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視線

スチール製の重いドアを、上半身を後ろに反らしながら引き開ける。窓から差し込む夕陽でオレンジ色に照らされた部屋は、明るいのに空気が重かった。

「ただいま」
「元気だね」と褒められることも、「なにかあったの?」と心配されることもない声で言う。
「隆茂くん、おかえり」
キッチンに立った母さんが棘のない声で言う。
「学校どうだった?」
「楽しかったよ」
顔の筋肉を動かして笑顔を造る。
「よかった。休み時間はドッチボールとかするの?」

奥の部屋のソファに座っている父の様子をうかがう。においがしないということは煙草を吸っているわけではなさそうだ。

「今日はやってないかな。でもみんな好きだよ」
「やっぱり、そうなんだ~」
母さんが大きく笑ってみせた。
奥の部屋にいる父が立ち上がった。こっちに向かって歩いてくる。

あ、ミスった。

「宿題はやったのか?」
目の前に立ち、見下ろす父が濁った太い声で聞いてきた。
「これからやる」
すぐさま父の手は岩のような拳になり、僕の左の頬に命中した。その衝撃で僕は後ろに倒れ込む。
「さっさとやれ」
そう言って父は奥の部屋に戻っていった。

「大丈夫?」
母さんが駆け寄ってくる。
「大丈夫、大丈夫」
僕は笑顔を造って立ち上がる。
「宿題するからほっといて」
心配している母さんを傍目に見ながら、リビングのテーブルに座った。

…やっと、一人になれた……

僕は頬の痛みしか感じていなかった。



「それじゃあ行ってくるね。良い子で待ってるんだよ」
いつもの通りに玄関を出たのが、最後に見た母の姿だった。

夕方になっても、夜になっても玄関のドアを見つめていた。そのドアが開いたとき、入ってきたのは額に汗のついた父だった。
「隆茂!!大丈夫か!?」
そう言って力強く抱きしめてくれた。

僕は父の家に行くことになった。元々、父とは別居していた。
母の家が借金を作ってしまい父はそれを肩代わりした。借金を返すために父はとにかく働いた。それで忙しくなったので別居することになった。しかし、母から突然の連絡を受けて僕を引き取ることになったらしい。

その後、母とは連絡がつかなくなった。
父はひどく心配していた。毎日毎日情報を集め、母を探していた。

「ふざけるなっっ!!!」

僕が父の家に来てから何ヵ月も経過していたある夜、父の怒号が聞こえてきた。
母の情報がきたらしい。しかし、それは母が再婚していたというものだった。

肩代わりした借金を返すために働いている間に、母は裏切って再婚した。おそらく、僕はその再婚に邪魔だったのだろう。
怒り狂った父は、写真など母の痕跡を全て処分した。唯一の痕跡である僕を残して。

親戚中から「カワイソウな子」と言われるようになった。
しかし、その「カワイソウ」は意味が抜け落ちた、本当にそう思っているわけではないというのが分かってしまうものだった。
そんな抜け殻の言葉を、僕は親戚と会うたびに頭から浴びていた。



父と暮らすようになってしばらく経ち、父が再婚して今の母さんが来た。

三人暮らしになって少し経ったある日の夕食。
目の前に向かい合って座っている母さんは静かに箸を動かしていた。その隣の父は何かの雑誌を読みながら食べている。

「ごちそうさまでした」
僕は立ち上がった。
「もう食べないの?」
「うん」
僕はごはんを残した。今日はおやつを食べていない。ただ、お腹がいっぱいになっただけだ。

「私じゃ、ダメなのかな……」
母さんがうつむきながら呟く。
「せっかく母さんが作ってくれた料理を残すんじゃない」
父の放ったその言葉は、僕の身体を芯から凍らせる響きを持っていた。

その場で動けなくなった僕は、父が立ち上がり近づいてくるのをただ見ていた。目の前に立った父は、何も言わずに氷のように硬い拳で僕を殴った。
「ちょっと、何してるんですか!?」
母さんが強い口調で言う。
「これが俺の教育だ。お前が口を出すことじゃない」
倒れた僕は父を見上げていた。



母さんは優しかった。
僕が寂しくならないようにとよくかまってくれた。
父は怖かった。
不機嫌になると、「教育だ」「しつけだ」と言って僕を殴った。

ある時、僕が変顔してそれを見た母さんが笑っていた。それを見ていた父は不機嫌になり僕を殴った。

母さんの気持ちが僕に向いていると父は不機嫌になった。僕に母さんを取られると感じたのか、それとも、僕を通して見えた自分を裏切った女に取られると感じたのか。真意は分からないが僕を敵視しているのは明確だった。

