ミステリー小説「創作代償」
あらすじ
「父を殺してください」という殺人の依頼を受け「必ず納得される方法にてお父さんを殺すことを誓います」とその日のうちに快諾する主人公。言葉の裏に隠された依頼人の心から望む殺害を遂行するため、物語は途中14篇の短編小説を挟むこととなる。短編小説を読み終えた後、主人公が仕掛けた驚くべき殺人方法が明らかとなる。
1.父を殺してください
父を殺してください、と約2ヵ月ぶりとなる門掛夕希への依頼人、竹本朋美は静かにそう告げた。
「門掛夕希先生の確かな手腕は存じております。今日は事前に持参するようにと伺っておりました、父の備品を実家から拝借して参りました。ご確認をお願いいたします」
朋美は自身が座るソファの下に置いてあった紙袋から、表紙に“10 YEARS DIARY”と記載がされている黒いハードカバーの日記帳4冊を取り出した。
朋美の一挙手一投足には落ち着きが見てとれる。
それは、今回の様な依頼人はまず持ち合わせることがない気品からくるものだと、テーブルを挟み朋美と対面する畠山桃春は推察した。
彼女の身に付けている柄のない菫色の着物は、乱菊の染め帯びも手伝い見慣れない者にとっては、高飛車にさえ感じさせる高位性を誇示するだろう。
しかしそれは、現代での着物という希少性に胡坐をかいいわば乱暴な気品とも言える。
馬子にも衣裳。
そんな風に陰で嗤われるような半端者とは対極となる位置に、40代前半の齢で朋美は既に到達していた。
着物の上に羽織る品格、それを身につけるに至った朋美の日常に桃春の興味はひかれた。
朋美は持参した日記帳4冊を、桃春へ向け並べ終えると紙袋を折り畳み、膝の上に載せていた濃紺の和装バックへとしまい込んだ。
“ご確認をお願いいたします”など言ってはいたが、どうやらテーブルの上の日記帳を持ち帰る気持ちは朋美にはないらしい。
桃春は、自分のことを門掛夕希と誤認している朋美へ対し訂正をしようとしたが———朋美の一連の動作がまるで事前に練習してきたかのような淀みのないものであったため、完全に機会を失ってしまった。
しかし、桃春はその方が都合がいいかもしれないとすぐに思考を切り替えた。
普段は依頼人から詳細を聞き、桃春がまとめた内容を夕希へと伝える。
夕希は今回の様な仕事の依頼の場合、積極的に依頼人へ関わろうとしないため、このような手間がとられる。
だからこそ依頼人は仲介者である桃春に対し、(夕希さんへ伝え洩れがないように———)と、夕希との直接の対面では内に隠したであろう、依頼理由となる遺恨や慕情、そして思惑といった類いをある程度正直に話すことを強いられる。
これは夕希にとって大きな利点であるが、桃春にはこの真意を伝えてはいない。
理由は2つあり、第1に夕希は桃春が依頼人から感じとる印象、雰囲気を仕事をする上で何よりも大事にしていたからである。更に依頼人のそれらを形作る根幹にいち早く気づき、その点について追求できる技量が桃春にはあった。
そして、その力が夕希が仕事をする上で大きな役割を担っている。
第2に桃春に夕希のこの処世術を素直に話した場合、彼が余計な事を依頼人に口走る可能性は勿論、彼本来の自然体のがさつさが損なわれてしまうことが目に見えていたからである。
端的に言うと、桃春に依頼人を観察しながら駆引きめいた会話を行うのは無理であると、夕希は判断を下しているのである。
しかし今回、全くの偶然ではあるが夕希の思惑を逸れ、桃春が突飛な行動に打ってしまった。
その結果後日、夕希が朋美に対し依頼を遂行した〝代償〟について桃春も一端を担うこととなった。
2.猫の髭
城跡のある仁木松市は別名“坂の町”と評される。
山頂を切り崩し、現代ではただの見晴台となっている城跡から麓を見下ろすと、仁木松市民の生活起点となる商店や飲食店の屋根が、補色による視認性の悪さなど気にもせず点在しているのを確認することができる。
城跡から続く傾斜の異なる多くの坂は曲線や直線を幾度も織り交ぜ、アスファルトの灰色を麓へと届ける。また同時にそのほとんどの坂が麓への道すがら、両脇を灰色や茶色の屋根瓦の中に、少しばかりの赤色や緑色といった屋根が指し色のように混在する住宅街の彩りの中を進んでいる。
大小は異なるがどの坂も、まるで色を生み落としながら進む大蛇のようでもある。
その大蛇の生み落とした色の中でも、一際光沢のない黒い屋根が門掛夕希の職業補助を行っている古民家「猫の髭」であった。
「猫の髭」は、仁木松市の中でも有数の傾斜が激しい坂の頂上付近に建っていた。
建ってはいるが、普段坂を往来する人々の中で「猫の髭」存在を知っている人は稀である。
しかしそれは坂と「猫の髭」を物理的に分断する築地塀の存在のせいだ。
築地塀は地面から大人の背丈ほどまで黒い蛇腹状の装飾がされていたが、修繕を行う判断を下すには遅すぎるほど随所にひび割れが見られた。
その様相は、築地塀が造られてから仁木松市の情景の一部分として馴染むには十分すぎる年月の経過を暗に示していた。
人々にとってこのひび割れた築地塀こそ見慣れた坂の一部であり、隔離している古民家の存在を不詳なものとさせた。
そのため、仁木松市で生まれ育った朋美が「猫の髭」の住所と古民家の外装を聞いた際、(そんな古民家があそこにあっただろうか?)と、疑問が浮かんだのも仕方のないことであった。
朋美は手荷物のためタクシーを利用し、築地塀の一箇所窪んでいる門扉前で降車した。事前の説明で聞いていた通り、門扉に鍵はかかっておらず敷地へと歩を進めることができた。
そして、朋美の背で門扉が音をたてないようにと、叶わぬ努力をもってゆっくりと築地塀へと還った。
門扉が閉まる音が朋美にはずいぶん遠くで鳴っているように感じられた。だがなぜか振り返る気にはどうしてもなれなかった。
築地塀の中の敷地は白い玉砂利が敷き詰められており、来客の誘導を目的としての正方形の敷石が古民家の玄関へと伸びていた。
それは庭と称するにはあまりにも殺風景であった。
敷地の広さから考えるに、ガーデニングなどを行うにも十分な面積を有しているが、地面には一面白い玉砂利だけが敷かれているだけである。
いや———、この庭を飾り立てる唯一のものが玄関の前に存在している。
朋美は古民家の玄関前まできて、漸くその存在に気づき、はっとした。
それは掲示部分が黒板となっているアンティーク調の立て看板であった。
立て看板には白色のチョークで「猫の髭」という文字のみ書いており、朋美の訪問先で間違いないことを証明する。
立て看板の字は小学生が書いたかのようなバランスが悪く、お世辞に綺麗とは言えない代物であったが“敢えて”そのようなデザインとして掲示している物なのか、朋美には判断がつかなかった。
それはきっと、立て看板のすぐ背にある古民家の外観のせいでもあったのだろう。
1階建てと思われる古民家は、黒漆喰で染められた外壁の板に囲まれ、地面から刷毛で線を引いたように緑青色のカビか苔ともわからないものが群生していた。
古民家の屋根は玄関からは確認できず、朋美には古民家が大きな直方体のようにしか感じられなかった。
庭の白い玉砂利。
玄関の立て看板。
そして直方体の黒い古民家。
(まるで———忘れられた墓石みたいだ)
朋美がそんなことを想起したのは、自身の依頼内容に引っ張られたからかもしれない。
その想起した感情に朋美自身が気付く前に、彼女は玄関の呼び鈴を押していた。
3.ワインレッドの背中
こもったチャイムの音を2回聞き、「少しだけ待っててくださーい」と、玄関に向かい桃春は叫んだ。しかし身体はくたびれたレザーソファの上に投げ出されたままであった。
暫くすると、3度目のチャイムが鳴った。
桃春の叫んだ願いは壁掛け時計の秒針が1周するより早く断られた。
桃春は漸くソファから立ち上がると、「もう少しだけ待っててくださーい」と、今度は少し怒気を含め玄関へ叫んだ。
そして机の上に投げ出されていたボイスレコーダーの電源を入れてから、部屋の隅に移動し、積んである衣類の山からまだ着れそうなものをゆっくりと探した。
桃春のまっすぐな黒髪は肩に届くほど長く、寝起きであることを差し引いたとしても、清潔感は元からさほど感じられない。しかし、顎の髭は赤ちゃんの爪の長さほどで揃えられ扇形に整えられており、オシャレに対する意識は皆無というわけでもないらしい。年齢は20代前半であるが前述の風貌のため、不詳な印象を相手に与える。もっとも現代における桃春の職業自体が虎の威となり、対峙する人が受ける印象は見た目ほど悪くない。
今日のコーデは汗臭くない黒のスキニージーンズと、皺の比較的少ないワインレットのシャツが選ばれた。
長身痩躯な桃春を装飾するそれらの服は、売れていないホストのような不誠実さを添加させた。桃春はシャツに袖を通しボタンを留めながら部屋を出て、廊下に掛けてある姿見を覗き込んだ。そして無意識に一瞬“にへら”と、引きつらせた笑顔を作ってしまった。夕希への久しぶりとなる依頼仕事は、桃春自身気づいていなかった妙な気持ちの高ぶりがあったらしい。桃春はそんな内心が恥ずかしく、姿見から目線を逸らす様に顔を伏せた。
「猫の髭」の玄関の引き戸が開いたのは、朋美が最初にチャイムを鳴らしてから既に10分近く経ってからだった。
「どうぞ、上がってください」来客対応が遅れた理由や謝罪の言葉———それどころか玄関前で済ますべき朋美自身の来訪の説明など一切の順序を無視し、桃春は古民家へ朋美を招き入れた。
桃春のその非常識且つ不遜な行動に触れ、朋美は待っている間に伝えようと考えていた小言のレパートリーを口にする勇気は既に霧散した。
朋美は玄関で履き物を揃えながら霧散した感情に代わり、桃春の今までの行動が依頼に対する信頼度へと転換されていく。
———普通の人にはできないことをやってもらう。
———そんなことを請け負う人間が、世間一般的な常識の枠に納まっていいわけがない。
(私の感情を清算するための殺人を、きっと満足できる形として実行してくれる)
桃春のワインレッドの背中は、朋美の望むべき人間性とマッチし一種の憑代の体を成し、普段は及びもしない思考の扉が少し開いたのを感じた。
