スチール製の重いドアを、上半身を後ろに反らしながら引き開ける。窓から差し込む夕陽でオレンジ色に照らされた部屋は、明るいのに空気が重かった。 「ただいま」 「元気だね」と褒められることも、「なにかあったの?」と心配されることもない声で言う。 「隆茂くん、おかえり」 キッチンに立った母さんが棘のない声で言う。 「学校どうだった?」 「楽しかったよ」 顔の筋肉を動かして笑顔を造る。 「よかった。休み時間はドッチボールとかするの?」 奥の部屋のソファに座っている父の様子をうかがう
「お世話になりました」 十五年間勤めた会社の最後は、普段通り仕事を終えたという、小さな達成感と大きな疲労感に包まれたものだった。 これからすることがある。それは分かっている。しかし、今の自分には向かっていける程の気力はなかった。 新卒から15年間勤めた物流会社。就職氷河期だった当時に自分を拾ってくれた。それだけでなく、若いうちから様々な仕事を任せてくれた。 就職活動をするまで興味を持つことのなかった物流業界だが入ってみると楽しかった。モノをつくる人
スマホの電源を切る。タオルケットを鼻まで覆う。左半身を溶かすように布団へと沈める。縋りつくようにネコのクッションを抱きしめる。 朝七時。横になったまま、日当たりの悪い部屋の窓から、黄色い世界を見つめる。 隣の部屋のドアが開く。足音がドタドタと鳴る。洗面台で水が流れる。ガチャガチャと何かを取る音がする。足音が階段を降りていく。雨戸が開けられる。歩き回る音がする。鍵を開ける。ドアにつけられた鐘が鳴る。鍵を閉める。ガレージを開ける。車が走っていく。 母が仕事へと出かける
紫雨花(あじさい)が泣いている。 雨にうたれて、大粒の涙を流している。 時折、嗚咽が漏れるように肩を揺らす。 庭に咲いた、たった一輪の紫雨花が泣いている。 弥彦は紫雨花が嫌いだった。 雨を告げているようで嫌いだった。 弥彦はお通を愛している。 お通は紫雨花が好きだった。 庭で咲いた何輪もの紫雨花の前に、雨の中で、赤い傘を差したお通がかがんでいる。 お通はいつまででも紫雨花を見ている。 「もう、中に入りなさい。」 お通に呼びか
これがこの世界のトイレのマークである。手書き感が温かみを出している。 名称は左から、男子トイレ、女子トイレ、そしてストレストイレである。 ストレストイレとは、ストレスを発散するためのトイレである。これは、不況や度重なる災害、ウイルスの流行などにより生活が変えられてしまい、強いストレスを感じる人が急増したため政府が主導で開発したものだ。政府には他にやるべきことがあるのではないのだろうか? ストレストイレは個室で区切られ、見た目は和式のトイレと同じものが一つずつあるだ
むかしむかし、ある山奥にヘンゼルとグレーテルという兄妹が、両親とともに住んでいました。この兄妹はとても仲が良く、いつもヘンゼルがグレーテルの手をしっかりと握って行動していました。 二人のお父さんは木こりをしています。二人はお父さんのことが大好きでした。お父さんはうまくいったら頭をなでながら褒めてくれます。失敗したら本気で叱ってくれます。そして、口癖のように二人にこう言い聞かせます。 「どんな時でも諦めずに考え、行動しなさい。その行動は無駄にならない」 二
むかしむかし、ある村におじいさんとおばあさんが住んでいました。 ある日、おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。おばあさんが川で洗濯をしていると、上流から大きな桃が流れてきました。貧しくて普段はあまりご飯を食べることができないおばあさんは食欲に駆られ、その桃を持って帰ることにしました。 その夜、おばあさんはおじいさんにその桃を見せました。そして。腹ペコの二人は早速食べようと桃を切ろうとした瞬間、 「オンギャー!オンギャー!オンギャー!」
むかしむかし、あるところにシンデレラという女性がいました。シンデレラは、継母と妹の三人で町外れにある小さな一軒家に住んでいました。 「階段の隅に埃が残ってるわよ。それくらい出来て当然でしょ!」 「すいません、お母様……」 「洗濯にどれだけ時間をかけてるの!さっさと終わらせなさい!」 「すいません、お母様……」 「シチューは寝かした方が美味しいっていつも言ってるでしょ!いい加減覚えて!」 「すいません、お母様……」 しかし、シンデレラは、二人からいじめ
ここではオシャレにならなければいけない気がする。 控えめに流れるジャズ。皿にカップを置く音。新聞をめくる音。 すべてに脅迫されているみたいだ。 立花宏輝は木でできたカウンターに座っている。 他には、いかにも常連という客が数人いる。 今までの自分を変えるため、大人になれそうな気がしたカフェにやってきた。 僕はここにいていいんだろうか……。とても場違いな気がする……。 「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーです。」 白髪まじりの長髪を後ろで束ねたマスターが、他の客にコーヒ
語りかけてくる。 海がしゃべって、草が歌って、花が踊る。 空が描いて、風が笑う。 みんなが語りかけてくる。 私もみんなに語りかける。 車輪のようにやりとりをする。 SNS上のカギアカ村のメンバーで、オフラインでの飲み会が行われた。 私は酔っ払うと記憶がなくなる。 あとから話を聞くと、めちゃくちゃ歌って、めちゃくちゃ踊っているらしい。 その話を聞くと毎回、素面とあまり変わんないんだなって思う。 でも、その日のことは鮮明に覚えている。 私の前の席に座ったその男は、よく眠れ
百人が見ている。 正確には、百人がモニター越しに見ている。 「では、どうしていろんなものがある中からスクワットを選ばれたのですか?」 「ジムに来る人は、ダイエット目的であることが多いんだよ。で、ダイエットに効果的なのは大きな筋肉を鍛えることことだから、スクワットを選んだのよ。」 今、オレはインタビュー企画<サツキの部屋>に出演している。 サツキの部屋って何かって? サツキの部屋とはSNS上のカギアカ村で生まれた。たまに相手の話を聞かない女:サツキが、いろんな人にインタビュ