見出し画像

【書評】妻でも母でもなくなった主人公が「個」を取り戻す。一章ごとに元気が出てくる、栄養剤のような一冊!――『風待荘へようこそ』レビュー【評者:大矢博子】

妻でも母でもなくなった主人公が「個」を取り戻す。一章ごとに元気が出てくる、栄養剤のような一冊!

評者:大矢博子

 元気が足りないときや嫌なことがあったとき、あるいはやる気が出ないとき。決まって再読する小説が何作かある。その中の一冊が、近藤史恵の『ときどき旅に出るカフェ』だ。
 世界各地のスイーツや料理を出すカフェを舞台にした連作ミステリで、日本の常識からは考えられないような材料の組み合わせやレシピがふんだんに登場する。美味しそうなのはもちろん、自分の囚われていた常識がごく狭い範囲のものであったことに気付かされ、視界が開けたような気分になるのだ。私にとって栄養剤のような一冊である。
 そして今回、『風待荘へようこそ』が新たに「マイ栄養本」に加わった。
 45歳で夫からいきなり離婚を切り出された眞夏。娘も夫に着いていくことになり、それまでの生活が一変する。先の見えない中、誘われて京都にあるゲストハウスの手伝いをすることになった。併設のシェアハウスで他人と一緒に暮らすことにも、誰かの妻やお母さんではなく「個」として存在する状況にも、眞夏は戸惑うばかり。そんな眞夏を変えたのは、数々の出会いと京都の食べ物だった──。
 一章ごとに元気が出てくる。
 最初はなかなか眞夏の気持ちがほぐれない。シェアハウスに暮らす波由はピンクの髪でいくつもピアスを開け、就職はせず演劇に打ち込んでいる。アイスランドから京都の大学院に留学しているふうちゃんことフラプニルドゥルは、国に夫と子どもがいると言う。眞夏は、娘が波由のようだったら小言を言わずにはいられないだろうとか、自分だったら家族を置いて留学なんて非常識と言われただろうとか、ついつい「今までの自分」を主体に考えてしまう。しかしそれが次第に変わっていくのだ。
 眞夏が今までとは違う体験を通して少しずつ変わる様子は、まるで体を覆っていた硬い殻が徐々に剥がれ落ちていくようだ。そして殻の下から出てきた新たな皮膚は、これまでの何倍も楽に空気を取り込んでくれる。新たな目は今まで見えなかったものを映すようになり、新たな耳はこれまで聞こえなかった音を受け取る。
 妻でも母でもなくなった自分は「何者でもない」「何もできない」と思っていた。けれどそうではない。人は誰かの妻であろうとなかろうと、親であろうとなかろうと、何者にだってなれるし、何だってできるのだ。なれる、できる、ということに自分が気づきさえすれば。
 彼女の変化のきっかけは、ゲストハウスの滞在客との交流パーティに料理を作ったことと、京都で出会ったいくつかの食べ物だ。喫茶店の卵サンドにマヨネーズで和えた卵サラダではなくだし巻き卵が入っていたことに驚く。パーティに用意した黒豆おこわのおむすびは、冷たいご飯を食べないという中国の習慣を知って急遽変更する。
 新たな発見、新たな知見。レトロな喫茶店のゼリーポンチフロートがあまりに美しくて写真を娘に送ったら、「母としてのメッセージ」はスルーしていた娘からすぐに返事が来た一件が象徴的だ。母としてではない、眞夏というひとりの女性が「きれい!」と思ったものをシェアした。そこには彼女が長年失っていた「個」があったのだ。
 食べ物や異文化を通じて自分のこれまでの狭さを知るというのは、『ときどき旅に出るカフェ』をはじめ近藤史恵の多くの著書に見られるテーマである。と同時に、近藤史恵が数々の作品で描いてきた、自分にかけた呪いを自分で解く、というテーマも本書には色濃く存在する。自分のことは自分で決める、そんな当たり前のことができるようになった眞夏の強さが清々しい。「だよね!」と、彼女とハイタッチしたくなる。これほどまでに元気の出る栄養本があるだろうか。しかも本当に栄養のある京都の料理がどんどん出てくるんだから! 欲望が刺戟されるままにデパートの京都物産展(またちょうどこのタイミングでそんな罪深い企画が……)であれこれ買い込んだら、栄養の摂りすぎで体重計に乗れなくなった。どうしてくれる。
 中盤、ゲストハウスの将来を揺るがすような出来事があり、半年ほど手伝うだけの予定だった眞夏も先のことを真剣に考えるようになる。けれど、きっと大丈夫。「個」を取り戻した眞夏は敵なしだ。そして、彼女に触発された読者もまた「大丈夫」で「敵なし」なのである。
 やっぱり近藤史恵の栄養本は最強だ。

作品紹介・あらすじ

京都でわたしは、食べて、暮らして、前を向く。

南天の木の植わった坪庭がある、京都の小さなゲストハウス「風待荘」。家族を失い東京からやってきた眞夏は、ここでしばらくオーナーの仕事を手伝うことになった。泣きたい毎日を変えるきっかけをくれたのは、料理。古い台所で作る九条葱と厚揚げの衣笠丼や、すぐきの焼きめし、近所で出会ったふわふわのだし巻き卵のサンド、レトロな喫茶店のゼリーポンチフロート。同居する四人の女性やお客さんと食卓を囲む時間に心を癒やされていくなか、まさかの人物が眞夏を訪ねてやってくる……。

書 名:風待荘へようこそ
著 者:近藤史恵
定 価:1,980円(本体1,800円+税)
発売日:2025年1月29日
詳 細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322308001040/

★全国の書店で好評発売中!
★ネット書店・電子書籍ストアでも取り扱い中!
Amazon
楽天ブックス
電子書籍ストアBOOK☆WALKER
※取り扱い状況は店舗により異なります。







いいなと思ったら応援しよう!