4.学校の教室
客間へ朋美を案内すると、桃春は先ほどまで自身が寝ていたレザーソファを朋美へ勧め座らせ、机を挟み部屋の隅に積まれた衣服の山へ桃春は腰を下ろした。
部屋の正面となる壁には白色の電波時計が掛けられおり、その下に“50音表”と“ヘボン式のローマ字表”、そして“周期表”が横一列に並ぶ。どれもこの古民家には相応しくないほど新しいものである。
ソファの背後には天井へ届く高さの本棚が占められ、壁の色はわからない。本棚は全て上段へ向うほど中板の間隔が狭くなり、衣類に座る桃春から見ると天井を実際の高さよりずいぶん高く感じさせる。下段から中段にかけては図鑑や絵本が並び、中段にはハードカバーの小説、上段には廉価版の小説が出版社を問わず並んでいた。
(なんだかこの部屋、まるで———)
「学校の教室のような煩い部屋ですみません。ですがこれでも他の部屋と比較するとまだ綺麗な部屋なんです。さて、〝朋美さん〟今日はどのようなご依頼だったか、ご自身から説明していただいてもよろしいですか?」
桃春は朋美の心に浮かんだ感情を読んだような言葉に、笑顔を添えて呟いた。
自己紹介を飛ばした上で自分の名前を呼ばれた朋美は、少しばかりの気持ち悪さを隠しながら口を開いた。
5.真面目さ
「———この汚い日記たちは預かっても?」桃春は机に並べられた4冊の日記帳を指さし質問した。
「はい、量も量ですのでそのつもりです」
「もし悪気はなく破ってしまったりしたらまずいですよね?」
桃春は両手で紙を破くジェスチャーは披露する。その姿は悪気がないようには到底見えない。
「全て父のものですが、古いものなので見返すことももうないと思います。今回の依頼が終わればそちらで処分してくださっても構いません」
「よかった。もちろんわざと破ったりなんか絶対しませんが“破ってしまったらどうしよう”なんて考えながらこれら全てを読み進めるのは、それはそれでなかなか面倒なんですよ。ですが、お父さんという人物像を正しく掴むためには絶対に必要な作業です。手を抜くことはしません。でも余計な緊張感なく、肩の力を抜いて読み進められれば尚最高なんですよ」と、桃春はずいぶん昔に夕希から聞いた言葉を、さも自分の信条のように朋美に語った。
「そもそも朋美さんをここへ紹介した茂木クリニック院長からもある程度の事情は聞いた上でこの依頼は引き受けています」“夕希先生がね”という主語は勿論付け加えずに桃春が話すと、朋美は静かに頷いた。
「しかし、他人から聞いた話とご本人からの聞いた話では、ズレがどうしても出てきてしまいます。物事を伝えるために第三者が不要と判断し、添削した箇所にこそ当人の譲れない拘りがあったりします。例えば、お父さんを殺したい理由とか。是非朋美さんの口から聞いてみたいんです」
「父は真面目な人でした———」
「その真面目さには貴方は影響を受けた?」
桃春は朋美の言葉に無遠慮な質問を挟みこんだ。
「いいえ、私が多くの影響を受けたのは母方の祖母からです。現に仕事も———」
「お父さんはどんな人でした?」
桃春は自分が聞きたいところだけを話せ、と言わんばかりに会話の道筋を乱暴に矯正する。
「父は中学校の数学教師でした。性格は一言で言うと真面目。教育者ですから、もちろん教育熱心でもあったので、一人娘の私のやることに対し多くの点で模範になろうとしてくれました。でもそれが、私にとっては苦痛でしょうがありませんでした」
ここで朋美は桃春の方をチラリとみて言葉を切った。
桃春は短く、「続けて」と、答え朋美の言葉を促がした。
「父は度の過ぎる模範は生徒のやる気を削いでしまうことを、知らなかったのかもしれません。日々の生活の中では、数学の問題のように解が1つに限定されることの方が少ないのに。例えば私が小学生のこと、私が自由帳に飼い犬の絵を描いて遊んでいると、父は私の描いた絵を見るなり、『こう描いた方がいいんだよ』という言葉と共に、私の自由帳を取り上げ私の絵の隣に写実的な絵を残しました。私も最初はすごいと思いましたが、日が経つにつれその自由帳を開くのが嫌になりました」
「それはどうして?」
「異物感ですかね。父の絵をすごいと思う反面、私の自由帳———私だけの自由帳に私が絶対に描けないものが残っている。それがなんだかとても気持ち悪かったのです。その感情に気づいてからは、私が自由帳に絵を描くことは無くなり、徐々に学校の授業中、家に忘れてしまったノートの代用品としてでしか自由帳を使わなくなっていきました」
「お父さんが絵を描いた日の出来事について、日記にはどう書いてありましたか?」
桃春の質問に朋美はぞくりとした。
本来その質問へ至るべきやり取りが幾つか飛んでいたにも拘らず、“朋美が隠したい”事実を聞き出すための的確な質問であったためである。
(ああ、これは素直に語るしかない)と、朋美は瞬時に悟り質問に答えた
「……失敗だったと書いてありました。『もっとうまく描いてあげられた』というような後悔の言葉が書いてありました。そして、その事実が余計に私を傷つけました」
「父のその真面目さがあなたをより苦しめてるんですね」
「はい、だからより気持が悪く感じる部分もあるんです」
「というと?」
「父は元教え子である母と結婚しているんです。その事実が真面目な父の性格と相容れず、私は今でも父という存在が気持ち悪くてしょうがないのです」
6.“父を殺してください”
その後に語った朋美の父に対する告白は、血の繋がった親子だからこそ抱く嫌悪について注力された。教育者としての一本芯の通った父の実像と、元教え子であった母と愛を育み実らせた現実。
父は私の勉強を教えるときの様な声を用いて、母を誘惑したのか———
父の教育者を目指す情熱の始まりは、純粋なものであったのか———
そもそも父の真面目さは、隠し通したい負い目から過度にそう振舞ってただけではないのか———
だとしたら、私の父という男は何者なのだ———
“自分が主人公ではない、フィクションの世界にいるような気持ち悪さが消えないんです”と、朋美は言葉を結んだ。
朋美の告白が終わっても、桃春は質問はおろか相槌の一つも返さず、ただ静かに朋美を見据えていた。
だから———
“父を殺してください”
朋美は念を押すように桃春へ再度懇願した。
7.名に誓います
「お父さんの殺し方ですが、色々できますよ」
桃春は彼にとっては珍しく、依頼人へ気を遣ってかにこやかな口調で語りだした。
「ですが、私としましてはまだ手をつけてない殺し方でお父さんを殺したいと考えています。新たな殺し方については色々と調べることも多いですが、そこへ至るまでのプロセスを考えるのがとても楽しいものなのです」
「例えばどんな殺し方になるか伺っても?」
「パッと思い浮かぶのは、生き埋めですかね。ピータージェイムズ作の『1/2の埋葬』の様に棺桶の中にお父さんとお酒、もしくは何か食べ物を一つだけ入れるんです。真面目なお父さんの取り乱す様子も容易に想像できますし、何よりお父様が亡くなるまでに多くのことを後悔する物語性も作れます」
朋美は顎を引き、気分が悪いような表情で、
「もう少し、違うものは?」と、難色を示した。
「違うものですと、咄嗟に浮かぶのは人豚の刑くらいしかありませんかね」
「やめましょう。そういうのではなくて父の積み上げてきたもの、父の人格を否定する様な殺し方をお願いできないでしょうか?」
朋美の質問に桃春は大変満足し、笑顔で答えた。
「もちろんじゃないですか。必ず朋美さんが納得される方法にてお父さんを殺すことを門掛夕希の名に誓いますよ」
その宣誓は、机の上で薄い存在感を放つボイスレコーダーの記録の中で、今日1番の音割れを伴い録音された。
短編小説「花の妖精」
初夏の夕刻、気の早いクマゼミの声が遠くから聞こえる。
私は和室で夏白菊が挿してある花瓶に水をあげていると、4歳になったばかりの息子の尚が、白い肌を見せびらかすように下着姿で現れた。
そして、しばし和紙に見られる柔らかな折り目に似た皺を眉間に作り、訥々と話し始めた。
「パパ、あのね、かみをね、あらうときね、きっと、おばけが、いたの」脱衣場では母がまだドライヤーをしている音が聞こえる。きっと今にも髪に手巻きカーラーを付けるはずだ。そのとき少し煩わしくなることを見越し、尚を私のもとへ行くように促したのだろう。
「おばけ、見えたの?」私は手に持っていた水差しを机に置き、膝を折って尚の視線の高さへ顔を近づけた。
話し方は意図せず尚の舌足らずな口調につられてしまっていたが、この口調で質問したことによって、尚が浴槽から連れてきたであろう不安を少しは拭えたようであった。
「みえたんじゃないの。かみをね、あらったときに、めをつむってるでしょ?そのときね、うしろにね、きっといたの」
私は尚を抱きかかえて立ち上がり、近くに置いてあった長座布団へと腰を下ろした。
膝の上に座らせた尚は首を上に傾け私を見上げる。
その姿は親に餌をねだる雛鳥のように思えた。
しかし、尚が父親である私から欲しがっているのは餌ではなく質問に対する明確な答えなのだろう。
「きっと、それは、きのせい、だったんじゃない?」私は今度はわざと大げさに尚の話し方を真似た。
「ちがうよ、だって、ぞくぞくしたんだもん」尚は根拠とならない理論で私に反論した。
こういう強情なところはママに良く似ている。
ママと同じく意固地になってしまうと、理論は通じない。
少し考え、こういう時のママの対処法を真似ることにした。
「ぞくぞくしたとき、匂いはした?」私は口調もママが話すような柔らかさをもって尚に質問した。
「ううん。あっ、でも、おはなのにおいは、したかも」
———それは石鹸の匂いだよと、伝えたい気持ちをぐっと堪え、より私は大げさに尚に話しかける。
「なんだ、お花の匂いだったならおばけじゃないよ、なんのお花の匂いがしたの?」
「おはなのね、なまえはね、わからないけど———」
“ママのおはなのにおいがした”
尚は期待と不安が混じった表情で私を見上げ続ける。
そのママ譲りの視線に当てられ、たまらず私は尚を優しく抱擁した。
そしてそれは、顔を尚の横につけることにより止められそうにない私の涙を隠す意味もあった。
