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勉強を教える前にやることがある気がしてならない話
※この話はくもんの批判ではありません。
息子(5歳)、くもんで算数をやり始めた。
くもんの算数は、
将来の受験勉強に役立つという事をネットで見たし、
息子も計算が好きなようなので、そうした。
あと私が算数コンプレックスなので、息子にはそうなって欲しくないから。
(私は計算が壊滅的にできない。)
公文教材はよく考えられたシステムだ。
先生の話では、足し算の基礎を大量にやることで式の『型』を覚え、
引き算になると『型』を覚えてれば応用でわかるようになるようだ。
(そんなようなことを言っていた)
さらに時間を測る。
今は宿題1セット10分以内でやるのが理想と。
ふむふむ。
そうかそうか、これが公文というものの正体だったんだね。
(私は子供の頃、公文をやったことはないのでずっと謎だった)
謎が解けたわ。
入会前、先生から説明を聞いている時からずっと
心にもやもやしたものが渦巻く。
『幼少期からこんなにシステマチックな教育が必要だろうか?』
『時間を測る?じっくり考えることを良しとはしないのか?』
『こんなのただの計算マシーンになるだけじゃないか?』
『だから受験には強いのか?』
『これは本当の数学好きなどを生み出す場ではないのだな』
などなど。
そして、
『これやる前に、息子は自然遊びを十分にやってない!』
『ついに息子は教育という渦に巻き込まれてしまった!』
と猛烈に思ったのだ。
仕事に忙しくしてて、
私は息子の幼少期を一体何してたんだろう。
もう5歳になってしまった。
この段階に行く前に、やる事があったはずだ。
春は花を育てたり、ハイキングなどしたり。
夏には海に行き(数回行った)、虫を見たり、夜空を見たり。
秋には枯葉で思う存分遊んだり、紅葉を見に行ったり。
冬には部屋で飾りを作ったり、雪のある場所へ行ってみたり。
そんなことが子供を産む前、
私が思い描いていた育児だった。
こどもの貴重な幼少期、
私は仕事をせざるを得ず(家計を支えるために)
そういった事のほとんどを後回しにしていたら、
もう子供は勉強をする年齢になっている。
私の心のアラートがビービーと鳴り光り出す。
勉強の前に、もっと大切なことがあるだろう。
息子の心は満ちているか?
すかすかではないか?
現実は、毎日家でYoutube。
私の仕事終わりを後ろで待ちながら、
暇そうにしているだけだ。
ああ、ほんと私何してるんだろう。
まだ5歳、間に合うだろうか。
遅いかもしれないけど、
小学低学年のうちに、
たくさんそういう経験をさせたいと
猛烈に思ったのだった。