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非合理性に溢れた人間が好きだという話
はじめに
非合理的な行為にこそ人間らしさがある。そう思い始めたのはいつ頃だっただろうか? 中学高校、そして大学へと上がるにつれて増大していく自意識と共に、人文学領域に足を突っ込み始めた私だが、この一種の本質じみたものは今もなお私の中で揺らぐことなく明確な答えとして自身の心に息づいたままだ。
人間の本質という、数多の答えがあり得る命題に何かしらの答えを断定してしまうことはひどく無作法なのはわかっているつもりだが、せっかくの機会なのだ。私の根幹に関わるような考え方を文章にしてみるのも面白いのかもしれない。
非合理性に見出す人間らしさ
誰かに「人間らしさとは何ですか」と聞かれたときに、私は非合理的な思考ができ、その結果に納得できるという点こそが人間らしさだと答える。因みにここでいう非合理的な思考というのは、必ずしも最善の結果に至らない行為に自身の判断を委ねることの出来る思考のことだ。
具体的に言えば、絶対に振り向いてもらえないアイドルといった有名人を相手を前にして、人知れず恋心を抱き続けてしまう情動や、もう戻らない死者が戻ってくることを願って遺族が生前の遺品を捨てずに残しておくような執着などだ。これらの例を読んでみてあなたはどう思っただろうか? 人によるかもしれないが多くの人は一見無駄に見える行為に何処か意味を感じざる得ない気がする気がするだろう。私はそういった人間の非合理性にこそ真の人間らしさがあると考えている。
しかし、これらの行動は合理性という名の価値観の前では、結局のところ間違った行動として捉えられてしまう。もっともな話だ。だってどうしたってアイドルは一般人の私達には振り向いてくれないし、死者だって都合よく私たちの元へと戻ってきてはくれない。
では彼らの為す行為は所詮はやはり無駄に過ぎないのだろうか? 合理性を持たないものは全て無意味だと割り切ってしまうべきなのだろうか?
合理性にまみれた社会
確かにある程度は合理性は大事だと思う。というか寧ろ現代はそういう考え方が一般的だし社会はそれを一つの揺るぎない正義として標榜している。
それこそ私はどちらかといえば行動の指針に合理性かどうかを当てにしている節があるくらいだ。振り返ってみてなんともドライな人間だなあと思ったりもしている。まあこればっかりは自身の身を守る処世術のようなものであるし、自身の好き嫌いとは区別するべきものだと思っているのもまた一つの本心ではあるのだが。
だが、おそらくこの考え方は考え方でどこか人間の大事なものを何か落としてしまっているのではないかと思うことがある。というのも、合理性を前提とした人間の行為ではそこに至るまでの感情が形式ばってしまいどうにも寂しく思ってしまうからだ。
例え無意味だと分かっていても
改めて人間らしさって何だろうと考えた時に、私の求める答えは結局、人間の非合理性に行き着く。
勿論、合理性ある行為行動が悪いとは言っていない。すっきりと無駄のないことは一つの美徳だとは思うし、前述のとおり私だってそういう価値観に意味を見出しながら生きているのは確かだ。
でもどうしても、私はそこに人間らしさを感じることは出来ないのだ。
もしかしたらこの考え方は単に、この合理性にまみれた現代社会の中でシステマティックに行動を決めてしまう人間に辟易したから、のような消去法的なものなのかもしれない。だが、この考え方は別に変わっているほどのものではないのだろう。今ではかえってこのある種の”回りくどさ”を見るたびに安心するくらいだ。何処か機械ではない生き物としての自分自身を認識出来るだけでなく、人間の温かみのようなものを私に思い出させてくれる。
例え無駄なことだと分かっていても、人である以上どうしてもやってしまう非合理的な行動の数々。
私は遠回りですらないこれらの行く当てのない煩悶に、究極の美しさを見出しながら日々を生きている。