「きっとそれは……お花の妖精だったんだよ」
「おはなの、ようせい?」尚の口調から不安の感情が薄らいできたのがわかった。
「そう、お花の妖精。お花の妖精はきっと……尚のことをこっそり覗いていたんだよ」
「なんで、覗いてたの?」 尚の頭の中にあったお化けへの関心は、妖精への興味へ移っていくのを感じる。
これから尚に伝える物語には不要となる頬を流れる涙を、親指に力を込め擦りとり私は尚に向き直った。
「花の妖精は顔の周りに、きれいな花びらがついているんだよ。ライオンさんみたいに。だから、頭を洗っている尚の姿を見て気になったんだと思うよ。もしかしたら、友達になりたかったのかも」
「ぼくも、ともだちに、なりたいから、いつでも、でてくればいいのに」尚は私の膝の上で目を細め笑い出した。
———「あんたがあんなかわいい話をするなんて、驚いたよ」尚を寝室で寝かしつけ、和室に戻ると母親が寝る前の晩酌をしながら待っていた。
「なんだ、盗み聞きしてたのかい?……実は尚に話した妖精の話は、ずっと昔にママが俺に話してくれたんだよ」私は静かに答えながら、テーブルを挟み母親と対面になるように座り込んだ。
「ママは俺をあやすのが本当に上手かった。最初は近所に住むお姉さんでしかなかったけど、公園で砂山を一緒に作ってくれたり、分校のトイレが暗くて『何かゾクゾクしてお化けが出そう』って俺が言えば、『それは絶対花の妖精だから大丈夫だよ』って教えてくれた」
「そうだね、あんたには勿体無いくらいの優しい子だったね」そう話す母親の目は、少しだけ潤んでいた。きっとそれは決してアルコールのせいではないのだろう。
「だから母さん、悪いけど今回のお見合いの話しはやっぱり断ってくれ。もしママが化けて出たら、『私なんか気にしないでさっさと再婚しなさい!』って感情的に諭すんだと思うんだけどさ、俺はまだママがいるって言っていた花の妖精を信じているし、まだ当分は忘れたくないんだ」と、母親に内なる思いを告白し私は席を立った。
途中だった夏白菊が挿してある花瓶へ水をあげるためである。
そして夏白菊の横で妖精となっても我が子を心配する、優しいママの白黒写真にお礼を告げた。
R5.10.28 投稿
短編小説「大富豪」
中学校の昼休み、クラスの女子の一人が鞄から新品のトランプを取り出した。トランプの柄は秋になると校庭の花壇でよく見かけるマトリカリアのイラストが印刷されていた。「雪と一緒にトランプする人、こっちにおいでー」と、トランプの持ち主の女子生徒が声を張り上げたが、残念ながら「トランプなんて」といった反応を示す者がほとんどであった。
結果的には雪のもとに2名の女友生徒が集まり、ババ抜きや神経衰弱といった王道のゲームを楽しんだ。暫くすると、トランプでずっと楽しそうに遊ぶクラスメイトの姿に触発されてか、〝次は俺もまぜてくれ〟〝私も混ぜて〟と参加を申し込む人数が増えていった。
そして、昼休みだけではトランプの求心力は収まることを知らず、家のお手伝いや部活動といった制約がない人たちで放課後にまた集まり〝大富豪〟をして遊ぶことになった。
放課後、高さがある程度同じとなる机を6つ合わせ、その周りに7人の男女が集まった。最初にカードを配るのはトランプの持ち主である雪が行ったが、次回からは一番最下位だった人が罰ゲームとしてカードを配るルールが決められた。
皆がおおよそ8枚のカードをもらい手札を確認したところで、
「ハートの3持っているのはだれ?」と男子の1人が声をあげたところでこのゲームの大きな問題に直面した。
皆が共通だと認識していたルールに明らかな個人差があったのである。
「最初はスペードの3からだよ」
「いや、じゃんけんで勝った人が好きなのを出すんじゃないの?」
「そもそも階段はあり?」
「階段って何?」
「縛りは?」
「縛りって何?」
「Jバックは?」
「7渡しは?」
「階段革命は?」
――話し合いは長引き、ゲームの前にルールを統一する必要があった。最終的には黒板まで使用しルールの設定が細かく決められた。話し合いの途中で男子が1人、急用を思い出したという理由で抜けたが、たまたま廊下を歩いていた数学教師である竹本先生を強引に勧誘し人数の変動をカバーした。竹本先生は生徒の話し合いには混ざらず、「このトランプはかわいらしくて素敵ですね、誰の持ち物なんですか?」など、関係のない雑談をするばかりであった。
あらかた大筋のルールが決まってきたところで、トランプの持ち主である雪が自分の手札を何度も確認した後にこう話し始めた。
「あのー、皆いいかな?誰も話してなかったから一応確認なんだけどさ、〝カードの強さは2が1番弱くて3が1番強い〟で合っているよね?雪のおうちではそうやって遊んでいたのだけどちがう?」そう話し終えた雪の顔はいたずらっ子らしい、八重歯を覗かせた微笑みを浮かべていた。
そしてその表情の裏に隠してある負けん気の強さに竹本先生だけが気づき、声を出して笑い出した。
R5.11.4 投稿
短編小説「普段通り」
「部活をがんばるしかない理由って欲しくない?」と、雪は後ろを歩く部長の真と、その隣を歩く副部長の浩司に胸の内に秘めていた感情を打ち明けた。二人は雪の言葉を聞くと同時に、歩調を早め、あっという間に雪のことを抜き去り、そして歩を止めて振り返り雪の表情を確認した。
二人の目には、日が沈み街灯がしっかりと働き始める時間帯も手伝い、雪の顔が普段より影を落としているように感じてならなかった。
「高体連優勝目指してやってるじゃん」真が端的に答えた。続けて「最低でも去年の先輩の成績も超えたいよな」と、頷きながら浩司が付け加えた。
「違うよ、馬鹿。そういう目標とかリベンジ的なものじゃなくてさ……。なんか雪から伝えるのは難しいんだけどさ、『大病のため大会に出られない友達に優勝旗を届ける』とか『手術を受けるか迷っている許嫁を勇気づけるために』みたいな、ほかの人や学校にはない理由って憧れない?」雪は一度も二人の方は見ず、恥ずかしそうに視線は歩道の側溝に落としていた。二人は雪の話しを最後まで聞き終わると、溜め込んでいた空気が意図せず口から漏れたといった具合に大声で笑い出した。笑いながら真は、
「『われら青春!』でも見たのかよ。そんな奴のためにがんばるとか現実にはそうそうないって」と、雪の頭に手を置き優しく諭した。その光景が同級生というより娘と父の様でもあり、浩司は更に吹き出してしまった。
雪は真の手を払うと「雪は結構本気なんだけど、それにそういう理由がある人って、勝っても負けてもよくない?その理由のためにがんばる姿がもう立派だと思わない?」と少しむきになって反論した。先ほどの恥ずかしそうな表情は消え、視線もしっかり二人を見据えていた。笑える雰囲気ではなくなったことを察し、真が神妙な顔で答えた。
「立派って誰目線だよ」意図せず声は普段より低くなっていた。
「勝負が始まる前から『勝っても負けても立派だ』なんて感じる奴のために、一生懸命頑張るのは馬鹿らしくないか?それなら普通にチームメイトのために俺は勝ちたい」
「確かにそうだな」と浩司も真の意見に同意した。そして更に続けて、
「何ならさ、そのチームメイトはむさ苦しい男じゃなくて、可愛い女子マネージャーって方がよくない?『がんばって』とか健気に応援してくれたほうが力が発揮できるよな?ピンチの時に手を合わせて胸の前にもってきてさ、祈ってくれたりなんかしたらやる気でない?」
「おお、それは確かにやる気出るな」と今度は真が浩司の意見に同意した。
「いや、それならここに実在しているじゃん?」雪は左手を申し訳なさそうに上げ、少し照れながら言った。
「いやだから話聞いていたか?可愛くなきゃダメなんだぞ?」と、浩司。
「それに性別は女子だぞ」と、真。
「雪は正真正銘女性です!」と、声を荒げながら雪が右手に持つロフトランドクラッチ型の杖で真の左足を叩いた。真は大げさに痛がり、大怪我したとアピールするように地面を座り込んだ。浩司は痛がる真を見て笑っていたが、雪が「お前も同罪だからな」という言葉を添え、真と同じ左足を叩いた。浩司も大げさな症状を訴え、痛がりながら地面に座り込んだ。
「ほら、ウソ泣きはやめてさっさと立ち上がれ。さっさと帰るぞ!」と、雪は吐き捨てると先に歩き始めた。真と浩司はぶつくさと雪に対する不満を言いながら立ち上がり、雪の背を追いかけた。
2人はすぐに雪へ追いつく。
三人の歩幅と歩調は本来全く異なるはずだが、不思議なことに誰が先に行き過ぎるでもなく、誰が遅れるわけでもない。
普段通り不思議と歩くペースは揃う。
既にほかの下校中の高校生達には抜かされており、彼らの前後には通行人の姿すらない。
そんな特別でもない、いつもと変わらない景色の中、バカ話をしながら三人は帰路に就く。
R5.11.11 投稿
短編小説「辛い」
玄関の鍵を乱雑に扱う音が、リビングに微かに届いた。私を今まで楽しませてくれた小説を閉じると、暖をとっていたコタツの上に置いた。そして急いでキッチンへと向かった。間もなくして玄関の扉が開き、「ただいま」という短いながらも、疲労を隠しきれてない声が聞こえた。妻が仕事から帰ってきたのである。
コツ……コツ……と、床を鳴らしながら妻はリビングに辿り着くとゆっくりした歩調でジャージ姿のまま座椅子に腰掛け、足をコタツへと滑り込ませた。私が準備していた夕食をコタツの上に並べ終える頃には、自宅に帰ってきた安心感とコタツの助力もあり、疲労の色も少しは影を隠していた。
しかし夕食を食べはじめてすぐに妻は、「やっぱり辛いよ」とポツリと溢した。
妻の発言は、彼女の視線の先にあるテレビが映している映像とは相容れない。つまり、その言葉の真意は妻の現状を指して出た言葉である。
「そんなに辛いなら、雪さんどうします?もうやめますか?」妻の横に座り、夕飯の感想を聞こうとしていた私はその気持ちを堪え、彼女を慮った。
「いや、やめないけどさ……。本当に辛すぎるんだよ……。|貴方に向かってこんな事本当は言いたくないんだけど、でも、ごめん。やっぱり辛すぎるんだよ」妻はそこまで話すと、咳き込んだ。その様子を見て私はすぐに立ち上がり、急いでキッチンへと向かった。そして食器棚から使い込まれたプラスチック製のコップを一つ取り出すと蛇口を捻り、水を注いだ。
