoeru/
十字架に見立てたような、十字の舞台で語る3人の人物。精神疾患を抱え連続児童殺人事件を起こしたラルフ、彼によって娘を殺された母ナンシー、疾患による犯罪を研究する精神科医のアニータ。
それぞれの語りによって殆どが構成される舞台の中で、彼女らがシーンを共にする時間は僅かだ。大きな舞台で、広い観客席の前で、膨大な台詞を語り演じる孤独さ…複雑な役を演じる覚悟に近い気迫も相まって、劇場全体が息を飲むような緊張感に包まれていた。
必要な時期に必要な導きや愛を得られずに、子どものまま大人になってしまったラルフが放つ不穏と狂気と幼さには、罪を犯した者の罪そのものよりも加害性を育んでしまった生い立ちとそれを作ってしまった環境にこそ、罪があるのではと思わずにはいられなかった。罪が悪であることに疑いの余地はないが、罪の始まりに焦点を当てない限り、罪という問い(なぜ事件を起こしたのか?なぜ私の娘が?など)に対する本質的な答えは生まれず、彼を罰するだけでは誰も何も得られないのかもしれない。(被害者にとっては適切に彼の命や人生を罪の代償にすることでしか、救いはないのだけれど…)
この舞台でおそらく最も重要な語りをしていたのはナンシー。説明的な台詞から、彼女の主観的な語りまで、膨大な量の言葉を操り演じ切った長野里美さんには、凄いという表現では収まりきらない感動があった。圧巻だった。そして、ナンシーの語りに登場するもう1人の娘イングリットこそ、実はこの物語の鍵を握る存在なのではと。(記憶が曖昧だけども)ネパールに旅立ったイングリットは手紙の中で、母ナンシーにラルフを赦すことを諭す。一見考えたら有り得ないのではとも思えるが、続くナンシーそしてイングリットの人生が、恨みや憎しみだけで支配されてしまうことは、ラルフが間接的に犯した殺人とも言えてしまう。非常にそして最も難しいことである、「赦し」を行うことで、娘ローナと共にした幸せな人生が確かにあったことを認め、最愛の存在を無くしてから囚われ続けていた自分たちの生自体を被害者という枠から解放し、一個人として未来を開いていくのだろう。
最後にアニータ。精神科医として、研究発表を行う講演の内容に絡めながらラルフと対峙し、彼と関わる構成は場面転換を行わずに物語を進めていくこの舞台ならではだったのではないか。少し狂気じみた淡々さで反抗や自身について語る坂本昌行さん演じるラルフと、研究者としての熱意を持って接する鈴木杏さん演じるアニータのシーンは、会話が殆どない緊迫した空気の中では独特だった。アニータもまた、良心の呵責という範囲の中での小さい罪を抱えているのだが、それをラルフとの関わりではなく最後の最後に邂逅するローナとの会話で観客に吐露する見せ方(構成)によって、罪を背負わないラルフ、罪を背負い続けるだろうアニータ、赦すことで前者2人よりも一段何かが高くなったようなローナ、3者の対比がこの舞台の最大の問いかけだったように思う。
話が前後するが、直接的に物語には登場しないイングリットの言葉とアニータがローナに語る2つの場面からは、人は必ずしも大なり小なり罪を背負って生きていくことを意識させられる。その罪を認めた上で人生を歩み続けることが償いであるのだろうし、罪を背負う人を赦すことが救い(恨むだけが人生ではないのだという気づき)に繋がっていくのだろう。
だからこそ、ラルフが迎える結末の救いのなさにもどかしさを感じずにはいられないのだが。
罪とは、それを犯すとは、そして私たちは罪とどう生きていくのか。
この舞台を観た人は「凍える」というタイトルから、最後に何を感じたのだろう。
自分自身は、人が誰しも抱える罪の中で暗中模索しているその瞬間の救いの無さを示しているのではないかと…。あるいは、赦しという寛容さを持って罪に打ち勝とうとしている存在の強さですら全く太刀打ちできない、巨大な狂気を前にしたときの絶望感なのかもしれないと。凍えた先に光があるのか、凍え死んでしまうのか…どちらにもとれるこのタイトルにまで魅了された2時間半だった。