僕は父の顔色をうかがいながら生活するようになった。そして、母さんの顔色もうかがうようになった。父の機嫌を損ねないために、母さんの気持ちが向きすぎないようにしなければいけない。しかし、母さんと会話をしないと、今度は母さんがコミュニケーションを取れないと悩むようになる。
僕は、なるべく二人の視界に入りたくなかった。



神経をすり減らす生活がはじまりしばらく経ち、弟が産まれた。その翌年妹が産まれた。
父も母さんもとても喜んでいた。そして、僕も嬉しかった。弟たちの世話を手伝った。弟たちの、敵意でも無責任な哀れみでもない、ただ見てくれているだけという純粋な瞳が嬉しかった。

しかし僕の生活は変わり果てていた。
母さんは子育てで僕にかまう時間はなくなった。さらに、父が弟たちに向ける目が僕とは違うことに気づいた。木漏れ日のようにやさしい光を宿したお父さんの目だった。裏切られる前の父の目だった。もう僕には向けられることのない父の目だった。

父が妹を抱っこしている。その顔を母さんと母さんの膝の上に座った弟が覗き込んでいる。
理想の家族の姿だと思った。
そこに僕の姿はなかった。

……あぁ……僕は生まれてくるべきじゃなかったんだ………



弟たちが産まれて僕は祖父母の家に預けられることが増えていった。
相手が祖父と祖母に変わろうと、僕のなるべく目立たないようにする振る舞いは変わらなかった。
僕は誰にも心を開けなくなっていた。

今日も祖父母の家に来ている。今は祖母と二人でいる。二人の間に会話はなく、僕は窓越しに空を眺めていた。

どこまでも抜けるような青空。行ったことのない場所まで広がっていて、おそらく行くことのできない場所までつながっている空。この空を通ればここではないどこかへ行ってしまえるだろうか?

……どうせ行けない……だったら……

「死にたい」

言葉が口からしたたり落ちた。

「隆茂」
後ろに祖母が立っていた。ゆっくりとしゃがみ、僕の両肩をしっかりとつかんだ。真っ直ぐに僕の眼を見ていた。その視線は僕をとらえて離さなかった。

「本当に死にたいなら、私も一緒に死んであげるからね」

全身が熱くなっていく。
胸の底から強い感情が溢れ出す。

おばあちゃんを死なせたくないっっ!!!

自分のせいでおばあちゃんが死ぬのは嫌だ。

おばあちゃんが生きている間はがんばろう。



中学高校と極力自己主張をしないように過ごした。進路選択は早く稼げるようになりたかったので職業訓練校を選んだ。機械が好きだったのでその道を選んで自動車整備士になった。
“生きる”ことが目的だった僕は特にやりたいこともなく、なんとなく選んでいた。だから自動車整備士を一緒にしていた友達に自衛隊に誘われたときは、すぐに受け入れた。


起床ラッパの音で跳ね起きる。すぐに掃除をすませ、食事をすませて訓練に備える。
訓練は思ったほど辛くなかった。もちろん大変なものもあるが、自分よりもできない人がいて、その人が罰をくらっている間は休むことができていた。
むしろ、武器を扱うのはおもしろかった。普通だったら使えないので新鮮だった。

そして、武器を使えたら死に場所を探すときに役立つかもしれないと思っていた。戦場で人助けをしながら死ねるかもしれない。
せっかく、自衛隊に入ったので人助けをしたかった。人助けをして自分に価値があると思えたら、生きたいと思えるかもしれない。そんな期待もあった。


休みの日の談話室はどこか寂しい。普段は一日の疲れを紛らわす喧騒に包まれているが、今は空気が動くことはほとんどない。
そんな談話室で同僚と二人で並んで、一人の先輩に向き合っている。この先輩は実際に戦地に行ったことがあり、その話を聞かせてもらえることになった。


「どうしても忘れられないのはこの話だな」

前線に派遣されたとき、目の前に傷を負った人がいた。歩けはしなかったがまだ少し動いていた。もがくように動かしていた手が“まだ生きたい”って言っているみたいだった。

「でも、俺たちにはどうすることもできなかった」

自衛隊は専守防衛。敵から攻撃を受けるまで攻撃をすることができない。助けるために出ていったら確実に敵から撃たれる。

「結局できたのは別の国の軍隊にお願いすることだけ。その時は何のために自衛隊に入ったか分からなくなったな」
そう言っている先輩はどこか遠くを見つめていた。

自衛隊に入って人助けをして生きる価値を見つけたかった。でも、それはできないと分かってしまった。
それならもうここにいる理由はない。
僕は自衛隊を辞めた。



脱隊後、前職の時の先輩に呼んでもらって自動車整備士に戻った。ただ生きるために働く。生きたい理由なんて見つかりそうにない。
そんな自分でもゲームは好きだった。毎晩のように友達とスカイプをつないでゲームをしていた。
生きるための時間稼ぎかもしれない。