私はコップを持ちリビングに戻ると、「落ち着いてからでいいから、一旦これを飲んだほうがいいですよ」と妻に伝えコップをこたつの上に置き、少し濡れている左手で妻の背中を優しくさすってあげた。妻は短い感謝を私に伝えると、自分の右手で目を擦った。妻の涙を見て私は何も声をかけることができなかった。そして、そんな自分は夫として失格だと恥じた。
(同棲をはじめてまだ1カ月も経ってないが、雪さんがこんなにも「辛い」と漏らすのは初めて見た。これから先、どうしたものか———)脳裏にそんな愚痴とも思える考えが浮かんでしまった。どうしたもこうしたもない。妻の現状から考えて今の状況が好転することはとてもじゃないが考えにくい。
「ごめんね、どうか泣かないでください。全部私が悪いんですね。私が好きにやってしまっているから、君を泣かせる様なことになってしまった。辛いよね。本当にごめん」私は妻の背中をさする左手に、強い後悔の気持ちを込めながら、ただ、静かに謝るしかできなかった。その後、リビングはテレビから流れる空気の読めない笑い声に支配されていった。暫くすると、まるでその支配を断ち切るかの様に、妻がふいにコタツの上に置いたコップを手に取ると、喉をゴキュゴキュと鳴らしながら飲み干した。
「謝らなくていいから、次からはユキのカレーは甘口にしてちょうだい。いつも言っているけど、本当に貴方の作るカレーは私には辛すぎるの!」まだ少し涙目である妻は、少し微笑みながら私に空のコップを差し出した。どうやらもう一杯のおかわりという意味らしい。しかし本場の味をもっと堪能してほしい私としては、水をあまり飲んで欲しくないので、どうしたものかと少しばかり悩んだ。
R5.11.18 投稿
短編小説「大人らしさ」
大人の嗜みなんて枚挙に遑がないが、〝大人らしく見えるための嗜み〟として挙げるのならネクタイをおいて他にはないと私は思う。仕事前の締まりのない顔もネクタイを締めビシッとスーツを着こなすことで仕事のスイッチが入る気がする。具体的に説明すると、夜中に家で首元がよれたスウェットの上下を着て、横になりながら村上春樹という方が書いた「風の歌を聴け」という小説を読んでいようが、次の日ネクタイを締めさえすれば〝大人らしく〟見えるものである。
だからこそネクタイはうまく締めなければいけないのだが、私は正直うまくできない。
今朝もネクタイを結んでみると大剣より小剣のほうが大きくなってしまったり、ノットの部分を締めすぎてしまい奇麗な三角ができなかったりした。なんとかそれらしく完成した時には出勤時間ぎりぎりになってしまい、このままではいけないと再認識した。
夕食後、一人ネクタイの結び方の練習をしていると、小学生のころ初めて紐靴を買ってもらった日のことを思い出した。蝶結びが縦結びにならないように玄関で何度も練習した。次の日の朝、玄関で綺麗に結べた靴ひもを見て嬉しさよりも誇らしさがこみ上げたことを覚えている。
(きっと明日は上手にできるだろう)確信はないが過去の経験則からか、そんな気がしてきた。
「どう?少しは大人らしく見えるんじゃない?」私は姿見でネクタイの出来をチェックする旦那に聞いた。自分が締めるネクタイではなく相手、つまり旦那の首に締めるネクタイはやはりまだ慣れないが、昨日より格段にうまくそして早く結んであげることができた。
旦那は今日のネクタイの出来に満足して私に視線を向けると、「大人らしいというか、たぶん夫婦らしいんだと思いますよ。雪さん」と、癖毛の髪を左手で搔きながら大人の顔つきで答えてくれた。
R5.11.25投稿
短編小説「満月制作」
「あの、真先生、聞こえてないんですか?これ見てくださいよ」
「雪先生声が大きいんですよ、今行きますから待っていてください」俺はしぶしぶ立ち上がり雪先生の元へ急いだ。上下ピンクのラインが入った紺のジャージ、作業がしやすいように長い髪をヘアゴムで一本に結っている雪先生は、額にうっすらと汗をかいていた。この資料室には空調がないため汗が嫌でも吹き出てくる。もしこの部屋に俺一人しかいなければ、すぐにでも最近見た映画に出演していたハリソン・フォードという俳優のように胸までワイシャツを開いていたに違いない。そんな衝動を隠しながら、雪先生の近くにいくと俺は腕時計をちらりと確認した。片付けを始めてもう既に一時間も経っている。
「これ、何なのかはわからないんですが、きっと昔の学芸会のものだと思うんですよ。私たちの学年の小道具にある月の上に貼れば、クレーターみたいになると思いませんか?」雪先生は両手に車のホイール位に切りそろえたダンボールを三枚、扇子のように広げて私に見せた。私の方に向けた段ボール面は白い画用紙が貼ってあり、その上から蓄光性の夜光塗料が塗ってあった。私たちの作業時間ずっと蛍光灯の光を受けていたのだろう、久しぶりに与えられた仕事に張り切ってかぼんやりと光っていた。
「クレーターにするのはいい考えだと思います。でもそれを作ったのは、そんな昔じゃありません。去年の学習発表会のトチの木に飾るために俺が作ったんです。でも結局使う機会はなくここに仕舞っておいたんです」去年、本校の学芸会は感染症の影響により中止となった。生徒の保護者に中止となる旨を伝えるため連絡網順に電話を掛けたのは、学芸会の前日となる土曜日だった。そのためほとんどは家族が在宅中であり、学芸会の中止の件をスムーズに伝えることができた。しかしタイミングが悪く電話口に生徒が立ったこともあった。
「あんなに練習したのに……」生徒の姿は見えずとも、電話から聞こえる声色から落胆している姿は容易に想像できた。その出来事だけが理由ではないが、俺は連絡網での伝達を終えると体育館に向っていた。そして体育館の舞台袖に隠してあった学芸会の小道具を手に持つと資料室に運び込んだ。あの日、体育館と資料室を何往復したかは覚えていないが、学芸会の小道具を運んでいる途中、廊下の窓からちらりと満月が見えたことだけは鮮明に覚えている。
きれいな満月であった。
今考えると、そんなぼんやりとした思いも一緒に資料室にしまい込んでいたのかもしれない。
きっと全国にある小学校の資料室にはそんな〝もしかしたら〟を待ち望んでいる備品が溢れているのだろう。
「そっか、真先生が作ったやつなら主任や教頭先生への確認もいらないですね。私これを持ってプレイルームに先に行きますね。そして置いてある小道具の月に貼るので、残りの掃除が終わったら教頭先生に報告よろしくお願いします」そう俺に告げると雪先生は右手に三つのダンボールを持ち、業務の優先順位を無視して資料室から逃げ出した。楽しくなりそうなことを見つけると、居ても立っても居られなくなるその姿はよく知っている。資料室から雪先生が鳴らしているコツコツという音が結構な速さで遠ざかる。今はきっと、小学生の頃と変わることのないにやけ顔を作っているのだろうと思うと、気は進まないが残りの業務を私一人で終わらせることにした。
教職という仕事に就いてまだ短いが、他人の目を気にして行動する必要性はすぐに身についた。言動や行動がすぐ生徒を通して噂になり、保護者へ伝わり町中に広まるからだ。年の離れた兄と町中を少し歩いているだけで、翌日には学校で「昨日の男の人はだれなんですか?」なんて聞かれることはよくある。だからこそ、俺と雪先生の気兼ねない会話が発端となり変な噂が流れてはいけない。俺は資料室の掃除を終え、雪先生の進捗状況を確認するためプレイルームへ行く道すがらそんなことを考えていた。
プレイルームの扉を開け、中に入るとそこには満足げな表情の雪先生とその横にはベランダ側の窓に立てかけられた満月があった。プレイルームの窓からは曇りによる暗がりがすぐそこまできている。そのため満月が暗がりに映えていた。黒板の半分ほどある満月は、ダンボールと黄色い厚紙で構成され、二つのクレーター部分は厚紙と違った淡さをかすかに持ち息づく光を放っていた。
雪先生は満月に手を添えて、にやりと俺に微笑んだ。そしてちらりと八重歯が口元から覗いていた。この微笑みは社交的な場では決して見せることのない、雪先生の本当のほほえみであることを俺はよく知っている。
「これすごくない?去年の真に感謝だね」満月が完成した興奮からだろうか、口調がプライベート用にシフトされていた。満月の横で話す雪先生を前にし、ここまで来る道すがら俺が大切にしていた世間体は飛散し満月の横にいる暗がりに飲み込まれた。
「確かにすごいよ、まるで本物の満月を雪が捕まえたみたいだ。今日みたいな曇り空の時はこれを見ながらお月見できるな」俺の言葉を受けて雪はまた楽しいことを見つけた表情をした。
「いいね、さっそく今日は余ったこれを持ち帰ってユキの家で月見酒をしよう」そういうと雪は床に置いてあったものを拾った。去年俺が作ったトチの木の装飾部分——いや、雪の拾ったものもまぎれもなく小さな満月だった。
「そうと決まれば早く帰ろう」と雪は張り切ってプレイルームの片づけを始めた。
俺はもう一度窓に立て掛けてある満月を見て「月がきれいだ」雪に聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。
しかし、雪は耳聡く私のつぶやきを捉えていたようで、片付けていた手を止め笑いながら、「それユキに言っているの?」と私の背中に聞いてきた。私は雪に顔を向けることはせず満月を見ながら答えた。
「馬鹿、誰がお義姉さんにそんなこというかよ」
R5.12.2 投稿
短編小説「富裕層」
(欲しいものが必ず高価である必要はないのではないだろうか?)私はふいに浮かんだ考えに身体は硬直し、思考の世界にトリップしてしまった。 私はすぐにリッチマン——いや、富裕層と称される人々を想像した。週末には高級車のカスタムカーにハイブランドの服で乗り込みドライブを楽しむ。そして自宅に戻ったあとは高価なレコードを何十枚も貯蔵してある部屋で優雅に音楽鑑賞を嗜んでいる。
私の想像から生まれた人々は自ら富裕であることを誇示し、カテゴライズされることを望んでいるようであった。彼らは学校の教科書には決して載っていなかった、乗るべき車や着るべき服を、いったいどのタイミングで誰から教授されるのだろうか。人間が一日で生きる為に最低限必要なお金というのは存外安いものだ。その上に更にお金を積み上げることにより、満たしたい欲求の穴を埋める。その欲求に対し、富裕層は高額であるものを敢えて選択している節があるのではないだろうか。
〝これには財布の紐が緩んでしまいます〟というものに対し、生活水準が上がるにつれ比例してグレードが上昇するのは理解しやすい。しかし、〝これにはお金をかけなくて十分である〟という優先度の低いものに対しても、富裕層の彼らは敢えてグレードが上がるのはなぜだろうか。
(いや、これは私の富裕層に対する偏見なのかもしれない、もう少し考えを続けてみましょう……)
彼らは金銭の余裕があるから全ての物、全ての物事のグレードを上げる。その結果の行き着く先は、自我の崩壊、つまり個人の死ではないだろうか。自分らしさが失われ、型にはまった富裕層らしき者になっているのである。
「危ないところでした……」軽はずみな行動により、私は私自身を消失してしまう所であった。貴重な時間を少々使いはしたが、どうやら間違った選択をしないで済みそうである———
男は考えることをやめ、目の前の自販機の中では一番安価な炭酸飲料のボタンを押した。そしてそれは妻が好いている飲み物であった。しかし、いくら待っても自販機から炭酸飲料が出てくることはなかった。男は不審に思い自販機の電光パネルを見た。すると先ほどまで点灯していた〝あたり〟の文字が消えていることにようやく気付いた。そして電光パネルの下に書いてある小さな説明書きに気がつき、それを一読して小さく吹き出した。
(雪さんへのお土産はできませんでしたが、日記に書く失敗談のネタにはなりますね。結びの言葉は———「富裕層は決して小さなチャンスも逃さない」といった感じでしょうか)
〝商品を購入し、『あたり』表示が出た場合30秒以内に好きな商品の選択してください。選択されえない場合は、キャンセル扱いとさせていただきます〟
R5.12.9 投稿
短編小説「嫌いなところ」
「うん、今日もとてもおいしいですよ。雪さんの作るグラタンはやっぱり絶品ですね。それに私の好きなブロッコリーも入れてくれているし、ありがとうございます。仕事終わりにこんな贅沢ができて私は幸せ者ですね」旦那はリビングで夕食を食べながら、いつもの様に私の手料理を褒めてくれた。私はそんな旦那の言葉を、キッチンで洗い物をしながら背中で受け止める。そして、私はシンクの蛇口を止めて布巾で手を拭き、旦那に気づかれない様にエプロンのポケットに忍ばせていたメモ帳を取り出し、走り書きでこう書き綴った。
〝わかりやすいお世辞ばかりを言ってご機嫌を取ろうとしている〟
書き終えると私は満足して「いつも残さず食べてくれてありがとうね」と旦那に声をかけた。出来る限り優しい声色で。
旦那とは結婚して3年が経つが、知り合ってからの期間を入れると15年以上になる。旦那のいいところはいっぱいある。歩道を一緒に歩くと、必ず車道側を歩いてくれる。買い出しのときはかごに入れた商品の合計金額をいつも教えてくれる。勿論、消費税の面倒な計算も済ませてである。それらは小さなことかもしれないが、私を気遣ってくれている気持ちが伝わりいつも私をお姫様の様な気持ちにさせてくれる。旦那の優しさがとても心地よく好きだ。でも、旦那が好きという気持ちだけで、毎日を過ごせるわけではない。
日本の四季ははっきりしている、と日本を誉める時の言葉としてラジオで耳にする。日本人だからだろうか、日本の四季と同じように、夫婦間にもはっきりとした春夏秋冬があると最近考えてしまうようになった。多くのものが芽吹く春を経験し、見つめるだけで体温が上がるような夏を経て、落ち着きのある緩やかな実り秋を堪能し、そして———
「ごちそうさまでした。洗い物まだありますか?残りは私が今食べ終わった食器と合わせて洗いますね」旦那はいつの間にか食べ終えた食器類を持ち、私の隣まできていた。私はシンク脇に置きっぱなしにしていたメモ帳を手に取り、
〝考え事をしているときに急に話しかけてくる。察しが悪い。〟と先ほどの文章の後に付け加えた。その様子を旦那は横で眺めていたが、私は気にしない。
「———それでは、続きまして『女もつらいよ』さんからのお便りです。『旦那の飲み会帰りに買ってくるお寿司が許せません。好き勝手飲み歩ったあとに、申し訳程度に私の溜飲を下げる目的で買ってきます。君が食べたいと思って買ってきたんだよ。と、私のために買ってきたというスタンスを繕ってるところもより腹が立ちます』あー、これはでも、旦那さんの気持ちわかるなー。そもそもこういう———」そこで、私はラジオを聴く気持ちが途切れラジカセの電源を切ってしまった。
「どうしたんですか?」私の不貞腐れた態度に気づき読書をしていた旦那が声をかけてきた。
「……今日は珍しく読み上げてもらえなかった」私は力無く旦那の質問に答えた。「そもそも今回のお題は難しすぎ。だって『主人やボーイフレンドの嫌いな所』だよ。頑張って想像して書いたものを葉書に書いて送ってみたけど手応え全くなかったもん」嫌いなところのない旦那に対し私は正直に告白した。ラジオへの投稿は私の旦那以外の生きがいと言える、唯一の趣味である。
アパートの窓が夜の坦々辰たる闇を奔る冬風を受け、少しばかり叫んでいる。冬はまた巡る春に向けて準備の期間である。そして来春はもっと旦那を好きになる。
R5.12.16 投稿
短編小説「魔女かり」
〝おばあちゃんは野菜作りが上手で、そして魔女かりはもっと上手だった〟
おばあちゃんはよく私の寝る前に絵本を読み聞かせてくれた。両親が教師という仕事柄、深夜に帰ってくることも多く、おばあちゃんの読み聞かせてくれる絵本は、寝る前にふと湧き上がる(パパとママにもう会えないかもしれない)という、根拠のない不安を忘れさせてくれた。
そんな絵本の読み聞かせ中に時々魔女が出てくる。
魔女はお姫様にイジワルをする悪い魔法使いの時もあれば、王子様を助ける心優しい魔女の時もあった。しかし、どんな魔女が出てきてもおばあちゃんは決まって、魔女がどれ程悪さをするかの話しへと続くのだった。
そしていつもどのように魔女をかっているか、細かく教えてくれるのだ。
ある夜、今日は魔女をどうやってかったのか説明を終えたおばあちゃんに、「おばあちゃんは魔女がり大変じゃない?」と聞いた。それはふと湧き上がった疑問だった。絵本を持つおばあちゃんの皺の多い手を見て、そんなことを思ったのは覚えている。
「大変だけど、誰かがやらないとね」笑顔で話すおばあちゃんの横顔を見て、私は眠りについた。今思い返すとこの会話がきっかけだったのだろう。
私が小学校に入学した年の春先に、「私もおばあちゃんの手伝いをしたい。魔女を一緒にかりたい」と相談した。私の気持ちがうれしかったのだろう。おばあちゃんの顔はほころんだが、すぐに真剣な表情を作り直し、「おばあちゃんと一緒にやるのはとても大変だよ。いつでもやめていいからね」と私の気持がいつでも変わっていいことを伝えてくれた。
「いいの。私も魔女がりをするおばあちゃんみたいになりたい」
その日から私はおばあちゃんの弟子になった。
次の週末から私の魔女がりは始まった。朝早くおばあちゃんの畑について行き、色々なことを教わった。魔女を倒すためには体力が必要で、畑を走り回るように教えられた。時には大きな声を出すこともいいらしく私は山の頂上でもないのに「やっほー」などよく叫んだ。そんな私の姿をみておばあちゃんは「さすが私の孫だ」と褒めて頭を撫でてくれた。
週末になる度、私は弟子としての修業に真剣に取り組んだ。畑では魔女についての色々なことを教わった。魔女は姿を変えていつも私たちを見ていること、魔女がりの道具の使い方も教わった。おばあちゃんの魔法の力で作ったという強い光を放つお皿、鬼ヶ島から持ち帰ったという鬼の目、子どもの私は触るのも怖いものばかりだった。
九月の残暑も陰りを見せた頃になると、針で指すとはち切れてしましそうなトマトや、太陽の光をため込んだ人参、魔女が着ているローブの色をしたナスの収穫を終え、私の初めての魔女がりは終わりを迎えた。
———「それがこの大学に来た理由?わけわからない。それに結局“魔女狩り”はしてないじゃない?」椅子に座り、テーブルの上にある学食のパスタをフォークで延々くるくるしながら、友達が私に聞いてきた。きっとまた三限目の授業をさぼる気なのだろう、ゆったりとしたその動きからそんな彼女の気持ちが透けて見えた。
対面する私は落ち着いて、「私はずっと〝魔女かり〟をしていたよ。農家の天敵の魔女、いやおばあちゃんの言葉を借りるなら魔女が化けているカラスをずっと〝カって〟いた」
彼女は今まで頭の中に思い描いていた黒い服に、黒い帽子と手には竹ぼうき姿の魔女をカラスに変えて私の話しを反芻したのだろう。「なるほどね」と、含み笑いを浮かべた。
「おもしろいおばあちゃんだったんだね。でも狩ってはいないんじゃない?狩るって言葉はやっぱり殺すとか駆除ってイメージがあるんだけど?」彼女は昔私も抱いていた同じ疑問を口にした。私はトートバックから筆記用具を取り出し中から付箋とシャーペンを出した。そして付箋に〝駆り〟と書いて友人に見せた。
「『駆り』読み方はカリ。走るって意味で使われる漢字だけど、追い払うって意味でも使われるの。それにおばあちゃんは『魔女カリ』ってずっと私に言っていたの。普通は濁って『魔女ガリ』って言うのに」 〝魔女駆り〟の漢字は、おばあちゃんの遺品の日記帳を読んで初めて知った。日記には、魔女駆りの内容と私とやった魔女駆りの感想が丁寧な文章で添えられていた。しかし月日が進むと魔女駆りの言葉はほとんど出ることはなくなっていった。魔女駆りの言葉の代わりに、野菜の育て方や土に混ぜる肥料の割合など、日記というよりは誰かに向けて書いているような細かいメモが目立ってきた。