不自然なほど白い廊下を早足で行く。病室のドアをガラガラと音を立てて開けるとすでに集まっていた親戚が一瞥する。そしてすぐにベッドの上で寝ているおばあちゃんに目線を戻す。

おばあちゃんがそろそろ危ないという連絡をもらって急いで来た。ベッドに近づく。おばあちゃんの胸が小さく上下していた。

おばあちゃんに本心を聞いてもらいたい。でも今は言えない。おばあちゃんとは違って、無責任に言うだけ言って向き合ってくれることなんてなかった親戚に聞かれるなんて嫌だ。

その本心をおばあちゃんに言うことはできなかった。いや、言えなくてよかった。
まだ死にたいと思ってるなんて……。

眠ったようにしているおばあちゃんのまわりを囲んで見守っている。
すすり泣く声が聞こえる。鼻声で「苦しまずにいけてよかったね」と言う声が聞こえる。親戚中が泣いている。

あの日、向き合ってくれたおばあちゃんの眼を思い出す。
それでも僕は涙が出なかった。悲しいと思えなかった。
感情の出し方なんてとっくに忘れていた。



目の前のモニターに映っている人間は銃を持って走っている。ジャンプして塀を跳び越え家の中に入る。窓から外を見て敵を見つける。銃で撃って倒す。
僕は機械のようにゲームをしていた。

「もう生きる必要ないんだよなぁ」
おばあちゃんがいなくなって生きる目的はなくなっていた。それでも約束をしていたのでゲームはしていた。
「また言ってるよ」
イヤフォンから男の声が聞こえる。
いつも一緒にゲームをしている友達。この友達には自分のことをなにもかも話していた。いつもただ聞いてくれていた。

イヤフォンの向こうで息を吐き出す音が聞こえる。
「お前、彼女作る気ある?」

突然だった。
……カノジョ……カノジョ………彼女……
今までいなかった彼女という存在に漠然としたあこがれがあったのかどうせ死ぬなら恋愛を経験してみるのも悪くないと思ったのか、僕は「やってみる」と言っていた。


紹介されたのはそのゲーム友達の彼女の友達だった。
最初はその子とゲーム友達の彼女と四人でスカイプをつないでゲームをした。
その時の印象は、楽しいときは楽しい、驚いたときは驚いているとすぐに分かるような素直な声をしているな、だった。

悪くないと思ったので直接会った。最初は四人で、そして二人で会うようにもなった。
歯を全部見せてるんじゃないかというくらい口を開けて笑うのと店員にも丁寧に対応してるのが良いなって思った。あと、いい匂いがした。

なによりも眼が好きだった。その子の視線は自分のことを知ろうとしていると十分に伝わってきた。

ずっと一緒にいたい

胸がじんわりと熱くなっていた。


告白しようと思った。
一度だけ二人で来たファミレスに呼んで、向かい合って座った。
この子と付き合いたい。でも自分の過去を隠したままなのは裏切ってる感じがした。だから、今日全部打ち明ける。

母が借金して自分は捨てられたこと。父に虐待されていたこと。家に居場所がなかったこと。死にたいってつぶやいたこと。それと向き合ってくれたおばあちゃんのこと。そのおばあちゃんが死んだとき悲しいって思えなかったこと。生きたいって思えなくなったこと。
全部打ち明けた。こんな不幸話聞きたくないよな。少しでも和らげようと笑って話した。
話しを聞き終えたとき彼女は泣いていた。

「こんな話でなんで泣いてるの?」

「……なんであなたは笑ってるの?」

「もう感情が死んでるんだよ……きっと……」

「あなたが泣かないなら、代わりに私が泣く」

その言葉を言われたとき、ドクンと大きく心臓が打つのを感じた。そして、そこでうまれた熱が血流に乗って全身に広がっていった。身体がどんどん熱くなる。熱い雫が一粒、眼からこぼれた。

彼女の眼を見る。
大粒の涙で濡れた瞳には僕だけが映っていた。



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この小説は【あなたの人生を小説にする権】を購入していただいた木瀬隆茂さんの半生を小説として執筆させていただきました。


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