それは自分の遺した日記を、孫の私が手に取ることを予期していたかのようであった。
おばあちゃんは自分のもつ多くの知恵を、愛情をもって日記帳へ記していた。
正式名称が長い肥料でも略称をやめ、旧字体の多くにはふりがなが記載されていた。
「———おばあちゃんは思いやりに溢れた本物の魔女だった。なんでもお見通しの魔女。そして私はそんなおばあちゃんの弟子。だから私はこの大学に来たの。はい、質問の答え終わり、私はもう授業行くね」私は筆記用具に付箋とシャーペンをトートバックに仕舞い、三限目の講義へ行く準備をする。トートバッグの中に今日提出期限である食料生産のレポートも入っていることも確認した。おばあちゃんを超える魔女に私も早くなるため、私は講義室へ向かって駆けていく。
R5.12.23 投稿
短編小説「トレーニング」
その映像は年末に行われた格闘技番組の勝利者インタビューであったが、男にとってはこれ以上ない衝撃的なものであった。
「僕が勝てたのは、練習のおかげです。強敵と戦うため2か月以上前から日々自分を超えるトレーニングを実施してきました」試合に勝利したその男性は元来泣き虫であり、いじめられっ子であったと試合前に紹介されていた。そんな男性が試合に勝ち、リング中央でインタビュアーの質問に堂々と答える。表情に嬉し涙などはなく、終始笑顔であった。
男は感銘を受けた。明日からトレーニングによる肉体改造を行い、あの勝者のような笑顔を身につけることを強く誓った。男は静かに椅子から立ち上がり、リビングの窓を遮る厚手のカーテンを開け、ガラス越しに外を確認した。年末の風景にふさわしい粉雪が舞っている。しかし、その程度の季節の障害によって男の決心が変わることはなかった。
「雪は好きですが、今日からは少しだけ嫌いになるかもしれませんね」と、キッチンで年越しそばの用意をしている妻に聞こえないように囁いた。
早朝、普段より1時間半も早く目覚まし時計の力を借り、溶接されているような両の目を何とかこじ開けた。男は幼児の着替えのようにゆっくりと時間をかけジャージに着替えると、ランニングを行うため家をあとにした。昨夜の粉雪がアスファルトに薄いレースのカーテンのような装飾を施していた。男は転倒に気を付けながら歩き出す。そしてまずは近所の公園を目指すことにした。そこは遊具が設置されているエリアとは別にグラウンドが隣接されており、運動にはもってこいの場所である。公園に着くと入念なストレッチを行い、グランドを30分以上ゆっくりと走った。その後腕立て伏せや腹筋などの筋トレもできる限り努力し久方ぶりに気持ちのよい汗をかいた。
トレーニングを開始し1か月が経った。年が明けても身に突き刺さるような外気が和らぐことはなかった。しかし、三日坊主とならずに済んだのは男の強い意志によるものである。
(このトレーニングできっと私はあのインタビューを受けた男性のようになれるはずだ)男はその気持ち一つで毎朝のランニングや筋トレをその後も続けた。
トレーニングを始めて約3か月が過ぎた。夕食後の風呂上り、男性は鏡の前で自身の身体をまじまじと観察した。運動をはじめる前に比べ、加齢により下腹部に現れかけていた丘陵は姿をくらまし、少しばかり顔の輪郭もシャープになっていた。
(小さな変化ですが、これなら気持ちの変化も期待できそうです。そして明日、私の目標が無事達成出来ればいいのですが……。笑って一日を過ごせますように)
———体育館から聞こえる校歌斉唱は微かに、すすり泣きのような声が混じっている。合唱が終わり司会の教頭先生の掛け声により卒業生、在校生が同時に着席する。「続きまして、卒業証書授与」教頭先生の練習通りの落ち着いた声が響くと、男性は教職員の座る席から立ち上がり、マイクの前まで進んだ。「卒業証書を授与される者、3年1く、み……」生徒の名前を呼ぶ前に男性は、両目から流れる涙を止めることがどうしても叶わなかった。トレーニングにより余分な水分を少しでも絞り出し、あの日見た勇敢な彼のように笑って教え子達を送り出そうとした思惑は全くもって無意味であった。
しかし、そんな泣き虫で心優しい数学教師の姿は、卒業生たちの眼には何よりの贈り物であるように映えていた。
R5.12.30 投稿
短編小説「そういう名の料理」
熟れたトマト色のシーリングファンが、私の頭上で休むことなく回っている。その速度はまるで、幼児が跨って漕ぐ三輪車の車輪のように危険性を感じさせないものであった。
私は白い丸型のカフェテーブルに向かい、肘をつきながらファンを注視した。もし、あのファンに目があるのなら、私の鋭い視線に震えたかもしれない。
私は苛立っているのである。
その感情の理由は、就職はおろか嫁にも行かず家で過ごす娘や、旦那が発症したC型肝炎の原因などではなく、このカフェで食べた〝サラダ〟ただ一つである。
しかしそこは私も還暦を迎えた大人の女性である。穏便にこのカフェのシェフと話す前に、ファンを眺め気持ちの昂りを落ち着かせているのである。
「すみません、少しよろしいですか?」私は気持ちの落ち着きを感じると、隣のテーブルを拭いている男性スタッフに声をかけた。このタイミングになってはじめてカフェにいる客は私1人であることに気づいた。
それは大変幸運であった。
これから話す内容は、このカフェに通う多くの人に聞かせるべき内容ではないからだ。
「はい、どうかなさいましたか?」と、男性スタッフは言うと、すぐに私のテーブルに駆け寄ってくれた。しかし、彼の表情は少し不安げであった。きっと私から発せられる次の言葉がクレームであることを察しているのであろう。
「お忙しいところごめんなさいね、でも、どうしてもこのサラダを作ったシェフを呼んでいただきたいの」私は出来る限り微笑みを含ませ、彼にお願いした。
「承知いたしました。しかし、提供したサラダに何か不手際があったのなら、私がお伺いすることも可能ですが?」彼は若者らしい凛々しい眉を眉間に寄せ、恐る恐る私に聞いてきた。
「ありがとうね、でも、私はどうしてもシェフにお会いしたいの。早く呼んできてくださらないかしら?幸いにもこのカフェにお客は私1人。お忙しいと言うことはないと思いますし」私の言葉の端々には苛立ちが滲んでいた。感情を宥め隠すことは叶わず何の非のない彼に浴びせてしまった。
「大変お待たせ致しました」
「あら、随分若い方なのですね」厨房へ彼が姿を消してから間もなくして、先ほどの男性スタッフより若いと思われる女性が、私のテーブルの向かいに立ち声をかけた。
「対応が遅くなり申し訳ありませんでした。本日、こちらのカフェのオーナーシェフはお休みをいただいており、お客さまが召し上がったサラダを提供したのは私となります」
「そうだったの、だからかしらね……」私は素直な感想を、目の前の女性に伝えるか迷い言葉を詰まらせた。
「なにか不手際がありましたでしょうか?」沈黙に耐えきれなかったのか、女性が神妙な顔つきで質問してきた。その質問に私は答えず彼女の目をじっと見つめた。
(この子のためにも話すべきだろうか、それとも今日のところはこの感情を胸にしまい大人しく帰るのが正解だろうか……)私の考えはなかなかまとまらなかった。
私の一言で彼女の人生を変えてしまうかもしれない。そんな感情が行うべき判断を迷わせた。
「このサラダなんだけど、気を悪くしないで聞いてくださる?」私は微笑みを絶やさぬように努め、意を決し話しはじめた。
「メニュー表には〝シェフの気まぐれサラダ〟という名目で載っているのだけど、このサラダは絶品だったわ。その日の気まぐれで作るのではなく、固定のメニューにするべきよ。でも、あなたはここのオーナーシェフじゃないのよね?もし、レシピをオーナーシェフに教えるのが嫌なら、今すぐここを辞めるべきね」私は言葉の最後に八重歯を覗かせた微笑みを添えた。彼女はきっと将来素晴らしいシェフになる。気まぐれで作れるサラダが絶品レベルであり、なんとエプロンに留められたネームクリップには〝研修中〟と書いてあるのだから。
R6.1.6 投稿
短編小説「仕事」
(仕事なんて大嫌いだ)
私はタクシーの後部座席に座り、手帳を確認しながら心底そんなことを考えていた。つい最近まで就労をしていなかった私にとって、仕事のための移動というのはいつまで経っても慣れることはなく、大変心苦しいものであった。
大学卒業後すぐに就職しなかったのは、家族の帰るべき家の快適性の維持に費やしたかったからである。しかし、そんな家族思いの私を両親はあろうことか実家から昨年の夏の終わりに追い出した。理由は父の定年退職である。
あの日、内服薬を貰いに通院している病院から帰宅した父は、私の自室の扉を力強くノックした。私は軽く返事をし、相手が父であることが分かると渋々部屋へと招き入れた。そして父は部屋に入って早々、「前からお母さんを交えて話し合ってきたことなんだけど、お父さんはそろそろ定年になる。お母さんにはずっと支えてもらってばかりだったけど、これからは2人だ。」と淡々と告げたのだ。その言葉が意味する内容はあまりにも冷たく、実の娘に対し話すべき言葉では決してなかった。その父の言葉を聞いた私はというと、身動きが出来ず一言も発することができなかった。
私が大学卒業をしてからの夏は、自室のクーラーを全力で働かせ、冬用の毛布にくるまりながら部屋のテレビを見る業務に従事していることが多く、その時も毛布にくるまりながらベッドに横になっていた。私の背中に鳥肌が立っていたが、クーラーのせいではないのは間違いなかった。その鳥肌を右手で掻くことで、漸く体全体を動かすことができた。ゆっくりではあるが体から毛布をはがしベッドの上で姿勢を正した。その姿はパジャマに正座という、今思えばなんともおかしな組み合わせであった。
「お父さんの考えには私も大賛成だよ。でも、だからってなんで私は家を出ないといけないの?」私は素直な意見を父にぶつけた。父が仕事で不在のときに私は母と一緒に映画に行ったりもする。日常的な買出しにときにはにも私が必ず車を運転した。母との仲は悪くない。そんな私をまるで邪魔者みたいに追い出す、その意味を知りたかった。
「朋美、お父さんだって、こんな事はしたくない。でもわかってくれ」父の答えは俺私が想像していたよりも短く、簡潔であった。それ故、私の心を深く傷つけた。
「私がこの数年間、家に居たのは何のためだと思うの?大好きなお父さんとお母さんのためだよ。押入れから毎朝毎晩2人の布団の出し入れをしているのは私だよ?お母さんと買出しに行って籠を持つのも私だよ?お父さんがサポートできなかったこと私がお母さんにしてあげてたんだよ!」私は2人にいつも抱いていた感情を乱暴に父にぶつけた。
その途中、頬を伝う涙のせいで少しばかりの嗚咽が混じってしまっていた。
「もちろん朋美には感謝している、それにお父さんだってこんな別れは辛い。でも、お前は若いじゃないか。実家で燻ってばかりいてはいけない。お前にはお前の未来のために残りの人生を生きてほしい」父はそういうと、ベッドに腰掛け私の左隣に座った。そして遥か昔によくしてくれた抱擁と、皺の増えた右手で私の頭を優しく撫でてくれた。
「お父さんも、昔よくおじいちゃんに抱きしめてもらっていた。理由はもう思い出せないが、おじいちゃんの優しい思いだけは今でも覚えている。朋美もいつかわかってくれればいい」父の抱擁と言葉は私に安心感を与え、嗚咽は次第に落ち着いていった。そして父はさらに私を元気付けるための頭を撫でてくれた。
「お前はまだ30歳だ。私たちの事はあまり気にしないで、その歳まで学んできた事を世のために使いなさい」父の言葉にはある種の覚悟が感じられた。辞世の句、いや今生の別れを想起してしまった言葉に私は押し黙り、父の胸に顔を埋め静かに泣いた。
———「高速を使ったから、長距離値引きするね」私はタクシーの運転手に提示された金額を払い、領収書をもらい短いお礼の言葉を伝えタクシーを降りた。「今日の仕事はここか」私が呟きながら目を向けた場所は、広大な敷地を有する農研機構である。私が今いる職員駐車場と言われる場所から見える、白い3階建ての建物が本日の仕事場である。
私が昨年の初秋に選んだ職種はこういった出張が時々ある。
しかし殆どは実家近くのアパートで行うこともできる。
父の言葉通り、私の蓄えた知識をこうやって世のために使うんだからこれ以上の贅沢はできない。
仕事は嫌いだけど、
〝魔女かり〟
の様な害虫駆除の研究なら私は昔から大好きだから。
赤色のLEDを使い、アザミウマの防除の確立を目指す研究なんて、天国のおばあちゃんが聞いたらどんな表情をするだろうか。おばあちゃんの反応を想像し、母親ゆずりの八重歯を少し口元からのぞかせる微笑みを作り私は歩き出した。
R6.1.13 投稿
短編小説「老夫婦」
和室の座卓テーブルに広がる朝食の残りを片付けながら、妻は夫に質問を投げかけた。
「貴方のよく私にいう言葉って、世間的にはモラハラっていうんですって、知っていましたか?」妻は夫がどんな表情をするか気になったが、視線を向けることができなかった。夫は座卓テーブルの端で、日課となっている新聞のスクラップをする手を止め妻へ視線を向け言った。
「モラハラという言葉は知っていますが、私が〝よくいう言葉〟というところがわかりません。そんな言葉を雪さんに言っていますか?」夫はいわれのない言いがかりに対し静かに答えた。
夫の返答は決して嫌味で答えているのではないことが妻にはよくわかった。
真摯に妻の質問に答えようとした結果、少しばかり高圧的な物言いになってしまったのだ。
妻は重ねた食器をテーブルの端に寄せ終えると手を止めた。
「よく言うじゃないですか、『老けたね』って。しかも貴方はそれを嬉しそうに」
そして口元に微笑みを浮かべながら旦那の方を睨んだ。
〝老けたね〟それは、結婚生活が30年を越えた頃から突如として夫が妻に対し伝え始めた言葉であった。
「ああ、なるほど。確かに世間的にはモラハラですね、なら雪さんは私からその言葉を言われるのは嫌———」
「いいえ、勿論うれしいわ」雪は夫の尚からの質問が言い終わる前に答えた。
夫から言われる〝老けたね〟という言葉は妻にとって何年も待ち望んだ未来を言い表すピッタリの言葉だった。
中学生のころから憧れだった夫。
字がきれいで、誰にでも腰が低い。
黒板へ文字式による計算を書いた後、チョークが付いたままの指で後ろ髪をさわり、フケをつけているような姿で廊下を歩いていたこともあった。
結婚してからの生活は、年齢差なんて気にしなかったと言えば噓になる。
雪は尚と共に道を歩いても恥ずかしくないようにと、大人びた服装をよく選んだ。
月日を重ね、年月を待ちわびた。
少しでも早く夫の隣を歩いても恥ずかしくない姿になりたかった。
そして———
「貴方はいつまでも若いわ」もうチョークで髪を白くしても気付かれない夫を、優しく見つめ雪が言った。
「君は老けましたね」尚は雪が喜ぶと知っていて思ってもいない嘘を、今日もまた気恥ずかしそうに答えた。
昔の教え子の考えていることなんて、尚には手に取るようにわかった。
R6.1.20 投稿
短編小説「財産」
私は医者から余命宣告を受け入院してからといもの、影のように離れることのない距離に死を感じるようになった。
日に日に身体はやせ衰え私と機械を繋ぐ管の数が多くなり、死への恐怖が粉雪のように少しずつ積み重なってきた。
(そうか、もうきっと家には帰れないのか———)
その気づきをスタートとして、私の思考が投薬による不明瞭且つ脈絡なく散らばる無秩序から解放された折、人生への思慕の感情がめぐり下顎の皮膚を引きつらせる。
多くのことを学んだ人生だった。
その学びの中で、自分の力量に見合う物を人へ教え、ときには書き記した。
それらは私の仕事となり、同時に喜びを与えてくれた。
教えとは種まきによく似ている。
季節が巡ってからこ若葉が芽吹くように、時を重ねてからでしか理解できない教えもある。
“私はもうその時を待つことが叶わないのか”
しかし、そんな残された時間に対する未来への未練も霞むほどに私には死を恐れる理由があった。
それは私の身に余る財産の心配である。
死地への旅路には私の財産を持ってはいけない。
私の財産は生まれた時からあったものでは勿論ない。
人生の途中から幸運にも舞い込んだものである。
だからこそ人生にとってその財産の大切さもよく理解している。
来世、もしもう一度人に生れ落ちることができたとしても、この財産のない生活だったらと考えるだけで心が身体より先に枯れてしまいそうな錯覚に陥る。
あの財産が私の人生を豊かにしたのは間違いない。
学や容姿といった部分で私を優良か測定すると、かなりの不良品だろう。
しかし私には身に余る財産があった。
その一点の後押しのおかげで私は恵まれた人間であると自信をもっていえることができる。
はるか昔、財産を持たなかった頃を思い返すと、(ああ、確かにこんな風だったな)と、古い雑誌の切り抜きを見ているかのような無情さを感じる。
どこか他人事であり、映画の人物の回想を見ている感覚に近い。
しかし財産ができてからの記憶は生けすに飼っている魚のように鮮度が落ちることは決してなかった。
病室で横たわり、骨と少しばかりの肉だけになった身体は楽しいといえば噓になる。
しかし、財産があった記憶を思い返すと笑顔がこぼれ、迎えることの叶わない未来の動向まで思いを馳せてしまう。
財産があるからこそ実りある人生を送ることができた。
そのような思い出が私を病魔と戦う戦場へ焚きつける。
そして財産があるからこそ死ねないと再確認するのだ。
———お父さんが今晩峠であるとの連絡が入り、仕事場から急ぎタクシーに乗り込み、病院に駆けこんだ。
「夜間救急入口」からお父さんの入院している療養病棟までの道のりは長く、お父さんとの思い出を巡らせるにはあまりにも短かった。
病室の扉を開けると、ベッドに横たわるお父さんは私が部屋に入ってきたことに気付いたようで、首を少しドアのほうにむけると目じりに皺を寄せ、乾いた唇を微かに動かした。
私は急いでお父さんのベッドに近寄り、唇の近くに耳を寄せた。
お父さんはゆっくりと、しかしどうしても伝えるという強い意志を感じる声で話してくれた。
「朋美……、お前というかけがえのない財産を……1人置いて逝くのが……とても悔しい。でも———」
“いい人生だった”
その言葉を聞き、私は床に膝を折るとベッドの中にあるお父さんの左手を両の手で優しく握った。
お父さんの手がやけに小さく感じる。
「馬鹿な事言わないでよ……。たった今、財産の無くなってしまった私よりはマシじゃない」
私の言葉を聞き終え、私のかけがえのない財産は笑顔で旅立って逝った。
R6.1.27 投稿
8.挑戦的
竹本朋美はパソコン画面に映る文章を読み終えると、すぐ横に置いてあった携帯で時刻を確認した。もう少しすると日付が変わる時間帯ではあったが、構わず電話帳から目当ての番号を探し出し電話をかけた。
番号は門掛夕希先生から事前に聞いていた連絡先であった。
コール音が3回鳴り終わった後に相手が応答した。
「はい、総合学習塾猫の髭塾長の畠山です」
「すみません、以前小説執筆の依頼をした竹本朋美です。———あの、お電話口に立たれているのは門掛夕希先生でお間違いないでしょうか?」
つい数カ月前、朋美は自分の父を殺す小説を執筆してもらうためWeb小説家、門掛夕希と会って直接話をしていた。そのときに話した先生の声と、電話口で話す畠山と名乗る男の声は酷似していたため、一応の確認をとったのである。
「ああ、朋美さんお世話になっております。はい、門掛夕希で間違いございません。一応塾の方はペンネームではなく本名でやっておりますので、混乱させてしまい申し訳ございません」
桃春は事前に受けた夕希の指示通り、朋美に対し嘘をついた。
いや、嘘をつき通す事にしたという方が正しいだろう。
「そうだったんですね。私も勝手に先生のお名前は本名だと思っていたので申し訳ございません。あの夕希先生、今少しお時間よろしいでしょうか?」
「もちろん、どのような件でしょうか」
桃春はこの前の朋美との会話では感じられなかった誠意を、どうにか伝わる様にと声に緊張感を滲ませる努力を尽くした。
「本日サイトに投稿された門掛夕希先生の小説を読み、ようやく気付いたのですが“これは”全て繋がってる父の物語という認識でよそしいのでしょうか?」
朋美が指した”これ”というのは、Webサイトで門掛夕希が毎週投稿していた短編小説の【花の妖精】から【財産】までの物語を指していることを、桃春は瞬時に理解した。
「はい、そうです」
桃春の声には緊張が含まれ、次に朋美から受けるであろう言葉に備え身構えていた。
今回、夕希が投稿した短編小説たちは挑戦的なものであったため、朋美からのこのような連絡は事前に予期していた。
桃春はチラリと壁にかかる時計に目を移す。
時刻は日付が変わるまで、あと30分を切ったばかりであった。
しかし、桃春はこれから朋美の依頼内容に沿えなかった短編小説たちの弁明と謝罪のため、時刻は日付をすぐに超えるだろう判断した。
9.ありがとうございます
年に数回、夕希は茂木クリニック院長から担当患者が抱える蟠りの解消を手伝う一環として、小説の執筆を依頼される。
患者の匿名性を尊重しつつ、ネットの世界に患者の感情を代弁した言葉を物語へと昇華して残す。
夕希の小説が完成するまでは大体数か月ほどの時間がかかり、また完成した作品を投稿する日付についても依頼人へ別段通知をしない。それくらいアバウトであるため、依頼料は無償で行っている。それは依頼人からの余計なトラブルを避けるためでもあるが、創作活動では必須である刺激的な話を聞けるだけで夕希としてはプラスと考えているからである。
そして、その裁量が功を奏してか今まで受けた仕事依頼によるクレームは1度もなかった。
「———作品の良し悪しに固執している依頼人って意外に少ないんだよ。自分の心の叫びが形をもってこの世に生まれた。その事実に満足で前を向いて歩ける人が、この世には大勢いるんだよ。でもきっと桃春先生にはわからないかあ、わっかんないよねえ、だって恵まれてるもん」
執筆依頼を受ける意味について、夕希はそんな見識を桃春を嘲けながら語ったことがある。
そのことを瞬時に思い出す程、電話から聞こえた朋美の声は桃春の予想を大きく外れるものであった。
「門掛夕希先生にご依頼して本当によかった———」
“ありがとうございました”
それは短い感謝であった。
しかし今尚、朋美の胸の中では形容しがたい万感の波が寄せては引いてを繰り返していた。
今はまだ“憑き物が落ちた”というような晴れ晴れとした気持ではない。
朋美は今まさに憑き物が落としている渦中なのである。
投稿された14篇の短編小説には、随所に父の日記から拾ったと思われる事実が散りばめられており、朋美が知りえない部分についても信用に足る事実であると、素直に認めることができた。
14篇の短編小説は1週間おきに投稿された。
朋美がこれらの短編小説が自分だけに向けられた連作となっているのに気づいてからは、まるで読む薬となって朋美の中を巡った。
そして———、
「これでようやく父の墓参りに行くことができます」
と、朋美は心情の変化による好転した展望を桃春に告げた。
10.着色料
「今の電話、竹本朋美さんからだったんですが、やはり夕希先生の言っていた通りになりました。でもなんでこうなるって予想ができたんですか?」
桃春は朋美との電話を切ったあと、客間へ戻るなり机に向かっている夕希へ質問した。
「んー、なんでかって言われると少し困るな……。私には朋美さんが本当に殺したいお父さんっていうのは、知らなくていい情報を加られたお父さんのことだって察することができたから……って言えばいいのかな?」
桃春は夕希の言葉を聞いて上で、眉間に皺を寄せ〝意味がわからない”といった表情を作った。
「わかりやすく言うとね、例えば今までおいしく食べていた物について『それに入っている着色料って虫なんだよ』とか、知らなくてもいい情報聞かされて、食べられなくなった経験とか桃春先生はない?」
夕希は机の上で行っていた作業を中断し、桃春へ嘲笑する表情を作ってみせた。
前髪は凛々しい角度を描く眉山にかからないほど短く、刈りあげられた襟足も相まって少年らしさを演出している。しかし、大きな瞳を縁どるまつ毛の長さが彼女の女性らしさを隠すことができず、凛と主張していた。
桃春は、その瞳と目を合わせるのを避けるかのように顔を背け、夕希の質問に答える。
「あー確かにありますね」
桃春は部屋に戻ってきてから、直立の姿勢を崩さない。夕希の時間を割いてもらっている為、姿勢により少しでも負い目を軽減しようとしているのである。
「今回の件はそれとまったく同じなの。自分にとっての本質は変わってないのに、知っちゃったからこそ、自分の対応を変えちゃうの。さてそれでは問題です、この場合の克服方法は何が〝1番適切〟だと桃春先生は思いますか?」
夕希は直立している桃春へ右手で指を指した。表情からは気分がいいことが読み取れる。
「食べないってのは、克服してませんよね。着色料だけ取り除くとかですかね?」
「桃春先生だいぶ惜しいよ。まず、食べないってのは桃春先生が言うように克服していない。言っちゃえば逃げだよね。でも今回の件に当てはめると、朋美さんはこの選択肢を選んだわけだね。厳密には、好きだった頃を思い出さない位に徹底的に嫌いになろうって感じかな?でもどっちにしたってあまりいい選択じゃない。そして、着色料だけ取り除くってのは正直1番いい選択だね。でもこれは残念だけど『実行できれば』って余計な枕詞が付いてくる位、〝適切〟じゃないんだ。レストランで『この料理、着色料抜きにできますか?』なんて無茶ぶり聞いたことないでしょ?つまり、非常識な奴らでも無理だってわかるくらいに無理ゲーなの。朋美さんの記憶からお父さんの特定の情報を削除できる?できるなら映画館は連日『ショーシャンクの空に』を流してるよね」
夕希の饒舌っぷりは徐々に熱を帯びてきてた。
「じゃあ、現実的な克服方法は何になるんですか?」
「それはきっと着色料の虫を徹底的に調べる、だね。そして今まで食べていた事実と併せて自分の中で納得するのが〝1番適切〟の克服なんだ。でもこれは、食べ物自体にある程度魅力が無ければ成立しない欠点もある。最終的な判断をするときに『そもそもあまり好きじゃない』なんてことも普通にあり得るし———」
ここで、桃春は夕希の言葉をガサツに遮り質問する。
「夕希先生には、朋美さんがお父さんをまだ好きだという確信があったんですね?」
桃春の質問を聞いて、夕希は手を叩いて笑い出した。
「桃春先生の無意識にやっている会話のショートカット本当に大好き。そして、質問の答えはイエスだよ」
11.創作代償
「預かったお父さんの日記帳の中にページの下半分に薄い子どもの指紋が付いている箇所がいくつかあったの。きっとあれは朋美さんが小さい頃の手の跡で、ある年までお父さんの日記帳を隠れて読んでいたんだと思う。それにそう考えると、桃春先生が朋美さんに質問した『絵についての日記への記載』について、勘違いしていた理由にもなるし」
「勘違いですか?」
「日記に記された言葉について、ニュアンス読み違えがあるんだよ。確か該当の日付だと思われる文章には『朋美の自由帳へ、もっと手本になる絵を書いてあげるべきだった』みたいな文章が書いてあったの。あれは全然朋美さんが話したような“もっと上手に書ければ”という意味じゃなくて『もっと朋美が真似しやすいものを書いてあげるべきだった』みたいな後悔の意味に間違いないだよ。だって、あの日記にはお父さん自身のことなんて全く書いてなくて、朋美さんと奥さんのことしか書いてないんだもん」
「……お父さんが亡くなった後の遺品整理で読んだという事はないんですか?」
桃春は夕希の言葉が〝こうあるべきだ〟という先入観からくる解釈の様に感じられ、自分でも誤りであってほしいと願う質問を投げた。
「ないね、絶対。多分読みたくても読めなかったんだと思う。朋美さんが自分でも言っていたように嫌悪感を抱いているお父さんの日記だよ、まず開くこともできなかっただろうね。だからこそ、今回の依頼によってお父さんを殺せたら、区切りとして遺品の日記帳を処分しようとしてたんだよ———」
もし少しでも読むことができれば、お父さんに対する誤解はすぐに解けた。
そして、病院に通うほどお父さんに対して思い悩むこともなかったんだよ。
と、夕希は寂しく言葉を結んだ。
「……でもそれは逆に、思い悩むほどお父さんを心から嫌いになれなかったって証明じゃないですか」
夕希言葉につられる様に、桃春は朋美の胸中を思っての感情を溢した。
あの日記帳1冊1冊には、それ位の力は十分過ぎるほど備わっていた。
日々感じる娘の成長と妻に対する素直な感謝の記録。
日記に自分のことを全く記載しないという不真面目を持ち、真面目に生きた男の記録。
それが夕希が日記帳から感じ取った朋美の父———尚の印象である。
ここまで話し、夕希は壁掛け時計の短針が12時を過ぎていたことに気がついた。
「さて、それでは区切りよく日付も変わったようなので、最後に桃春先生へ宿題を出します。朝になったら朋美さんへ電話して、今回の小説依頼を行った代償を払うように話してきてください」
「今回はお金を取るんですか?」
夕希の普段では考えられない提案に、桃春は素直に驚きの声を上げた。
「そんなんじゃないよ。代償ってのは、①お父さんの日記帳4冊を全て読むこと。②そしてその上でもう一度、投稿してあるあの14篇の短編小説を読むこと。以上2点。あーあと、その理由として伝えてほしいのが———
きっと短編小説の印象はだいぶ変わるはずです。あの短編小説の中には朋美さんが“お父さんへやってあげたかった事”が幾つか織り込まれています。その気持ちの整理のお手伝いができるはずです。
って言葉も添えてね。桃春先生いや、朋美さんからしたら立派な夕希先生!勝手に私のフリをしたんですから、あの分厚い日記帳4冊を必ず朋美さんの元に届けてくださいね」
と、ここまでの短編小説家、門掛夕希として話を終えると、見た目通りの17歳らしい大人を小馬鹿にする表情を浮かべた。
「さあ桃春先生、授業の再開をお願いします」
塾生である門馬歩榎は、既に門掛夕希としてではなく、師事する桃春へ塾講師として責務を果たすように願った。